備忘録

忘れないための頭の中のメモ帳

「心が変われば環境も変わって見える」「心に応じた環境が現れてくる」

2024-02-29 00:00:00 | 
  • 「正しく見る」ということにおいては、「周りの世界をどう見るか」ということも非常に大事です。

 

  • 「生かされている世界が見えるか、見えないか」ということです。

 

  • 幸・不幸の原因のほとんどは、「自分を取り巻く環境をいかに見たか」にかかっていることが多いのです。

 

  • というのも、百パーセント完全な理想的環境というものはないからです。

 

  • ここに、環境に関する二通りの見方があります。

 

  • 第一の見方は、「心が変われば環境も変わって見える」という考え方です。

 

  • いま一つの見方は、「心に応じた環境が現れてくる」という考え方です。

 

  • 第一の見方と似ていますが、少し違います。前者は、「与えられた環境をどう見るかに工夫をする」ということで、後者は、「与えられる環境そのものが変わってくる」ということです。

 

  • そうして、見方を変えていくときに、どちらかの現象が起きます。環境を見る目を変えたとき、まず、現に与えられた環境自体が違ったように見える場合と、環境に対する見方を変えたために新たな環境が与えられてくる場合と、この両者があります。どちらも真理です。時間的ズレはありますが、第一の場合から第二の場合へと移行していくことがほとんどです。

 

『真説・八正道』 第2章 正見

 

 


霊的に成長する程、多様な見方ができるようになる

2024-02-28 00:00:00 | 
  • 「いろいろな見方ができる」ということ自体、「私たちの霊格、人格が進んできている」ということなのです。

 

  • 霊的成長が高まれば高まるほど、いろいろな角度から物事が見えるようになってくるのです。

 

  • ただ単に多様であるだけでは駄目です。多様な認識は必要ですが、多様な認識が多様な結果だけに終わってしまったならば、「そこには何らの霊的努力がなかった」ということなのです。

 

  • 「こういった見方もできる。ああいう見方もできる」と、さまざまに考えた上で、「では、現在ただいまの自分の仏性の許す限り、霊性の許す限り、全身全霊の判断として見て、どう結論づけるか」ということを出さなければいけないのです。これを回避してはならないのです。

 

『真説・八正道』 第2章 正見


正しく人を見るための判断基準【正見】

2024-02-28 00:00:00 | 
  • では、「他人を見る」「自分を見る」ということの正しさは、どこに力点を置いて捉えなければならないのでしょうか。どういうところに注意して見なければならないのでしょうか。

 

(1)

  • 他の人を見る際の判断基準を述べると、第一段階においては、「目に映った他人の姿」を情報として客観的に捉えることが大事です。

 

  • 第一段階においては、主観を交え、それを判定しようとしてはなりません。まず客観的に見るということです。どういう人となりであるか。どういう行為であるか。どういう表現の仕方であるか。どんな表情であるか。これをまず客観的に捉える必要があります。

 

  • このときには、できるだけ「無私」であることが大事です。私心を入れないで、まず観察をする。この観察が第一段階です。

 

(2)

  • その次にあるのが、「自分の目に映じたその人の姿を、自分はどう感じるか」ということです。まず、客観的にその姿を見、その次に、「それを自分はどう感じるか」を知るのです。

 

  • その人のありようを何らかの感情を持って眺めるはずです。この感じ方、「自分はどう感じたか」ということを知る必要があります。

 

(3)

  • そして、第三段階は、「自分が感じたその姿は、相手の立場に立ってみたら、どうなるか」ということです。

 

  • 例えば、自分はその人を「きつい人だな。厳しい人だな」と見た。しかし、こういう見方について、その人の立場に立った意見を聞かされたら、どのように感じるだろうか。自分の見方を、その人は「正当だ」と思うだろうか。「半分ぐらいは当たっている」と感じるだろうか。「まったく当たっていない」と感じるだろうか。

 

  • こうしたことを推測し、忖度する必要があるのです。

 

  • この推論をしてみるだけで、「自分とは意見のズレがあるだろう」と思える人がいることに気づきます。

 

  • ピッタリと一致することもあれば、まったく外れてしまうこともありますし、ある程度、重なっていることもあります。

 

(4)

  • こうして三つの見方で見た映像を通過した上で、四番目にしなければならないことは、「仏法真理の基準から見たときに、自分が見た相手の像の解析、印象と、相手の立場を想定したときの相手の像の印象と、どちらが正しさに近いかを考えることです。この両者を仏法真理の立場において考えてみる必要があるわけです。

 

  • この「仏法真理の立場において考える」という作業に、みなさんが日頃勉強している仏法真理の知識が役に立ちます。

 

  • 例えば、「こうしたタイプの人に対して、高級諸霊はどのように考えていただろうか。また、自分がこういう人から受けた印象、自分が思ったことに対して、どのように理解せよと言っておられるだろうか」と考えてみる必要があります。

 

  • 点検の結果、お互いにまったく違うように見えているものについては、それをどこかで一致させる必要があります。この作業の部分が本当の反省です。

 

(5)

  • 四段目の「仏法真理の基準に照らして、あるいは仏法真理の知識に照らして見る」ということもなかなか困難な部分はあるので、そのときには、もう一つ違った方法があります。

 

  • それは何であるかというと、「心を空しゅうして、神仏と心を通わせる気持ちで、神仏の心に通じる気持ちで、静かに自分の思いと相手の思いを見てみる」ということです。

 

  • 空しく、まったく利害というものを放下し、そして、執着というものを去って、自分のあり方、他人のあり方などについて見てみるのです。

 

  • こうしたときに、例えば、自分の受ける相手の印象が悪かったとしても、「実はとんでもない考え違いであった」と気づくこともあります。「相手の立場の方がやはり正しかった。そのように見れたら、相手は『不当だ』と思うだろうけれども、そう思うほうが正しい」ということもあるのです。

 

 

『真説・八正道』 第2章 正見


自他の姿は合わせ鏡

2024-02-28 00:00:00 | 
  • 「いろいろな人を正しく見る」ということと同様に難しいのが、「自分自身を正しく見る」ということです。

 

  • これは、「他人を正しく見ることができない人は、自分自身をも正しく見ることができない」と言うこともできます。あるいは、「自分自身が見えない人は、他人を見ることもできない」と言い換えることもできます。

 

  • 真に自分自身を知らぬ人は、他人を知ることもできません。

 

  • それは、「自分自身の中に神の子、仏の子を発見できなかった者は、他人の中に神の子、仏の子を発見することもできない」ということと同じです。

 

  • また、他人の中に神仏の心に反する心を見ることのできない人もまた、自分の中に神仏の心に反するする姿を見ることができません。

 

  • したがって、「他を見る」ということと、「自己を見る」ということは、合わせ鏡を見ているようなものであり、自と他の両方を見て初めて、本当の姿が見えてくるのです。

 

  • 自と他はまさに、合わせ鏡なのです。

 

  • 「他人だけが見えて自分が見えない人」もいなければ、「自分だけが見えて他人が見えない人」もいません。両方が見えなければ、「本当の自己像」「本当の他人像」「本当の世界像」は決して浮かんでこないのです。

 

 

『真説・八正道』 第2章 正見


真説・八正道

2024-02-28 00:00:00 | 

【改訂・新版まえがき】

  • 原著は、今から三十一年前、著者三十二の折に、当時、西荻にあった幸福の科学道場での、四回連続の講義がもとになっている。

 

  • とても現代的で、初心者にも分かりやすい内容だ。

 

  • 生・老・病・死の「四締」と「八正道」が、釈迦仏教の、中軸と思われる。簡単には「四締・八正道」とよばれる。この後に「中道」の境地が生まれ、「智慧」が得られると考えられていた。

 

  • 本書では原本の分かり易さを生かしつつ、折々に三十一年後の教団のありようと、根本仏教的思考を加味した。一層、魅力的な形で、世に問えることをとてもうれしく思っている。


2020年5月30日

 

 

【改訂・新版あとがき】

  • 本書では、原著の八正道の順序を、伝統仏教的な順序に並びかえた。

 

  • 具体的には「正思」「正語」「正業」といった順に戻した。

 

  • 今世では、自分自身が「正語」の悟りから入ったので、前著ではそのようにしたのだが、釈尊の八正道と同じ順序にしておいたほうが仏教を学ぶには良かろう。

 

  • また、講義時点では、商社マンを辞めて二年半ぐらいだったので、ややビジネス的な解説が多かった。

 

  • それゆえ、今回は、章の終わりに、仏教的な要点解説もつけ加えておいた。勉強が進んでいる方は、こちらも重視して下さるとよいと思う。

 

  • 現代人には「八正道」は難しいと思うが、私の現代の気持ちを込めて、『真説・八正道』として改めて世に問うものである。


2020年5月30日


失敗する人が一定の率で出ることで「法種」ができる

2024-02-28 00:00:00 | 

源頼光

  • 一定の比率でそういう人(宏洋氏みたいな人)が出てくることで、「法種」ができて、あとは、誰について説いたものかは分からなくなって。まあ、それでいいんじゃないですか。

 

  • 釈尊だって、一緒に生活している人のなかで、まあ、みんな悟りたくて来た人たちなんだろうけどね、現実は、問題がいっぱい起きて、そのつど法が説かれているので。

 

  • 誰のために説いた法かは分からないんだけれども、そういうことで法が説かれるので。全部が‟ピッカピカの善人”でもいけないんじゃないでしょうかね。

 

『源頼光の霊言』 第2章 

失敗する人が一定の率で出ることで「法種」ができる


妖魔の特徴

2024-02-28 00:00:00 | 

源頼光

  • 妖魔はね、妖怪的特徴を持ちつつも、明らかに目的性を持って、「破壊・崩壊」を狙っている。だから、妖魔は、必ず「人の破滅」を狙っていることが、やはり基本的。基本は「破壊」ですね。

 

  • 単に攻撃的な鬼みたいなものではないんですよ。「誘惑、妖艶さ、自分に対する愛や尊敬、ほめ言葉、持ち上げること」、こういうものを求めているんですよ。

 

  • だから、妖魔の特徴は、「自己愛の塊」なんですよ。その意味で、天狗と似ているんですけれどもね。わりに‟親戚関係”にはあるのですが、自己愛なんです。妖魔というのは、必ず自己愛で。

 

  • 妖魔は、その自己愛を求めて、人から称賛とか、ほめ言葉を求めるけれども、「それを拒否された場合や、願いが叶わなかった場合は、相手に取り入って崩壊させる、破壊する」という傾向があります。

 

  • 自分の自己実現が叶わなかった場合、天狗みたいに自滅するのではなくて(天狗は、自己実現が叶わないと自滅して転げ落ちるんですが)、妖魔の場合は自分を見破たり、自分のハニートラップを見破ったり、自分の色気とか噓とか、いろいろなもので人を引っ掛けようとしているものを見破る者に対して、「復讐」をするのが妖魔の特徴で。

 

  • 結局、「自分が神仏になり代わる」わけですね。天狗とか妖魔とかは、「自分を神仏として崇めさせようとする傾向」が強くて、そして、気に入らないと罰を与えるみたいに、相手に復讐したり、相手を陥れたりすることが多い。

 

『源頼光の霊言』 4「天狗・竜神・妖怪・妖魔」の特徴について


龍神の特徴

2024-02-27 00:00:00 | 

源頼光

  • 龍神のほうは、暴れる。「暴れて、世の中を滅茶苦茶にする」というか。

 

  • いい龍神なら、「創造的破壊」という、「壊すことで新しく建て替える」という役割を持っているものもあるとは思うけれども、「目にものを見せる」みたいなことが好きなのが、まあ、どちらかといえば龍神

 

  • 「パワー」ですね。そういう「竜神パワー」のなかには、先ほど言ったような自然界の原理を破るものも一部あるので、台風、洪水、津波、竜巻、こういうものにも龍神がかかわっていることは多いですね。

 

金龍・・・お金を護って戦う
黒龍・・・悪魔的な使い
白龍・・・やや天使的なもの
青龍・・・戦に関係があるもの

 

『源頼光の霊言』 4「天狗・竜神・妖怪・妖魔」の特徴について


妖怪の特徴

2024-02-27 00:00:00 | 

源頼光

  • 「妖怪」になると、これは種類が多いので、ちょっと、私も全部は分かりかねるが、まあ、‟人間の持っているおかしな癖”を集めりゃ、全部妖怪ですよ。妖怪の、その性質の一部。それそれ持っているでしょう?

 

  • それから、いたずら好きなので、電気を点けたり消したりもすれば、物を落としたり、音を立てたり。いろいろと「ポルタ―ガイスト」といういわれているもののなかには、妖怪の仕業はけっこう多いですね。

 

  • 力はそう大きくはないんですけれども、人を脅かすのがとても好きですねえ。

 

  • 今は、妖怪が図鑑とかでいろいろ描かれているだろうから、ほかのものもいっぱいいるので、私も全部は知りかねますが。おそらく、妖怪のなかには、「『物念』というものが妖怪になったもの」もあると思われるんですね。

 

  • つくられて百年を超えた物なんかには、「魂が宿る」と言われているものがよくあるので。新しいものはあれですが、古いものになると、「その物自体に魂が宿る」と言われている。

 

  • 例えば、地蔵さんみたいなものでも、つくられて百年もたつと、「何らかの霊的なものが宿っている」というようなことはある。

 

  • そういうことは、小道具屋なんかにはよくあるものだと思うけで、「付喪神(つくもがみ)」みたいなもので、そういう古いもののなかには、ちょっと何かが宿っていることが多い。

 

  • 妖怪の仕事の特徴としては、「基本的に生産性はない」んですよ。だから、何もプラスは生まない。人を脅したり、邪魔したり、堂々巡りさせたり、疲れさせたりすることはあるのですが、「生産性がない」というのが、もう決定的な妖怪の特徴です。

 

  • 「手間はかかる。人は脅す。周りに迷惑をかける。しかし、人類の進歩にはまったく役に立たない」。これが妖怪の妖怪たるゆえんで。

 

  • 生産性はない。これが妖怪の特徴です。

 

『源頼光の霊言』 4「天狗・竜神・妖怪・妖魔」の特徴について


天狗の特徴

2024-02-26 00:00:00 | 

源頼光 

  • 「天狗」というのは、‟自分がかわいい”んですよ、要するに、人間の本性の一つではありますがね。自分がかわいいので、「あくまでも世の中を自分の思いのままにしたいし、人を従えたい」という気持ちがとても強いタイプが天狗で。

 

  • 天狗のなかで、「多少、かわいげのある陽気な天狗」もいるんだけれども、ちょっと「邪悪なるものを考えるような者」もいることはいますのでね。

 

  • でも、全体的に言えることは、基本は、「愛の思いが足りない」というのが徹底的にありますね。「他人に対する愛」というか、「優しさ」というか、「慈悲の心」というかね、こういうものが徹底的に足りなくて、「自分が天狗の鼻を伸ばすためなら、何でもする」みたいなところがあって、自己中心的に全部考えていく。

 

  • 人を‟踏み台”にしてでも上がっていく。とにかく「上へ上へ」と上がっていく。

 

  • 現代も天狗は多いねえ。「名誉欲、出世欲、権力欲の塊」だね。そのためなら何でもするし、「人の恩を忘れ、人を踏み台にして、あるいは利用するだけ利用して、それでも上がっていこうとするタイプの人」は、現代でもいっぱいいる。

 

  • 「自分の法力が尽きるまで」は勝ち続けることも可能だけれども、天狗の天狗たるところは、「必ず高転びする」というところで。要するに、「自分に甘いから、自分の隙が見えない」ので、その‟隙”のところをどこかで攻撃されたり、落とし穴に落ちたり、罠にかけられたりして、必ず高転びする傾向はある。

 

  • 高転びする原因は、慎重さを欠くからであって、結果を急ぐわけですね。早く結果を手に入れたい。自己実現したい。そのプロセスを省いて一気に結果を手にいれたい」という気持ちがとても強いのが、この天狗の特徴で、だからこそ、高転びするわけですね。

 

  • 堅実であればそうならないものが、「一気に、棚ぼた式に手にいれたい」とか・・・。

 

  • 結果を早くしたいのは、天狗の特徴の一つ」ですね。鬼とも一部重なるところはあるかもしれませんがね。

 

 

『源頼光の霊言』 4「天狗・竜神・妖怪・妖魔」の特徴について


源頼光の霊言 —鬼退治・天狗妖怪対策を語る―

2024-02-25 00:00:00 | 

まえがき

  • 現代文明では、ただの昔話に過ぎないし、マンガ、アニメには出てくるぐらいか。「鬼退治」という言葉で連想するのはその程度だろう。

 

  • だが、宗教家として、霊界探究していると、天界―地獄界の対立図式だけでは分類できないものが存在することが分かる。

 

  • 背広を着たり、スカートをはいている人たちの中に、鬼、天狗、妖怪、妖魔、竜神などの、昔話の存在が、霊体としていまだ活躍、暗躍している。

 

  • 「その心」が視えるのである。凶悪な犯罪や倒産、リストラの陰には「」の姿が見えてくる。

 

  • 気がつけば民主主義社会にも、男にも女にも天狗はたくさんいる。その傾向は、子供時代に絵本で読んだ通りだ。

 

  • 妖怪も研究中だが、バリエーションが多すぎて、整然と分類するのは難しい。

 

  • 妖魔は妖狐が多く、妖蛇もいる。竜神にも、神仏を外護する者もあれば、悪魔の手下になっているものもある。

 

  • 源頼光という平安期に大江山の鬼退治で名をはせたヒーロー。藤原道長などが表舞台で国政を動かしていた背後に、賀茂光栄、安倍晴明などの陰陽師が朝廷の内側を固めていたが、洛外の強敵に対しては、源頼光と四天王たちが、戦っていたのだ。

 

  • 鬼・天狗・妖怪たちにも、ある種の宗教性はあるただ自己中心的で、他者を犠牲にする傾向がある

 

  • 「知は力なり。」である。本書で、自分の中に、同じ傾向が出ていたら、正しい仏法真理を学ぶことだ

 

  • 自分の心は自分自身が変えずして、誰が変えてくれるというのか。自室をゴミ屋敷にしたら、それを掃除するのは、あなた自身だ。

 

  • 一見毛色のかわった本書が、あなたの「世界」理解と、「自己変革」に役立つことを切に祈る

 

2020年5月12日

 

 

あとがき

  • 最近は、悪魔以外にも、私の敵となって出てくる者が多くなった。もちろん幸福の科学の教線が伸びて、彼らの生活領域を侵していることも事実である。

 

  • そのため、ヤイドロンやR・A・ゴールといった、この惑星外の守護神も出てきているが、地球産では、源頼光なども、仏敵調伏、退散のための活動をしてくれる。

 

  • 聖務の妨害を繰り返す者たちを、あまり長くは、相手にしていられないので、「電撃一閃」を使うことも多い。映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密―The Real Exorcist―』のラストに近いシーンで、主人公のサユリが使う、あの電撃攻撃である。鬼や悪魔でも耐えられる者はまずいない

 

  • 長く修行を積み、念力を磨き抜いた者だけが使える必勝の法力である。教祖まわりで起きる事件に使用されることも多いので、本書でも割愛した文章が少なくない。秘術の一部に接したと思ってほしい。

 

2020年5月12日


如実知見(にょじつちけん)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 如実知見とは「ありのままに見る」ということです。要するに「白紙の立場で見る」ということです。

 

  • ありのままに見る、そのまま見る、白紙の立場で見るということによって、正しいものの見方ができるわけです。この白紙の立場で見る見方は、中道の見方と言ってもよいのですが、そうした見方が大事です。この如実知見が、般若につながるものなのです。

 

  • この般若の智慧によって世界や人を見る場合、どのように見えるかといえば、鏡に映すように見えてくるのです。円い鏡のなかに、自分も映る、他人も映る、世界が映る、そのような見え方をするのです。鏡に映すように見ていくわけです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か


三慧③ 修慧(しゅうえ)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 三番目に「修慧」というものあります。

 

  • 修行によって得られる智慧です。この修行とは修法のことをいい、禅定によって得られる智慧なのです。

 

  • その日に学習したこと、説法で聴いたこと、あるいは真理の書籍で読んだことについて、繰り返し繰り返し、いつも学びを深め、それについて深く考えていきます。

 

  • その深く考える習慣を、禅定の状態、あるいはリラックスした瞑想状態でずっと続けていき、そうした習慣を築いていくと、その実践のなかに、智慧が習慣性にまで高められてくるのです。そのような状態が特定のときだけではない、いつも繰り返し反復して修法をしながら深い洞察をしていくなかに、智慧が習慣にまで高まってくる―これを「修慧」と言うのです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か


三慧② 思慧(しえ) 

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 二番目には「思慧」というものがあります。これは思索によって得られる智慧です。

 

  • 説法を聴き、理解するわけですが、自分としてはわからないところがない、要するに、疑問なところ、不可解なところ、理解できないところがないような状態にまでとことん高めることを、「思慧」というのです。

 

  • 思索することによって、自分自身のものとすることができるのです。

 

  • その言葉の意味はいったい何なのだろうか。どういうわけで、今日、師はこういう教えを説かれたのだろうか。それを深く考え、それによって自分のものとして身につけていきます。そうすると、応用も利くようになってくるのです。

 

  • このような深い理解のことを「思慧」といいます。考えることによって正しい道理をつかむことです。

 

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か


三慧① 聞慧(もんえ)

2024-02-24 00:00:00 | 
  • 第一のものを「聞慧(もんえ)」といいます。字のとおり、「聴いて得る智慧」という意味です。

 

  • ただ、何を聞いても「聞慧」になるかといえば、そうではなく、魂の糧になる学びをしなければ智慧にはなりません

 

  • 講演会を聴いたり、セミナーで講義を聴いたりして得られる知識に基づく力です。あるいは、CDを聴いたりDVDを観たり、また真理の書籍を読むということも、意味的には同じです。

 

  • このように、真理の知識を吸収することを「聞慧」といいます。

 

  • これによって、明らかに智慧が現れてくるのです。今まで理解することができなかったことが理解できるようになったり、今まで見抜くことができなかったことを見抜くことができるようになるなど、後天的な智慧が現れてきます。

 

『沈黙の仏陀』 第5章 智慧とは何か