○◎ モンゴルのルーシ侵攻 ◎○
★= ルーシの支配体制 =★
1243年、バトゥはサライにノヴゴロド公ヤロスラフ(ヤロスラフ2世)を呼び出し、ウラジーミル大公位を認めて「ルーシ諸公の長老」としての地位をあたえた。 ヤロスラフは、シチ川で死んだウラジーミル大公ユーリー2世の弟であった。 兄の位を継承したヤロスラフであったが、1246年、第3代グユクの大ハーン即位式に赴いた先のカラコルムにて死去している。 これについては、モンゴルによる毒殺だという記録が同時代の史料に確認されている。 そして、1247年、ヤロスラフの子息たちがサライ、さらにはカラコルムに呼び出されたが、3年間は帰国が許されなかった。 かれらは、帰郷後に兄のアレクサンドルはキエフと全ルーシの大公に、弟のアンドレイはウラジーミル大公に任じられた。
これ以後、300年近くにわたってサライのハーンたちはルーシ諸公を臣従させ、ウラジーミル大公国やルーシ諸国の首長に「大公」「公」の称号を許し、貢納を義務づけるという関係が続いた。 ハーンは、13世紀後半のモンケ・テムルのころより「ツァーリ」「ツェザール」(ともに「皇帝」の意)と呼ばれ、公たちの上に君臨した。 ノヴゴロド公国、ハールィチ公国、スモレンスク公国、ブスコフ公国などルーシ西部の諸国もふくめ、ルーシのすべての国がモンゴル帝国に従った。
ノヴゴロド公ヤロスラフの子でドイツとの戦争に生涯を捧げたアレクサンドル・ネフスキーもまた、キプチャク・ハン国に対し恭順の意を表した。なお、キエフ大公の称号を得たもののウラジーミル大公位の得られなかったアレクサンドルはこの決定に不満をもち、1252年にサライに赴いてこれを訴え、ウラジーミル大公への勅許状(ヤルリイク)を得た。 一方のアンドレイは、バトゥと反目する大ハーン家の後援を受けた。このように、キプチャクのハーン(ジョチ家)とカラコルムの大ハーンの確執はロシア諸公を巻き込んだ。
キプチャク・ハン国の住民構成は、人種的にみればきわめて多様であった。 純然たるモンゴル人はむしろきわめて少数であり、住民の大半はテュルク系のポロヴェツ人(キプチャク族)、ヴォルガ・ブルラール、バシギール人およびチェルケス人、東スラブ人すなわちルーシ人、などである。 ハン国の中心をなすキプチャク草原に限っていえば、その圧倒的多数者はポロヴェツ人(キプチャク族)であった。 モンゴルの征服によってポロヴェツ人はその臣民となったが、両者はほぼ同じ場所で遊牧生活を送り、さかんに婚姻関係を結んだため混血が進んでたがいに親族となっていった。
自らの存立基盤でもあるステップ地帯にあっては、モンゴル人支配層は直接統治を採用した。 そのため、キプチャク草原における遊牧民の社会関係には大きな変化が生じた。 モンゴル人の侵入以前にはポロヴェツ族の諸公の数十名が支配階級として存在していたが、蒙古侵入以後には彼らの存在は1名たりとも記録に残っていない。 モンゴル人はロシアの諸侯やハンガリー王あての書状には、ポロヴェツを「奴隷」と書き記しており、また、自分たちの氏族や部族の英雄の像を製作するというポロヴェツの風習も13世紀から14世紀にかけて失われたと考えられる。
このことは、旧来のポロヴェツの支配層はその地位を失ったことを意味している。 遊牧民の常として、 旧勢力の支配者、また遊牧民のなかには、モンゴル支配層によって強制的に遊牧地を移動させられたのであろう。
キプチャク・ハン国の支配層であったモンゴル人たちは、やがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化していった。 15世紀にはキプチャク・ハン国は解体と再編成が進み、クリミア半島にクリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアにシビル・ハン国などが成立していく。 ジュチの末裔たち王国である。 これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系など多様な民族が混交し、こんにち、それぞれクリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼称される諸族が形成されていった。 タタールのなかには、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も少なくなかった。そのなかには、ユスポフ家やカンテミール家など、のちに有力な貴族領主となった家系もある。
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