噺のわかる人。since 2005

主に映画情報、時々ラルク&HYDE情報をお届けします。

映画感想文・特別編 「紅の豚」

2006年09月27日 | 映画感想文
【紅の豚】


『紅の豚』の分析文を書く機会があったので、特別編としてやってみる事にしました。いつものように作品の感想としては少しずれているというので、特別編という形に落ち着きました。


まず、なぜ「主人公が豚なのか?」という点に触れてみよう。

それは、最初の冒頭シーンですでに語られている。人がまず住まないであろうアジト(秘密の浜辺)で、一人で住んでいる(映像では、そこにいる)というのを見て、豚=人間社会にはとけ込めない、人と違う、人と関わりを持たない。という象徴として、具体的に〝豚〟として描かれているのだと思う。

だから、映像にすれば最初のインパクトにもなるし、視聴者をぐっと引き込む事ができる。


次に、「主人公はいったい何をやっているのか?」というのをテンポよく最初の十分で描かれている。この十分間で、主人公は賞金稼ぎを生業としている事がわかる。

宮崎作品の構成の特徴として、激しいシーンがあった後は、静かなシーンを持ってくる、というのがある。この十分の後、場面はバーのシーンに変わり、ジーナ(ヒロイン1)が登場する。ここで今度は主人公の過去と、魔法をかけられて豚になった、ということに少し触れる。これも十分で描かれている。大迫先生が言っていた10%理論で言えば、二十分で、主人公の事を説明している。

話は進み、主人公は、ライバル・カーチスとの勝負に敗れ、愛機が壊れる。修理に出し、そこでフィオ(ヒロイン2)に出会う。フィオは着いてくるが、これは最後のリターンマッチをするための要因だと思う。まず、主人公が負けているわけで、主人公の性格上、リターンマッチを申し込むという事はありえない。そこで、リターンマッチをするためには、第三者の介入が必要になってくる。だから、フィオを連れていかなくてはならない。しかも、賭け事で男を賭けるなんて話は聞いた事がないし、絵的に気持ち悪くて、視聴者も乗ってこない。つまり、女にする必要があるわけだ。主人公も、女を賭けられたら負けるわけにはいかない、という使命感に燃える。修理工のオヤジに託されているから余計だ。


最後に、リターンマッチをするが、主人公のポリシー上、武器は使わない。しかも、飛行機同士の戦いで決着がついても、クライマックスとしてはいまいちパッとしない。だから、最後は肉弾戦(ボクシング対決)に移行したのだと思う。フィオを巡って男同士が殴り合うというのは、一番視聴者にわかりやすい。そのシーンから見た人も何となくわかる。


ラストで、主人公が豚から人間に戻ったのは、単にキスをされたから、という安直な理由だけではないような気がする。もしそうなら、人間に戻ったら、主人公はすぐに人間社会に適応しならければいけないという状況になり、アジトで住めないという事になる。それでは最初の冒頭シーンの意味がなくなる。

つまり、豚から人間に戻るというのは、主人公の意思でなければならない、という事が言えるのではないだろうか。おそらく、キスで戻るというのは、子供視聴者向けの設定であり、大人視聴者用の設定も用意してある、と思った。勿論、後者が本当の理由であるが、そこは人それぞれ意見がわかれる部分だと思う。その理由は、宮崎作品の特徴から類推できる。

宮崎作品のもう一つの特徴として、彼は抽象的な感情の変化などを映像に具現化して表す手法をよく使う。『ハウルの動く城』が一番わかりやすい。『ハウルの動く城』では、主人公ソフィーの感情の動きによって、外見が老婆になったり、若くなったりする。それと同様、豚というのも一種のそれで、実は、豚になったのは自分の意思なのではないだろうか。

ラストの決闘シーンで、ヒロインが到着し、「女性を二人も泣かせる気?」みたいな発言をしていると思うが、ここで主人公は〝男のけじめ〟をつけようとしたのではないだろうか。豚は男ではないから、けじめをつけられない。だから、人間に戻るしかない。そのきっかけを与えたのはフィオの最後のキスだ。けじめをつけたと言っても、それはヒロイン二人に対してであって、全ての人間に心を開いたわけではない。その証拠に、カーチスには顔を見せていない。


以上が、僕の独自の分析です。
なので、「それは違う」と言う意見もあると思う。
不特定多数の一分析として捉えてもらえると嬉しいです。





最新の画像もっと見る