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昼食の時間帯にお昼を摂れることは、この店ではまず無い。食事客に食事を提供するのが仕事なのだから、食事客が多い時間帯に食事を摂れる道理も無い――それはほかの飲食店でも、事情は似た様なものだろう。
ちょっと手の空いたアレクサンドル老が用意してくれた賄いの食事の載ったお盆を手に、事務所の扉を開ける――ピークは過ぎてすでにフロアはかなりがらがらになりつつあったが、たまにぽっかりと空いた時間にいきなり人が来ることもあるので、最低限ひとりはフロアに残っていなければならない。
今日はフロアにパオラとアンのふたりが残っているし、必要に応じてリディアもフロアに回れるので、割と余裕があった――今日の仕事が皿洗いのリディアはともかく、残るふたりはフィオレンティーナが戻るまで休憩を取りには来ないことになっている。アルカードが外出していて店にいないので、トラブルが起こったときに備えて、対応役とアレクサンドル老を呼びに行く役の最低ふたりはフロアにいる様にスタッフ間で取り決めたのだ。
料理人としての横のつながりでもあるのか、老夫婦はルーマニア料理のほかにも結構レパートリーが多い。昨夜ご馳走になったときの夕食はイタリア料理が主体だったし、今はイタリア料理とフランス料理とトルコ料理とルーマニア料理がごちゃ混ぜだ。
テーブルの上にお盆を置いて、フィオレンティーナはテレビのリモコンに手を伸ばした。
スイッチを入れるとちょうどニュース番組の最中で、漫画家がどこかの高級住宅地に建てようとしている、漫画のキャラクターをモチーフにした家の件で揉めているらしい。
人の家のセンスにどうこう言っても仕方無いが、落ち着けなさそうな家だなとは思う――まあ住むのはフィオレンティーナではなくその漫画家なのだから、本人が満足していればそれでいいのだろうが。
いずれにせよ、景観がどうのこうので他人の家に文句をつけるのは違うだろう。
フライドオニオンとパセリの浮いた湯気の立つレンズ豆のスープをスプーンで一度掻き回してから口元に運び、一口飲み下してから、フィオレンティーナは昨日の豪雨の被害に関する報道に切り替わったテレビに視線を戻した。
関東の一部を局所的に襲った集中豪雨は、かなりの大被害を出して終わったらしい――老夫婦が日帰り旅行に行った温泉地はそれなりに辺鄙な場所にあるのだろうし、あの大雨の中を帰ってきたバスの運転手は内心相当怖かっただろう。
車の運転が出来ないフィオレンティーナには今ひとつピンとこないが、昨日アルカードの部屋で香澄も交えてお茶を飲んでいたときにその話題になった。そのときにアルカードが『俺だってこの雨の中であんな場所からバスの運転なんてしたくない』と言っていたから、条件としては相当悪いのだろう。工事が雑だったのか地盤が緩んでいたのかは知らないが、晴れた日でも土砂崩れが起きて通行止めになるくらいだから、雨の中でなど想像したくもない。
パンをちぎって口に運びながら、リポーターの言葉に耳を傾ける――見出しは意味が取れなかったが、リポーターの言葉から相当な被害額になっていることだけはわかった。
視線をちょっと動かすと、アルカードが普段から使っている事務机の上に放置された、フィオレンティーナのハンディターミナルが視界に入ってきた――いくつか予備のバッテリーが置いてあるが、結局駄目だったのかバッテリーが取りはずされてバッテリーパックの蓋もはずしたままになっている。ドライバーが数本置いてあるところをみると、分解でも試みたのだろうか。
食べ終わった食事の食器をまとめてから、フィオレンティーナは時計に視線を向けた。あと十分くらいはのんびりしていてもいいだろう。
そろそろ蘭たち家族は、昨日約束していた遊園地で遊んでいる頃合いだろうか。遊園地やテーマパークについては生家がグリゴラシュとその配下の吸血鬼たちによって襲撃される以前のことしか記憶に無いが、両親と妹が一緒で楽しかったことは覚えている。
穏やかな追憶に身を任せようと目を閉じたとき、ガチャリと音を立てて事務所の扉が開き、
「あ、フィオお姉ちゃん、お疲れ様ー」 底抜けに明るい声でそう声をかけてから、凛が事務所に入ってきた――あれ?
首をかしげるフィオレンティーナの視線の先で、デルチャと蘭も事務所に入ってくる――蘭が椅子を引いてフィオレンティーナの向かいでテーブルに着き、
「お昼ご飯?」
「ええ」 蘭の問いかけにうなずいてから、フィレンティーナはニコニコしている凛と蘭、それにデルチャを見比べて、
「遊園地はどうしたんですか?」 昨夜の大雨が嘘の様に外は雲ひとつ無い快晴で、遊びに行くには絶好の日和だろう――地面が水を含んですごいことになっているだろうから、ピクニックやハイキングには向かないだろうが。
「遊園地ねえ」 凛が眉をひそめて、
「よくわかんないけど、電気が壊れて動かなくなっちゃった」
「?」 意味がわからずフィオレンティーナが首をかしげると、代わりにデルチャが説明してきた。
「どうも昨日の大雨で電気系統がショートしたとかで、設備が全部止まっちゃったのよ」
眉間に皺を寄せるフィオレンティーナの袖を引っ張って、テレビのリモコン片手に蘭がテレビ画面を指で差す。
「ほら、あれあれ」
ちょうどニュース番組の最中で、アトラクションがことごとく止まった遊園地の様子が映し出されている――リポーターの解説を聞いている限り、電気系統に水が入り込んでショート、火災が起きたらしい。
「しょうがないからご飯だけ食べて帰ってきたの」 よほど残念だったのかテーブルの上で組んだ腕の上に突っ伏す様にして、凛がそう愚痴る。
「それは残念でしたね――でも、どうしてこっちに?」 という質問の意図は、娘夫婦は別に自宅があるからだが。
それはわかったのだろう、凛ががばっと跳ね起きて、
「そう、それ。アルカードに会いに来たんだけど、今日お休み? アパートにもいなかったけど」
「いえ、出勤なんですけど」 フィオレンティーナは事務所の入り口のところにあるホワイトボードに視線を向けた。
アルファベット表記で従業員の名前の書かれたホワイトボードは、各人の名前の横にそれぞれの予定がホワイトボードマーカーで書き込まれている。
老人と老婦人は厨房、アンとパオラ、フィオレンティーナはフロア、リディアは皿洗いといった具合だが、午前中は『事務雑用』となっていたアルカードの予定の部分が、『外出・市街警察』に変わっている。
日本語を十全に理解出来ないフィオレンティーナの様なスタッフでも読める様にすべて英語表記なのだが、凛に読めるかどうかはわからないので、フィオレンティーナは本人から直接聞いた内容を説明した。
「アルカードは今、警察から電話がかかってきて警察署に行ってるんですよ。昨日の泥棒の件で」 昨日アルカードの部屋に侵入し、なぜかクッキーなのか嫌がらせのアイテムなのかどうにも線引きの曖昧なアレ――アルカードいわく毒ッキー――を盗んでいって病院送りになった窃盗犯だが、どうも窃盗犯とその娘が病院で大騒ぎしたために事態が露見し、その日のうちに警察に身柄を確保されたらしい。
そして夕方のかなり遅い時間帯になって警察で事情聴取に応じていたアルカードが、その窃盗犯の母親に傘で突かれて帰ってきた、という流れの様だ。結果、昨夜診断書を取ってきたアルカードが、今日になって傷害でもいろいろ動くことになったらしい。
それを聞いて納得したのか、凛が再びテーブルに突っ伏す。
「そうなんだ。ブルーレイ・レコーダーを貸してもらおうと思ったのに」
「なにか買ってきたんですか?」 見られないのにブルーレイ・ディスクを買ってきたのだろうか。DVDとブルーレイの違いはよく知らないが、互換性が無いことだけは知っている。
「帰りにレンタルビデオのお店に寄って映画を借りてきたんだけど、ブルーレイしか無かったの。ここにもうちにも見られるデッキが無いけど、アルカードが持ってるから使わせてもらおうと思って」
「しばらく待ってれば、すぐに帰ってくると思いますよ」 フィオレンティーナはそう返事を返し、飲み物がほしかったのでお茶を用意しようと席を立った。冷蔵庫から取り出した硝子製のポットの中身の紅茶をマグカップに注ぎながら、
「そういえば、お父さんと陽輔さんも一緒だったんですか?」
「陽輔兄ちゃんはねー、香澄お姉ちゃんとデート。ふたりで映画見に行ったよ、ハリー・ポッターの新作(作者注・二〇〇七年七月二十日に『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』が日本で公開されました)。香澄お姉ちゃんが大好きなの」
「もう結構前じゃありませんでした?」 フィオレンティーナの質問に、蘭がぴっと指を立てて、
「もう五回目だよ」
へえ、と返事をして、フィオレンティーナは唯一記憶に残っているハリー・ポッターの初回作のワンシーンを思い浮かべた――といっても雑誌のスクリーンショットを見ただけで、実際に映画を視聴したわけではないのだが。
あの透明のマントを着た状態で、下から覗くとどんなふうに見えるのだろう――断面の様子が見えるなら、断面を見るのにCTスキャナーなど必要無くなるから、ある意味医療用途で役に立ちそうだが。
「お姉ちゃんは、今日は一日いるの?」 という凛の質問に、フィオレンティーナはかぶりを振った。
「今日は夕方までです。アンさんが一日、それ以降はジョーディさんとフリドリッヒさんとエレオノーラさんが出てくるから、リディアとパオラも夕方までですね」
「アルカードは?」 質問されて、フィオレンティーナはホワイトボードを見遣った。アルカードは別段自分でないと出来ない仕事が無いときは、人が足りていれば無理に残業したりはしない。
というよりもアルカードは管理職なので、残業は悪だと考える傾向があるらしい――二十四時間死ぬまで働けとか、無理というのは嘘つきの言葉なんですとか、そういったブラックな体質の企業の経営者の話題になると、彼は管理職や店員に残業、特にサービス残業を強要したりする経営者は無能であるというコメントをよく口にする。
「それはつまり、その店の客の入りとか店員の能力とか、そういった店舗のキャパシティに合わせて人員の増減を指示したりする、経営者として傘下を俯瞰する能力が欠如してるってことだろう? 俯瞰する気が無いだけかもしれないが、どっちにしても無能には違い無い――そこまで出鱈目な残業を強要しないと、経営が回せないんだからな」
そんなアルカードの言葉を思い出しながら、フィオレンティーナは今週のシフト表の内容を記憶の中から引っ張り出した。
今日は夕方までのはずだから、予定通りに夕方で仕事を終えるだろう――事務処理の能力は案外に高いので、フロアに出る予定が無ければ十五時ごろまでに仕事を全部終えてしまうこともある。ただし、彼と同じ権限を持っている人員がほかにいないので、場合によっては帰宅後に呼び出されることもままある様だが。
特にパーティー予約などが無ければ、三人四人常駐していればアルカードは別段必要無い。なにかトラブルがあっても、暴力沙汰でなければアレクサンドル老で対処出来る。そういう意味では、出来るだけフロアに出たくないと公言していた本日などは、さっさと帰ってしまうかもしれない。
「今日は夕方までのはずですよ――出かけてるせいで仕事が延びなければですけど」
「じゃあさ、お仕事終わったらお姉ちゃんも一緒に見よ。ね」 にこにこしながら、凛がそう誘ってくる。
「お仕事終わるまで待ってるから」
フィオレンティーナが視線を向けると、デルチャが適当にかぶりを振ってみせた。
「そうですね。じゃあ普通に終わってからでいいなら――アルカードが機械を貸してくれればですけど」
やったー、と歓声をあげる凛から視線をはずして、フィオレンティーナはデルチャに視線を向けた。
「今日はこっちにいるつもりなんですか?」
「ん? どうしようかとは思ってる――さすがにレコーダーを貸してもらえたとして、はずして持って帰るのはアルカードもいろいろ面倒だろうし」
そうですね、とフィオレンティーナは軽く同意した。
あの吸血鬼は基本的に仕事中は携帯電話は持ち歩かないし、拘束時間中はろくにチェックもしない――デルチャもそれを知っているから電話をかけたりはせずに、直接話して許可を取りつけるためにじかにここに来たのだろう。
「ところで、恭輔さんはどうしたんですか?」
さっきから一向に入ってくる様子の無いデルチャの夫の名前を口にすると、デルチャは凛と蘭に視線を向け、
「ん? お義父さんとふたりして、親戚のうちに行ってる」 それを聞いて、フィオレンティーナは目をしばたたかせた――夫の親戚なら、当然妻のデルチャや娘ふたりも同行するものではないのだろうか。表情から思考を察したか、デルチャは続けてきた。
「病気なのよ。ひどい姿だから見せたくないって、向こうから言われてるの。うちの子も孝輔さんのところの子も可愛がってくれる、優しい人なんだけどね」 という返答からすると、たしかアイとルイといったか、亮輔の双子の娘とはまだ会ったことが無いのだろうか。そんなことを考えながら、フィオレンティーナは会話をつなげるために質問を口にした。
「……だいぶ、悪いんですか?」
「別に」 重い声音でそう問うたフィオレンティーナの言葉にデルチャが適当に手を振り、
「ただのヘルペス。凛がまだ水痘を発症してないから、来ないほうがいいと言われてるの」
スイトウがどんな病気なのかは知らないが、ヘルペスは確か水疱瘡と同じウィルスが原因で起こる病気のはずだ――つまり、スイトウというのは水疱瘡のことなのか。
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