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「……?」 風に乗ってかすかに聞こえてきた声に、アルカードは飛び移った電柱の上で足を止めた。
今のは――アレクサンドルと名乗った、あの老人と娘婿の声か?
何度か民家の屋根を飛び移って、周囲の住宅とは不釣り合いな年季の入った工場の屋上に降り立つ。高度視覚で透視してみた限り、鉄骨で組まれている様だったので、体重をかけても大丈夫だろう。しっかりした鉄骨の上に降り立って眼下の様子を窺うと、アレクサンドル・チャウシェスクと神城忠信、その四人の息子たちが眼下の道路の端のほうで集まっていた。
「いましたか?」
「否――家には?」
「家には戻っておらん――あのアルカードというのがいなくなっとるそうだが」
「じゃあ、あの人が――」 神城亮輔の口にした言葉はアルカードが連れ去ったのか、という意味だろう――アレクサンドルがかぶりを振って、
「否、それは無い。さっき家に電話をしてイレアナと話をしたが、あの男、礼状と札束を置いて出て行ったそうだ。それにあれにはデルチャの行き先は話してない――どこに行ったか特定出来るはずもない」
自宅から焼け出されて仮住まいで暮らしている老夫婦の家に礼状と、しばし滞在した謝礼として二千万円ばかり置いて家を出たのは、つい十分前のことだ。アルカードが家を出て行く前に老人は外出しており、娘のデルチャは昼前から生後半年ほどの娘を連れて友人に会いに行くと外出していた。
言葉の端々から焦燥のにじみ出た会話の内容から察するに、あの老人の娘と孫がいなくなったか? たしかに老人が出ていくとき、妙にあわただしかったが――
焦燥もあらわに周囲を見回している十歳くらいの末弟から視線をはずし、アルカードはかがみこんでいた鉄骨の上で立ち上がった。たった数週間、霊体に負った損傷がある程度治癒するまでの間世話になっただけの相手だ。礼状は置いてきたし謝礼も支払って義理は果たした。
別にデルチャと蘭がいなくなったことについて自分がなにかかかわりがあるわけでなし、彼が気にしなければならない道理も無い。
第一、会う予定だった友人の家を辞したあとでそこらでお茶でも飲んでいるだけという可能性もあるのだ。いくらこの近辺でおかしな気配を感じたといっても、それが必ず関係があるとも限らない。だいたいその気配の主がなんであれ、自分にはかかわりの無いことだ。
たまに笑う様になってきた赤ん坊の顔を思い出して、小さく舌打ちする――ウジェーヌも赤子のころ、あんなふうに笑っていたか。
馬鹿な――なにを考えてる?
自問しながら、アルカードは屋根の端に接続された電線の支柱に左手を当てた。
憤怒の火星の戦闘支援プログラムが起動し、脳裏に重層視覚を投影する。
情報表示視界起動――
情報表示視界が最初に起動し、視界の端のメッセージトレイでステータスメッセージが明滅する。
システムチェック中――スキャンの進捗率を示すステータスバーが徐々に百パーセントに近づいていき、やがてシステムチェック終了のステータスメッセージが肉眼の視界に重なる様にして描画される情報表示視界の視界の隅で明滅した。
三次元俯瞰視界起動――
情報表示視界のメッセージトレイでステータスメッセージが明滅し、同時にアルカード自身を真上から見下ろす様な位置に視点を置いた映像が表示される――センサーが拾い出した情報を突き合わせて合成したもので、視点の位置は使用者が自由に設定出来る。
全方位視界起動――
次に表示されたのは、上下前後左右に至るまであらゆる方向を同時に表示する視覚だった。やはりセンサーが拾い出した情報を突き合わせて合成したもので、球状のプラネタリウムの様な全方位モニターを脳で直接見ている様な感じに近い。使用者の体は見えず、代わりに周囲の状況を死角無く把握出来る。
これと三次元俯瞰視界を組み合わせることで、憤怒の火星は使用者の死角をほぼ失くすのだ。
複合センサー視界起動――
最後に起動したのは、憤怒の火星の複合センサーの中から肉眼と同じ視点の映像を合成した視界だった。
視界や視野は肉眼と変わらないが、熱の分布など様々なセンサー情報をイメージ化することで、必要に応じて壁の向こう側を透視するなど用途が広い。
高度視覚と機能が重複するのだが、アルカードにとっての利点は光源になるものが必要無いことだった。
脅威度評価――情報表示視界のインターフェイスに、ステータスメッセージが次々と表示されてはスクロールされて消えてゆく。
ステータスメッセージはやがて周囲の環境や状況を示すサラウンドメッセージへと変わり、マテリウス氏単位で検出された周囲の気温や空気中の水蒸気量、空気の組成、現在時刻と太陽の位置から算出されたアルカードの現在位置、その他の様々なデータが表示され始めた。
索敵モード起動――メッセージトレイでモードメッセージが明滅し、モードステータスがずらずらと表示されてゆく。そのほとんどは使用者であるアルカードにとってはあまり意味の無いものだ。
索敵開始――左手を覆う手甲の隙間から漏れ出す様にしてあふれ出てきた水銀が重力に逆らって上に向かって伝い落ち、そのまま支柱を伝って送電線を這っていく。送電線を伝って電柱に到達した水銀はそこで二又に分岐し、さらに別の送電線を伝って触手を伸ばし――数秒と経たないうちに、水銀の触手は市街全域をほぼ網羅した。
索敵モード目標設定――そんなメッセージとともに、インターフェイスの端に入力欄が表示される。見た目はパソコンのブラウザの入力フォームに近いが、無論キーボードで入力するわけではない。
憤怒の火星が効果的に検索を行うためには、目標追跡モードで追跡対象に登録するか、左手でじかに触れてスキャンしておく必要がある――デルチャと蘭はいずれも追跡対象として登録してはいないが、蘭にはじかに左手で触れたことがある。
検索目標――女性二名。一名は成人、一名は幼児。
目標詳細――二名ともに金髪、非アジア人。ただし幼児は混血。
優先目標――接触スキャン登録78546929、生後半年。体重七千グラム前後。身長は不明。
二次目標――接触スキャンの登録無し。二十代前半と思われる。身長は約百七十センチ、体重は不明。
憤怒の火星は照射範囲に存在する物体の物質構造に干渉し、物質構造を素粒子レベルまで分解してから異なる物質に作り替えることで完全に破壊する煉獄炮を照射する照射システムである『炮台』と、その使用時に使用者を守る自動防護システムとしての伸縮自在の触手からなる。
攻撃時には砲台とすべての触手に周囲の気温や気圧の変化と空気の振動から周囲の状況を検索する一種のモーション・センサーと、温度分布や音響反響定位、レーザーレンジファインダー、周囲の物体の放射する熱や熱源探知システム、電磁場の形成や地磁気などから周囲の状況を検索する磁気センサー、透過型光電センサーやレーザーセンサーなど、十数種類もの高精度センサーを複合した照準器官が形成される。
これらは射撃モードに移行しなくても構築可能であるため、その気になれば非常に捜索範囲の広い索敵装置として機能する――捜索能力は索敵触手の密集密度に左右されるために電線伝いでは捜索範囲に穴が出来やすいのが欠点だったが、今回は集中して捜索する場所はすでにわかっている。
そこに彼女がいないなら、別に放置していてもかまわない――怪異にかかわっていないのならば、彼がかかわる道理も無い。あとは警察の仕事だが――
目標捕捉――優先目標。
目標捕捉――二次目標。
水銀に接続された疑似神経から目標発見の反応が返り、重層視覚の情報表示視界のメッセージトレイでステータスメッセージが明滅する。
場所は小高い山の中腹にある神社――位置情報から判断すると今いる場所よりもう少し北寄りだ。頭に入っている地図から判断する限り、午前中まで借りていた本条家の駐車場のある硲西の交差点から丁字路を左折した先だ。
今は無人の社らしいが昔は住み込みの神主がいたらしく、社のすぐそばに木製の電柱が立てられて送電線が伸びている。
その送電線を伝って神社のすぐ近くまで伸びた索敵触手が、神社の境内にいるデルチャ・チャウシェスク・神城とその娘、それになにやら背中から無数に伸びた蚯蚓の様なおぞましい触手でふたりの体を巻き取っている巨大な蜘蛛の姿を発見したのだ。
どうもふたりを喰おうとしているのか、火がついた様に泣き叫ぶ蘭とおびえきって抵抗することも出来ないらしいデルチャを、大きく開いた口に運ぼうとしている。
「――ッ!」 疑似神経を介して脳裏に再現されたその光景を認識した瞬間、意識が沸騰し血が逆流して、視界が真っ赤に染まるのがわかった。
――殺す!
索敵モード解除――アルカードの意思に応じて、情報表示視界に入力されたコマンド内容が表示されてゆく。
戦闘モードに移行――
標的確認――戦闘モードへの移行に伴い、巨大な蜘蛛の体の輪郭をなぞる様にして白い枠が一瞬だけ表示されて消える。目標追跡モードの追跡対象として登録されたのだ。
周辺脅威度評価――目標周辺の状況をスキャンしているために表示される様々な戦闘支援情報が、次々と視界の端に表示されていく。
経度や緯度だけでなく海抜も含めた正確な三次元位置情報、周辺の気温や気圧、空気の組成や水蒸気含有量、土壌の組成、すでに確認済みの個体以外の、脅威になりうる生命体――
それと同時に情報表示視界に表示されていた索敵触手の展開図にも、変化が生じている――アルカードの現在地を起点に送電線を伝い、電柱ごとに次々と分岐して市街地全域を網羅していた索敵触手が、質量を集中すべく不要な触手を引き戻し始めたために、神社に通じる送電線を伝っている一本を除く索敵触手を示す線がどんどん短くなっているのだ。
憤怒の火星の最大体積はドラム缶一本ぶんほどだが、自動防御システムが十全の破壊力を振るうにはそれらが一ヶ所に集中している必要がある――それに捜索対象はすでに発見した。もはや市街全域をフォローする意味は無い。
攻撃開始――脅威度評価は一瞬で終わり、同時に十分な質量が神社付近に集中した時点で、憤怒の火星は攻撃を開始した。
それまで分子を収縮させる機能を使って体積を抑えていた水銀が瞬時に膨張し蛇の様に鎌首をもたげたあと、まっすぐに蜘蛛に向かって伸びた。水銀の触手の先端が針の様に硬化して、鋭利な棘を形成する。
神社の雑木林の中に設置された木製の電信柱のてっぺんから複数に分岐しながら伸びた水銀の棘が、次々と蜘蛛の体に突き刺さる――蜘蛛の体内に入り込んだ水銀の触手が内部で無数に枝分かれして巨大な蜘蛛の肉体を蹂躙し、デルチャと蘭を絡め取っていた触手も枝分かれした棘によってずたずたに破壊された。
ぎゃぁぁぁぁっ――それが蜘蛛の悲鳴なのだろう、巨大な蜘蛛の発した轟音じみた絶叫を憤怒の火星の振動センサーが検出する。
そのときには、全体積の三分の一程度が神社の近辺に集中している――憤怒の火星はさらに無数の棘を形成して蜘蛛の全身を貫き動きを止めたあと、今度は集まってきた水銀を使って刃渡り数メートルほどの巨大な斬撃触手を形成した。
長大な斬撃触手が二本、うなりをあげて蜘蛛に肉薄し――デルチャと蘭を絡め取っていた太い触手を一撃で寸断した。次の瞬間蜘蛛の触手をぶつ切りにした斬撃触手が変形して網の様に拡がり、切断された蜘蛛の触手ごと放り出されたふたりの体を受け止める。
本体分離――
自律戦闘モードに移行――
保護対象設定――巨大な網状の触手に受け止められたデルチャと蘭の体の輪郭をなぞる様にして、白い枠が表示される。それぞれの胸元に01と02というマーカーが貼附されると同時、ターゲットを示す白い枠は消えた。
それで憤怒の火星とのリンクが途切れ、アルカードは激痛で神経を灼く左手を支柱から離した。支柱を伝い落ちて送電線を這っていた水銀は、猛烈な勢いで送電線を伝って遠ざかっていく――全質量のうち左腕を形成するのに必要な五パーセント程度を残して手元から切り離した憤怒の火星が自律戦闘モードに移行し、密度を高めるためにそれまでアルカードと接続していた触手を神社側へと引き戻し始めたのだ。
そして問題は移動手段のほうだが――ここから神社までは、アルカードの足でも十数分かかる。全力で走れば数分でたどり着けるが、それでは目立ちすぎる。
手っ取り早いのは周囲のまとまった量の水を強制的に気化させて周囲の水蒸気量を上げることだが、あいにく周囲に水が無い。
つまり、まずは十分な量の水を確保する必要があるのだ。
水道管の中には水があるだろうが、あいにく地中の水道管の中を流れる水に干渉するのは無理だ――それをするには地面をえぐって水道管を破る必要がある。そしてそれは神田忠泰がいい顔をしないだろうし、余計な目撃者を作ることになるし、なにより時間がかかる。
アルカードはコートの内側に手を入れ、内ポケットから『魔術教導書』を取り出した。表紙を開くと同時に回路を通じて霊体と直接接続された『魔術教導書』が必要な魔術を検索し、ひとりでにページをめくっていく。
グリーンウッド家の『魔術教導書』は使用者の魔力を使ってデータバンクに書き込まれた魔術を起動させる、仮想制御装置の一種だ。
使用者の脳に直接術式を書き込み、必要に応じて読み出すことで、魔術の訓練を受けていない人間を一時的に魔術師に仕立て上げる術式を仮想制御意識と呼ぶ――記憶野を利用するためにやがて忘れられてしまい効果が永続しないこととその都度自分で魔術を構築しないために応用が効きにくいこと、脳に複数の意識をかかえ込むことになるため術者の負担が極めて大きいという欠点があるが、棄て駒を相手に使ったり拠点防衛用のキメラに一時的に魔術師としての能力を附加する使い道にはそう悪くない。
そういった負担をかけずに魔術を使える様にするのが、仮想制御装置だ――仮想制御装置は使用者の魔力を汲み上げて構築した術式に流し込むことで魔術を起動させてその維持管理と制御を行い、仮想制御意識とそれがさらに展開するもうひとつの仮想制御意識の維持、記憶野に書き込む仮想制御意識そのものの術式や魔術式の記憶などをすべて引き受け、さらに書き込む魔術式の数や容量に制限が無い。
結果、仮想制御意識に比べてはるかに数的に多彩な魔術を魔力供給だけで使える様になるのだ。
アルカードが所有している仮想制御装置・『魔術教導書』は精霊魔術において地上に並ぶ者の無いスコットランドの大魔術師セイルディア・グリーンウッドが構築したもので、彼が自分で扱える魔術を単一の術式で行う初歩的なものから四千五百もの術式を並列起動する大規模なものまですべて書き込んでいる。
また最大で五千七百もの魔術式の同時起動に耐える容量を誇り、魔力供給源であるアルカードの魔力が持つ限り展開した術式を様々に組み合わせて任意の魔術に作り替えることが出来、応用幅が極めて広い――無論潤沢な魔力を誇るロイヤルクラシックの使用を前提に製作されているからだが、アルカードはこれを手にしている間だけグリーンウッドと同等の能力を誇る魔術師になれる。
必要な術式が記述されたページが開くと、羊皮紙のページに記された文字列がぽうっと淡く輝いた。魔術を記述するためだけに使う特殊な文字で、見た目は楔形文字に似ていなくも無い――術式解体に必須になるのでアルカードにも読めるが、別に使用者が記述した文字を読める必要は無い。
術式が起動すると同時に、開いたページから虹色の文字列が水が噴き出す様にあふれ出した。次の瞬間周囲の空気が稀薄になり、アルカードの足元を虚空から突然したたり落ちてきた大量の水が濡らす。
周囲の水素分子と酸素分子を化合させて、大量の水を生成したのだ――ペットボトル数本分程度だが、憤怒の火星の質量の九割以上を切り離して装備の重量が軽くなっているので、今の装備を全部取り込める程度の水蒸気を作るには十分だ。
続いて『魔術教導書』が別のページを開き、記述された魔術文字が淡く発光する。
同時に発生した水が猛烈な勢いで蒸発し――発生した水蒸気に溶け込む様にして、アルカードは靄霧態に変化した。
憤怒の火星は地面にへたり込んだデルチャと蜘蛛の間に移動して巨大な球状に蟠りながら、次々と斬撃触手を繰り出してデルチャと蘭を捕らえんとする蜘蛛の触手を叩き落とし全身を斬り刻んでいる――蜘蛛は苛立っているのかすさまじい轟咆をひしりあげながら、水銀を叩き潰そうと触手を繰り出しては切断されるということを繰り返していた。先ほど昆虫標本みたいに全身を棘で貫かれたダメージは、すでに治癒したのかその程度なら問題にならないのか、行動に支障無い様子ではあった。
猛威を振るう蜘蛛の頭上で実体化すると同時に、アルカードは落下しながら塵灰滅の剣を振るった。
「Wooaaaaaa――raaaaaaaaaaaaa!」
大量の魔力を流し込まれた塵灰滅の剣の刀身が蒼白い激光を放ち、バチバチと音を立てて雷華を纏う。アルカードは塵灰滅の剣を頭上に振りかぶり、咆哮とともに蜘蛛の体に向かって叩きつけた。
世界斬・纏――世界斬の衝撃波を発生させる直前のまま魔力を纏わりつかせた塵灰滅の剣の斬撃をまともに受けて、蜘蛛が絶叫をあげる。
デルチャと蜘蛛のちょうど中間、数百合にも及ぶ触手の交錯によって蹂躙の限りを尽くされたボロボロの石畳の上に着地し、アルカードは軽く鼻で笑って右足を引いた。
それまで蜘蛛の体や触手を切り刻む一方、自在に変形する触腕を伸ばして赤ん坊の体を抱きかかえていた憤怒の火星が、石畳を這いずる様にしてアルカードのそばに近づいてくる。
手を伸ばして表面をプルプルと蠕動させる巨大な水銀の塊が伸ばした触腕から赤子の体を受け取ると、憤怒の火星は手甲の上から左手に纏わりついて装甲の隙間から中に入り込んだ。そのまま彼の腕に接合されたまま左腕を構成していた自分の一部と融合同化し、急速に分子を収縮させて元の腕の形に戻っていく。
「御苦労、我が血潮」 聞くべき相手も無いねぎらいの言葉を口にして――アルカードは平然と蜘蛛に背を向け、地面にへたり込んでいるデルチャに歩み寄った。
雑木林に囲まれた境内を、初夏にしては冷たい風が吹き抜けてゆく。
「貴様……」
背後の蜘蛛がまるで壊れかけたスピーカーを通しているかの様に罅割れた耳障りな声で怒声を発し、デルチャが反射的に両手で耳をふさいだ。
蜘蛛の声は霊声と呼ばれる霊体が直接出す声と肉体の声帯が発する肉声の両方で発声されており、霊声は肉体の耳ではなく霊体が直接聞いている――そのため耳をふさぐことで鼓膜を震わせる肉声は遮れても、頭の中に直接響く霊声の音圧を減ずることは出来ない。たとえ肉体という殻で覆われているために霊的な感受性の低い人間であっても、霊体の声がまるで聞こえないわけではないからだ。結果耳をふさぐという反射行動はまったく意味をなさず、デルチャがいぶかしげに眉をひそめた。
「貴様ァァァッ!」 背後で蜘蛛が再び怒声をあげる――霊声のほうはともかく、肉声は発声器官の構造が違うからか古いスピーカーの様にくぐもり罅割れて聞き取りづらい。先ほどのダメージからはすでに立ち直っているのか、一度は地面に這いつくばったその巨体は再び立ち上がっていた。
「ほう」 強烈な殺気を気にも留めず、アルカードは肩越しに背後を振り返った。
「さすがにこの程度じゃ斃せんか」
それだけ返事をしてから、石畳の上に尻餅を突いたまま顔色を失ってアルカードを見上げているデルチャへと視線を戻す。
自力で動けるか――歯の根が合わなくなっているのかカチカチと歯を鳴らしているデルチャを見下ろして、そう尋ねようとしたところでやめる。ルーマニア語では日本育ちの彼女は理解出来まい。
「逃げられるか」 その質問に、デルチャが表情を引き攣らせたままかぶりを振る。
「駄目、腰が抜けて――」
その返答に、アルカードは左手で抱いた蘭の体を母親に引き渡した。甲冑の手甲をつけたままなので心地が悪かったのだろう、泣き叫ぶ蘭をデルチャに預けて踵を返し、蜘蛛のほうへと向き直る。羽織ったコートに右手を差し入れてオートマティックのショットガンをふたつくっつけた様な特異な形状の水平二連のショットガンを引き抜き、
「――なら、そこから動くな」
「貴様ッ……」末期の薬物中毒者か異常者が涎を垂れ流す様に巨大な口からどす黒い液体をだらだらとしたたらせながら、蜘蛛が口汚く怒声をあげる。
ショットガン――挽肉製造機のグリップを握り直しながら、アルカードは唇に侮蔑の笑みを乗せた。下等生物ならそれらしく、叩き潰されてそのまま死ねばいいものを。
「神の末席に名を連ねる、ごのワジの食事を邪魔立でずるが!」
「つまり一番下っ端なのか」
盛大に鼻で笑い、アルカードは左手を腰に当てた。
「どこの疫病神様だか知らんがな――ああ、小難しい日本語はまだわからんから名乗らなくてもいいぞ、どうせ聞いてもすぐ忘れる。育ちすぎの下等動物の名前なんぞ覚えたところで、たいして役に立たんからな」
「赦ざん……赦ざんぞッ!」 濁声でそうわめく蜘蛛に、アルカードは無造作な仕草で手にした銃の銃口を向けた。
「たかが下等動物風情に赦してもらう必要など無い。分際をわきまえろよ、節足動物――ついでに貴様はもう、食餌を心配する必要など無い。どうせここで死ぬからな――貴様の餌は今日この場を最後に、未来永劫お預けだ」
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