matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

八戸から山形へその4-立石寺(2)

2018-07-20 10:36:02 | 古刹・名刹



  (句碑)

 立石寺の続きです。

松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは1689
年(元禄2年)7月13日(新暦)、紀
行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿
坊といわれています。



芭蕉が白河関を超えて奥州に入り、多賀
城を訪ねたのは6月24日。翌日松島で
はその美しい風景に感動するあまり句を
詠めず、曽良が詠んだ句

「松島や鶴に身をかれほととぎす」

が収載されています。

石巻を経て、6月29日平泉に入ります

平泉は、おくのほそ道の折り返し地点に
あたり、藤原三代の栄華をしのび、

「夏草や兵どもが夢のあと」

の句を詠みました。


  (芭蕉像)

奥羽山脈をこえて出羽国に入って、山寺
に立ち寄り、

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

の句を残しました。


  (曽良像)

「奥の細道」の旅に随行した曽良は、信
濃諏訪に生まれ、伊勢長島藩に仕官して
河合惣五郎と名乗りました。

後に江戸に移り、深川芭蕉庵の近くに住
んで、芭蕉の生活を支えました。

芭蕉の死後、幕府の巡国使の随員として
九州を廻りますが、1710年壱岐で死
去しました。



芭蕉に連なる弟子たちが、この地を訪れ
、往時の面影から芭蕉を偲び、この場所
が句の着想を得た場所ではないかと、遺
した短冊を土台石の下に埋め、塚を立て
たものがせみ塚となります。



「おくのほそ道」の中でも秀吟の句とし
て知られています。

歌人の斎藤茂吉がアブラゼミであると主
張すると、小宮豊隆等が反論し、結局茂
吉は誤りを認め、ニイニイゼミであった
と結論づけたそうです。



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