matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

晩秋の京都その1-銀閣寺

2017-12-02 11:13:40 | 京都散歩




 11月下旬、再び京都を訪ねました。
紅葉の見ごろを迎え、観光客で溢れて
いました。

 京都

 銀閣寺は通称で、正しくは東山慈照寺
だそうです。
臨済宗相国寺の境外塔頭。

銀閣寺の発祥は、室町幕府八代将軍足利
義政の建立した山荘東山殿です。



足利義政(1436-1490年)は、
父義教が暗殺され、兄も早世した為、
8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた
1449年に正式に第8代将軍となりま
す。

当初は政治にも積極的で、勘合貿易を復
活させ幕府財政を安定化させます。しか
し次第に貿易の実権は細川家や大内家に
握られ、将軍家は経済的にも衰退してい
きました。

幕政を有力守護大名に委ねて、猿楽・酒
宴に溺れていきます。庶民は飢饉や災害
に苦しみ、1461年の寛正の大飢饉で
は、一説には賀茂川の流れが餓死者の
死骸のために止まるほどだったといわ
れます。



1467年(応仁元年)に応仁の乱が起
こると、天皇と将軍は同居し、義政と妻
の富子は度々法皇や天皇と宴会を開いた
そうです。

義政は政治を疎んでもっぱら数寄の道を
探求した文化人といわれます。

数寄者とは、好んだもののためには、人
生を狂わしても構わないという心の持ち
主です。

自らの美意識による世界の現出を試み、
それは簡素枯淡の趣をもち、義満の北山
文化に対して、東山文化とよばれます。

1473年、西軍の山名宗全、東軍の細
川勝元の両名が死んだことを契機に、将
軍職を譲って隠居します。

1482年に東山山荘の造営を始め、翌
年移り住みます。


  (東求堂)

東求堂は1486年義政の持仏堂として
建立されました。初期書院造りの建物で
す。

東求堂の名は「六祖壇経」の一節「東方
の人、念仏して西方に生ずるを求む」に
よります。


  (観音殿)

観音殿(銀閣)は1489年の上棟。

金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣
と呼ばれるようになったのは、江戸時代
以降のことだそうです。

1490年、義政は東山殿の完成をみる
ことなく亡くなりました。享年55。


  (大内石)

東求堂前の池に大きな石があります。
大内石です。

北山殿を造った義満は、金閣の造営に
あたって細川・赤松らの守護大名に協
力を要請、大内義弘は「武士たるもの
の仕事ではない」と拒否しました。

その2世代の後、銀閣の作庭に際して
大内政弘は協力しました。大内石はそ
のエピソードを伝えているそうです。


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