今回は1970-1973年の4年間にスャbトを当てた号となっているが、なぜブルース・リーが表紙になっているかと言えば、1973年はあのカンフー映画の金字塔、『燃えよドラゴン』が日本で公開され、日本人がブルース・リーという存在が初めて知り、空前のブルース・リー、カンフーブームを巻き起こした記念すべき年なのである。しかし、『燃えよドラゴン』が公開された頃、既にブルース・リーは亡くなっていたのは何とも切ない。しかし、それが更にブルース・リーという存在を神聖化させていったと言える。
当時初めてブルース・リーを見た観客は、まさにブルース・リーの強さに度肝を抜かれ、映画館を出る時、みんなどこかブルース・リーに成りきった気分になっていたものだ。それだけ衝撃的な映画で、今でもカルト的な人気を誇っているのだ。
この号では約6ページに渡ってブルース・リーの『燃えよドラゴン』公開時の熱狂を取り上げているが、興味深いのはその経緯を取り上げていること。実はヒットするまでにプロモーションにかなりの努力があったという。当時無名だったアジア人のブルース・リー。ハリウッド映画とは言え、他に有名な俳優が誰も出ていないこの映画、しかも無名俳優による“空手映画”ではヒットしないだろうということで、当初そもそも日本で上映するかどうかもわからなかったらしいが、米国側の映画配給会社からの強い要望もあり、ヒットさせることが宣伝部に求められたという。また当時、有名俳優クリント・イーストウッドの『ダーティーハリー2』とも重なり、東京で『燃えよドラゴン』に割り当てられる映画館も限られていたという。しかし、映画を観てその衝撃にハマってしまった宣伝部メンバーや各地の映画館主がヒットを確信し、この映画に対する根強い偏見や固定観念を跳ね返していったのだ。そしてどんどん話題を呼び、上映館数も拡大していった『燃えよドラゴン』は、最終的に161日というロングラン上映で、興行収入16億円を達成し、1973年は『エクソシスト』に次ぐ大ヒット作となったのだ。
こうして偏見や固定観念を跳ね返した『燃えよドラゴン』。それはまさにブルース・リー自身が、アジア人、カンフーに対する偏見と闘ってきた姿と重なり、この『燃えよドラゴン』という記念すべき映画により、文字通り世界を変えることになったのは感無量である。そして、公開から48年経った今でも、雑誌の表紙を飾り、店頭にブルース・リーの雄姿が並ぶというのも本当に嬉しい限りである。
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