- 「神の教えは、AでもBでもCでもDでもよい」ということを意味しているのではありません。この点をしっかりつかまないと、「正しい思い」ということは絶対に分からないのです。
- この多様性の解釈を間違って、「Aの考えでも、Bの考えでも、Cの考えでもよい」ということで、何でもよいことにしてしまったら、八正道のなかの「正思」は存在の意味はありません。
- 「それぞれの人が、それぞれの都合ですればよい」というのであれば、「正思」は存在の意味がりません。「それぞれの人が、それぞれの都合ですればよい」というのであれば、「正思」が探究の目標にはならないはずです。
- したがって、あくまでも、「究極において一点に集まるものがある」ということを忘れてはならないのです。一点から分かれてきたものは、それぞれの魂の道筋において、過程において、学ぶべきものとして提示されているのです。
- この一つの道筋のなかにあるものにとって気をつけなければならないことは、「自分の考え方が絶対だと思ってはならない」ということです。寛容の心を持ってそれぞれの道筋を認めながら学ばなければならないのです。
『真説・八正道』 第3章 正思