
(句碑)
立石寺の続きです。
松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは1689
年(元禄2年)7月13日(新暦)、紀
行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿
坊といわれています。

芭蕉が白河関を超えて奥州に入り、多賀
城を訪ねたのは6月24日。翌日松島で
はその美しい風景に感動するあまり句を
詠めず、曽良が詠んだ句
「松島や鶴に身をかれほととぎす」
が収載されています。
石巻を経て、6月29日平泉に入ります
。
平泉は、おくのほそ道の折り返し地点に
あたり、藤原三代の栄華をしのび、
「夏草や兵どもが夢のあと」
の句を詠みました。

(芭蕉像)
奥羽山脈をこえて出羽国に入って、山寺
に立ち寄り、
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
の句を残しました。

(曽良像)
「奥の細道」の旅に随行した曽良は、信
濃諏訪に生まれ、伊勢長島藩に仕官して
河合惣五郎と名乗りました。
後に江戸に移り、深川芭蕉庵の近くに住
んで、芭蕉の生活を支えました。
芭蕉の死後、幕府の巡国使の随員として
九州を廻りますが、1710年壱岐で死
去しました。

芭蕉に連なる弟子たちが、この地を訪れ
、往時の面影から芭蕉を偲び、この場所
が句の着想を得た場所ではないかと、遺
した短冊を土台石の下に埋め、塚を立て
たものがせみ塚となります。

「おくのほそ道」の中でも秀吟の句とし
て知られています。
歌人の斎藤茂吉がアブラゼミであると主
張すると、小宮豊隆等が反論し、結局茂
吉は誤りを認め、ニイニイゼミであった
と結論づけたそうです。
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