この日は飲み会で、ちょっと早起き。
普通は紀伊駅に歩いて行くのですが
今日はかなり早かったので、六十谷駅まで
歩く事に… そこで見つけた看板
菖蒲井戸 です
菖蒲井戸の由来
千寿河原は、昔は被い川とも言われていた。西方を流れる千手川は千手寺
の旧地であったところから千寿川から千手川と名付けられた。
千手川は昔は川巾もかなり広かったが、後世に至り西の方に僅かばかり残して
多くは田畑として開拓したため、徐々に狭くなり、川と縁が切れた地に菖蒲
などの植物が生い繁り音蒲ヶ池とか、伖い池と言われ菖蒲井戸と周囲
三畝余りを残したのがこの地である。
千手川は広い川で日前宮の南を流れていた紀の川に合流していた。
千手川には、日前宮の伖い湯が七箇所あったうちの1つがここ菖蒲井
戸にあり、「七瀬の伖い」の其の1として伝わっている。
年代 四條天皇御世 嘉禎元年 西暦1235年(751年前)
昭和 61年3月 直川地区連合自治会
直川史保存会
千寿河原は、昔は被い川とも言われていた。西方を流れる千手川は千手寺
の旧地であったところから千寿川から千手川と名付けられた。
千手川は昔は川巾もかなり広かったが、後世に至り西の方に僅かばかり残して
多くは田畑として開拓したため、徐々に狭くなり、川と縁が切れた地に菖蒲
などの植物が生い繁り音蒲ヶ池とか、伖い池と言われ菖蒲井戸と周囲
三畝余りを残したのがこの地である。
千手川は広い川で日前宮の南を流れていた紀の川に合流していた。
千手川には、日前宮の伖い湯が七箇所あったうちの1つがここ菖蒲井
戸にあり、「七瀬の伖い」の其の1として伝わっている。
年代 四條天皇御世 嘉禎元年 西暦1235年(751年前)
昭和 61年3月 直川地区連合自治会
直川史保存会
と有るはずです。
私が小さい頃は、確かに沼地だったな~
そして近くに銭湯も有った気がしますが…
今は住宅地となってまして、面影すら有りません。
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