真に神仏に近づいていくための心構えとして、「素直さ」「自助努力」「謙虚さ」というものが必要だとするならば、これに反する思いが「正思」を妨げているというふうに考えてもよいわけです。
(1)「素直さ」を妨げるもの ―自我の殻
- 素直に取り組もうとする姿勢、教えを受け、学び、向上していこうとする素直な気持ちを阻害するものは何であるか、ということについて考えてみる必要があります。
- そこに出てくるものは、自分が過去何十年かの間につくってきた‟殻”です。「自我の殻」がこれを妨げるのです。
(2)「自助努力」を妨げるもの ―他人・環境のせい
- 神仏の念いのなかに、すべてのものの進化・発展を願う心がある以上、そして人間が神仏の子である以上、伸びていかざるをえないという宿命を持っているのです。
- したがって、「正思」の次なる点検ポイントは、「自助努力」の姿勢そのものの点検となるでしょう。自分の生き方のなかに、真実、向上に向かって自助努力している姿勢があるか、裏返して言うならば、環境のせいばかりにしていなかったか、他人のせいにしていなかったか。このような点検が要るわけです。
- 八正道の「正思」において最も大事なことの一つが、「環境と他人のせいにしている自分」の発見です。
- 「『他人のせい』『環境のせい』だという気持ちになる前に、もう一度、自分というものを深いところから見つめ直してみよ」と、私は繰り返し説いています。
- 今の自分は、自分自身の「判断」と「選択」の結果によってそうなっているのではないか。
- 同じ環境に置かれたとしても、同じ条件下に置かれたとしても、同じ悩みのもとに置かれたとしても、人によって生き方は違う。
- 同じ条件であっても、同じ力と同じ方向が与えられても、同じにはならないのです。その環境のなかで幸福になる人もいれば、不幸になる人もいます。その結果を招来しているのは、自分自身です。自分の心です。
- 「自分の責任として受け止める」ということです。この「責任の自覚」こそが、自助努力の原動力になります。
- 自助努力の出発点は「責任感の自覚」であります。「自己の責任として認める」という気持ちです。このことをできない人が「自分がかわいい」という方向へと動いていくのです。これを「プライド」と称していますが、このプライドの厚い外壁によって、神仏の光を遮り、反省をできないようにしているのです。
- このプライドの壁を打ち破る方法は「責任感の自覚」です。「自己の責任として、しっかりと受け止める」という態度です。
(3)「謙虚さ」を妨げるもの ―嫉妬心と自己顕示欲
- 謙虚さがなるなると、どうなるでしょうか。これは、自分が「お山の大将」でないと気に食わなくなってくるということです。
- 「お山の大将」の特徴はどこにあるでしょうか。まず、「他から学ぼうとしなくなる」という傾向が一つあります。また、「自分の立場を合理化、正当化していく」ということに走るようになります。そして、その結果どうなるかといえば、「進歩への意欲」を放棄するようになります。さらには、「他の者の追い落とし、蹴落としにかかる」というふうになっていきます。
- ここで、特に注意を促しておきたいことは、「他の者の幸福を祝福する心を失っては終わりである」ということです。
- 真に謙虚であれば他の人の幸福を祝福することもできますが、自分が傲慢になればなるほど、他の人の幸福を素直に喜べなくなってくるのです。「幸福は自分だけのものであって、他の者には幸福の享受を許したくない」という気持ちになってきます。
- 自分がもっともっと愛を受けたいと思っているのに、他の者が愛を受けている姿を見ると、我慢がならないのです。そして、表となり裏となって、いろんなことを引き落としにかかるのです。
- こうしたものも、「正しい思い」のところでチェックしなければいけない部分です。これは、「嫉妬心」「やっかみ」「嫉み」「妬み」といった言葉で表される思いと言ってよいでしょう。
- 「人間は太陽の光を浴びて生きているような存在である」ということを決して忘れてはなりません。太陽の光(仏の光)は、善人にも悪人にも、同じく光を投げかけています。
- ところが、そのように惜しみなく与えられている光を、スポットライトのように自分一人に集めたいという気持ちになってくるわけです。
- 自己顕示欲がなぜいけないかといえば、他の人の心の安らぎを奪ってしまうからです。また、本来であれば他の人に流れるべき愛を、自分のほうへ持ってこようとするからです。
『真説・八正道』 第3章 正思