備忘録

忘れないための頭の中のメモ帳

表側と裏側の違い

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 念の世界と言うのは現実性があるため、間違った方向の念いであっても、確かに実現してしまうのです。

 

  • したがって、方向性というものが極めて大事になります。

 

  • ここで、「念」による自己実現をするときに、どうしても考えてほしいことがあります。

 

  • それは、絶対に、「念」によって他人を縛ろうとしてはいけないということです。

 

  • こういうタイプの自己実現は、間違えば地獄です。間違わなかった場合でも、裏の世界です。

 

  • 「他人を自分の都合のよいように変えていこう」とするような念の使い方で道を開いてきた人は、必ず裏側に行きます。

 

  • それはなぜでしょうか。そこに愛がないからです。愛が欠けているのです。

 

  • これは「自己愛」なのです。本当の「与える愛」や「利他の愛」ではないのです。その結果、賞賛を得ることもあるでしょうが、それは天狗や仙人の世界なのです。こういうところで「表」と「裏」が分かれるわけです。

 

  • 表側の世界は、本当に他の人によかれと思って自己実現していく人々の集まりですが、裏側のほうは、自己発揮に燃えている人たちの世界なのです。

 

『真説・八正道』 第8章 正念


wish と desire(ウイッシュとディザイア)

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 「できたら、こうなってほしいな」というのが「wish(ウイッシュ)」です。

 

  • 「こうなってほしい。いや、なってもらわねば困る」というものが「desire(ディザイア)」です。

 

  • 実は、ここが、希望実現における「思い」と「念」を分けるところになるのです。

 

  • 「desire(ディザイア)」までいかなければ、希望は実現しないということです。

 

  • 「こうなったらいいな」と思っているのに、障害にぶつかってしまうと、結局、実現しなくなってしまいます。そういうものに二つくらいポンポンと当たると、もうだいたい諦めてしまうのです。これが大多数の人の姿でしょう。

 

『真説・八正道』 第8章 正念


正しい精進

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 私たちが目指しているものは、「どこででも通用する人材の育成」です。「仏法真理の空間だけで通用して、それ以外では通用しない」というような人をいくらつくっても、世の中は変わりません。

 

  • 仏法真理を学んで心が変わり、そして、その光を世の中にも還元できるようなみなさんであって初めて、修行が生きていると言えるのです。

 

  • 私たちの正精進とは、決して、「千日回峰」のように山の中を歩いたり、滝に打たれたりすることでもなければ、仏法真理の知識をたくさん詰め込んで、それを競うようなものでもありません。これらはあくまでも材料であり、仏法真理を学ぶことによって、実生活にその光がでなければ、まったく意味がないのです。

 

  • 仏法真理に触れることによって心がくらりと一転し、心を開き、自己改革に取り組み、自分の欠点を修正し、いっそう素晴らしい、今までになかったような完成度の高い人間になっていただきたいのです。

 

『真説・八正道』 第7章 正精進


常勝思考

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 「この世に無駄なものは一つもない」と思えば、うまくいかないときにおいても、「これは何かを自分に教えようとしているのだ」という観点から見たときに、納得するものが必ずあるはずです。そして、そこから得られたものは、必ず、次なるチャンスに生かされることになっていきます。

 

  • 「上向きだと思うときに、もう一度、足場を固めていく」「人からほめられればほめられるほど、謙虚な姿勢を強めていく」という考え方が大事です。

 

  • こういう考え方が「常勝思考」といわれる考え方なのです。

 

  • 「失意、挫折のときには必ず教訓を学ぶ。そして、得意のときには、さらに努力を積んでいく」というのは、絶対に誤らない生き方です。

 

  • 「自分は神の御加護を得、守護・指導霊たちの力を得て、これほど成功しているのだ」と思うのなら、「この期待に応えて、よりいっそう頑張ってみよう」と思わなければ駄目です。

 

  • 逆に、「これは自分の力なのだ。当然のことだ」と思い始めたら、そこであなたの魂の向上は止まると思ってください。

 

『真説・八正道』 第5章 正業


Work と Labor(ワークとレイバー)

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 例えば、料理をつくる際にも、「心を込めて」という言葉がありますが、子供たちやご主人の健康のことを十分に考え、そして、今の健康状態や仕事の内容から栄養バランスといったものを考えた上で意図してつくる料理は、ワーク、仕事に当たります。

 

  • しかし、もし、何の気なく材料を集めて、ただつくっているだけであれば、これはレイバー、労働に当たるわけです。

 

  • こうした「心の価値」の含み方によって、外見的には同じことであっても、二つに分かれます。

 

『真説・八正道』 第5章 正業


魂の進化と仕事能力

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 職業における訓練・鍛錬・努力というものが、はたして魂に影響があるのか」といえば、「大いにある」と言わざるをえません。

 

  • 高級霊界の人たちを見ていても、魂的に進化している人ほど、「仕事」ということに関しては幅広い活動が可能なのです。実際、非常に広範な仕事をしています。

 

  • それはなぜかというと、魂修業として、九次元まで行っても残るものに「指導力」という面があるからです。魂の修行の目標として指導力という面が残っています。六次元以降はだんだんと指導者になっていく歴史ではあるわけですが、指導力という魂修業の課題は残っています。

 

  • この指導力を増していくためには、どうしても仕事というものができなければ駄目なのです。

 

『真説・八正道』 第5章 正業


間違った言葉を出したら、素直に謝る

2024-03-02 00:00:00 | 
  • 一日を終わるときに、その日に話したことを音声で聞かされたとしても、何とか安らかな眠りにつける状態まで努力すればよいのです。

 

  • ここで問題になるのは、言葉で特に他人を傷つけた場合です。相手の心に何年も何年も残っているようなことで、言った本人も、実は反省していることがよくあります。その場、あるいは翌日、または一週間以上たってから、反省していることは多くあるのですが、自分が心を改めた、考え方を変えたということを、どうしても語れない人がほとんどです。悲しいことに、九割以上の人がそうなのです。

 

  • たいていは言葉で嫌われていると思います。不用意に出した言葉が原因となって、他人から嫌われているのです。それが一言ぐらいなら許されても、二回、三回、四回と続いたら、他人はもう許してくれなくなります。

 

  • 他人から嫌われていると思うような人は、実際は、他人を傷つけるようなことを言ったことがある人なのです。他人を傷つけたり、他人の感情を害したりしています。そして、害していることに対して、何もアクションを起こしていないのです。

 

  • そうであるならば、「私はあのとき、本当に間違っていました」と相手に言えば、そんな悩みは、ほんの数分で終わるのです。謝ってくる人に鞭を打てるような非情な人は、それほどはいません。

 

  • 自分にとっての長年の苦しみだと思っていることというのは、実はプライドで引っ掛かっているだけのことがあります。

 

  • 「上司が自分をいじめ続ける」などと思っていても、何のことはない、実際は自分のほうが言うことを聞かずに、なんだかんだと生意気に反抗したり、仕事をしなかったりしているわけです。そのようなことが引っ掛かっているだけのことであって、態度を改めて「申し訳ございませんでした」と言えば、もうそれで済むようなことを、‟永遠の地獄”をして自分でつくり出しているのです。

 

  • 地獄霊たちは特にそうです。「絶対に反省しない」と頑張っています。「絶対に認めない。俺は悪くない!」と言い切っています。こういう者に対しては、「ずっとそこにいなさい」という以外にありません。「申し訳ありませんでした」という反省が、彼らにはできないのです。

 

  • 間違ったと思ったら、素直に「ごめんなさい」という気持ちを出さなければならないのです。これだけのことで、どれほど幸福になるか分かりません。

 

  • 人の感情を害したと思ったら、もし、それが誤解によるものであったとしても、自分を縁として起きたことであるならば、「それは自分の表現の仕方が悪かった」と素直に認めるぐらいの度量はいるでしょう。

 

  • 真意とは違っていることがあったとしても、誤解されたのであれば、そのコミュニケーションの仕方に問題があったということですから、その部分は認めなければいけません。

 

  • 最低限、その部分については反省しなければいけません。

 

 

『真説・八正道』 第4章 正語


「正思」のための三つのチェックポイント

2024-03-02 00:00:00 | 

真に神仏に近づいていくための心構えとして、「素直さ」「自助努力」「謙虚さ」というものが必要だとするならば、これに反する思いが「正思」を妨げているというふうに考えてもよいわけです。

 

(1)「素直さ」を妨げるもの ―自我の殻

  • 素直に取り組もうとする姿勢、教えを受け、学び、向上していこうとする素直な気持ちを阻害するものは何であるか、ということについて考えてみる必要があります。

 

  • そこに出てくるものは、自分が過去何十年かの間につくってきた‟殻”です。「自我の殻」がこれを妨げるのです。

 

 

(2)「自助努力」を妨げるもの ―他人・環境のせい

  • 神仏の念いのなかに、すべてのものの進化・発展を願う心がある以上、そして人間が神仏の子である以上、伸びていかざるをえないという宿命を持っているのです。

 

  • したがって、「正思」の次なる点検ポイントは、「自助努力」の姿勢そのものの点検となるでしょう。自分の生き方のなかに、真実、向上に向かって自助努力している姿勢があるか、裏返して言うならば、環境のせいばかりにしていなかったか、他人のせいにしていなかったか。このような点検が要るわけです。

 

  • 八正道の「正思」において最も大事なことの一つが、「環境と他人のせいにしている自分」の発見です。

 

  • 「『他人のせい』『環境のせい』だという気持ちになる前に、もう一度、自分というものを深いところから見つめ直してみよ」と、私は繰り返し説いています。

 

  • 今の自分は、自分自身の「判断」と「選択」の結果によってそうなっているのではないか。

 

  • 同じ環境に置かれたとしても、同じ条件下に置かれたとしても、同じ悩みのもとに置かれたとしても、人によって生き方は違う。

 

  • 同じ条件であっても、同じ力と同じ方向が与えられても、同じにはならないのです。その環境のなかで幸福になる人もいれば、不幸になる人もいます。その結果を招来しているのは、自分自身です。自分の心です。

 

  • 「自分の責任として受け止める」ということです。この「責任の自覚」こそが、自助努力の原動力になります。

 

  • 自助努力の出発点は「責任感の自覚」であります。「自己の責任として認める」という気持ちです。このことをできない人が「自分がかわいい」という方向へと動いていくのです。これを「プライド」と称していますが、このプライドの厚い外壁によって、神仏の光を遮り、反省をできないようにしているのです。

 

  • このプライドの壁を打ち破る方法は「責任感の自覚」です。「自己の責任として、しっかりと受け止める」という態度です。

 

 

(3)「謙虚さ」を妨げるもの ―嫉妬心と自己顕示欲

  • 謙虚さがなるなると、どうなるでしょうか。これは、自分が「お山の大将」でないと気に食わなくなってくるということです。

 

  • 「お山の大将」の特徴はどこにあるでしょうか。まず、「他から学ぼうとしなくなる」という傾向が一つあります。また、「自分の立場を合理化、正当化していく」ということに走るようになります。そして、その結果どうなるかといえば、「進歩への意欲」を放棄するようになります。さらには、「他の者の追い落とし、蹴落としにかかる」というふうになっていきます。

 

  • ここで、特に注意を促しておきたいことは、「他の者の幸福を祝福する心を失っては終わりである」ということです。

 

  • 真に謙虚であれば他の人の幸福を祝福することもできますが、自分が傲慢になればなるほど、他の人の幸福を素直に喜べなくなってくるのです。「幸福は自分だけのものであって、他の者には幸福の享受を許したくない」という気持ちになってきます。

 

  • 自分がもっともっと愛を受けたいと思っているのに、他の者が愛を受けている姿を見ると、我慢がならないのです。そして、表となり裏となって、いろんなことを引き落としにかかるのです。

 

  • こうしたものも、「正しい思い」のところでチェックしなければいけない部分です。これは、「嫉妬心」「やっかみ」「嫉み」「妬み」といった言葉で表される思いと言ってよいでしょう。

 

  • 「人間は太陽の光を浴びて生きているような存在である」ということを決して忘れてはなりません。太陽の光(仏の光)は、善人にも悪人にも、同じく光を投げかけています。

 

  • ところが、そのように惜しみなく与えられている光を、スポットライトのように自分一人に集めたいという気持ちになってくるわけです。

 

  • そして、自己顕示欲という問題も出てきます。

 

  • 自己顕示欲がなぜいけないかといえば、他の人の心の安らぎを奪ってしまうからです。また、本来であれば他の人に流れるべき愛を、自分のほうへ持ってこようとするからです。

 

 

『真説・八正道』 第3章 正思

 


「正思」に必要な三つの姿勢

2024-03-02 00:00:00 | 

神仏の心に合致する正しい心を持つためには、どうしたらよいのでしょうか。

(1)素直さ

  • 第一の姿勢は「素直さ」ということです。

 

  • より高次な教えを受けるに際しては、素直な心を持っていなければ受けることができないのです。

 

  • 今、地上に生きている自分にそれなりの肩書があったり、地位があったり、学歴があったり、容貌があったりしたとしても、「神仏の創られたこの偉大な空間のなかでは小さな点でしかない」という事実を知ったときに、自分の思いで世界を測れるはずはないのです。この前提を忘れてはいけません。

 

(2)自助努力

  • 第二に必要なことは「自助努力」の姿勢です。

 

  • 私は「自力」ということの大切さについて、だいぶ強調していますが、この考え方は、人をミスリードしやすい、すなわち誤解に導きやすい面があるとも感じでいます。それは、言葉の解釈によって間違いが起きやすいということです。この自力ということを、もし「自我力」というように捉えるとするならば、神仏の世界に対するアプローチはまったくのゼロとなります。それは、地上に生きている三次元人間が、自分の心から湧いてくるとおりに動けばよいことを意味するので、探究・学習というものがまったくありません。

 

  • ですから、この「自力」という言葉は‟自助努力”と読み替える必要があります。

 

(3)謙虚さ

  • 第三に大事なことは「謙虚さ」というものです。これは「素直さ」とも多少の関係があります。

 

  • 悟りには悟りには階梯が付きものであり、その段階を上がっていくわけですが、上がれば上がるほど謙虚になっていくという気持ちを持っていないと、これもまた光が通りにくくなってきます。自分が高くなると、特別な意識が出てきて、その意識が光を通さなくなっていくのです。

 

  • この「特別な意識」とはいったい何でしょうか。それは、「プライド」や「自尊心」といわれるものと非常に近いものです。あるいは、悪い表現をすれば「慢心」や「小成」という言葉にもなるでしょう。ここが次なる関門として、非常に難しいところなのです。

 

  • 素直な気持ちで始め、自助努力の姿勢を上がっていくわけですが、次第に「我」が出てきたり、「うぬぼれ」が出てきたりする段階があるので、ここでもう一つ、謙虚さというのが探究されなければならないわけです。

 

仏法真理の世界に身を置くためには、この三つの姿勢がどうしても必要なことになってきます。

 

 

『真説・八正道』 第3章 正思