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事務所の扉を開けると、休憩中なのかテーブルに突っ伏す様にしてくつろいでいるパオラの姿が最初に視界に入ってきた――事務所に入ってきたフィオレンティーナに気づいて、パオラが軽く手を振ってみせる。
「休憩?」
「いえ……」 事務所に足を踏み入れると、パオラの向かいでまたしても缶コーヒーを前にテーブルに頬杖を突いているアルカードの姿が視界に入った――居眠りでもしているのか、穏やかに目を閉じている。
その寝顔を見るのが面白いのか、パオラは再びテーブルに突っ伏して視点を下げ、俯き気味の吸血鬼の寝顔を覗き込んだ。
「珍しいですね、アルカードが居眠りなんて」
この吸血鬼は仕事に関しては真面目なので、普段は居眠りなどしないのだが、昨日のトラブルが結構堪えていたのかもしれない――荒事に慣れていても、それとトラブル対処の能力は別物だ。食い逃げや揉め事の対処には慣れていても、泥棒の対応に関してはさほど手馴れていないだろう――手馴れているのもそれはそれで嫌だが。
平和な顔で寝入っているアルカードの顔を覗き込んで、パオラがくすくす笑う。彼女は片手をアルカードの鼻先に伸ばして、
「なんだかいいな――寝顔は可愛いのよね、アルカード。従業員としては起こさないといけないんだろうけど、起こすのがちょっと可哀想」
パオラはそこでフィオレンティーナに視線を向けて、
「ところでどうしたの?」
「いえ、わたしはアルカードに用事が――」 休憩でないのならどうしたのか、ということだろう――返事をしかけたとき、アルカードが動いた。といっても別にこちらの声に反応したわけではなく、ちょっと身じろぎしただけの様だが。
こめかみのあたりを支えていた拳から頭がはずれ、そのまま正面に置いたコーヒー缶に顔面から突っ込む――衝撃で缶が倒れ、飲みかけのコーヒーがテーブルに流れ出した。
「……」 テーブルの上に広がった褐色の液体の上に顔面から突っ伏す様な姿勢で目を醒ましたアルカードが、のそりと身を起こす。
「だ、大丈夫ですか、アルカード」 笑いを堪えて口元をむずむずさせながら気遣いの言葉をかけるパオラに、アルカードは鼻の頭からコーヒーをしたたらせながら半眼を向けた。
「……パオラ」
「はい?」
「いっそ素直に笑え」
スラックスやシャツもコーヒーまみれになっている状況ではもはやわざわざタオルを用意する必要も無いということなのか、アルカードが憮然とした面持ちのままパオラが差し出したハンカチを断って、代わりに黒いカッターシャツの袖で乱雑に顔を拭う。頭に巻いた包帯にもコーヒーが染み込んで、茶色に染まっている。
その感触が気持ち悪かったのか、アルカードは頭から毟り取る様にして引き剥がした包帯をゴミ箱に投げ棄てた。一緒に傷口にあてがったガーゼが剥がれて、外科縫合された額の傷口が剥き出しになる。
その傷口をひと目見て、パオラが口元に手を当てた――まあ無理も無い。傘で殴られたと言っていたが、どうも振り回して殴られたのではないらしい。おそらく先端が樹脂で被覆されていないタイプの、金属の石突が剥き出しになった傘で突かれたのだろう。目のすぐ上だから失明させる悪意を持って突いたのだろう、傷痕は思いのほか酷かった。
ロイヤルクラシックは自分の肉体の生理機能を、自分の意思である程度制御出来る。おそらく摂食や排泄などを制御することは出来ないだろうが、たとえば怪我をしたときに本来の治癒能力を発揮せずに傷の治りを普通の人間と同程度に遅らせたり、複数の怪我を負ったときにその一方だけを優先して早く治したりといったことが出来るのだ。
なんの訓練も受けていない一般人の攻撃なら魔力も帯びていないだろうから、アルカードならたとえ心臓を刺されても瞬時に治癒するだろう。治癒機能をあえて抑えて、本来ならすぐ治る傷を治さずにそのままにしているのだろうが――あれはきっとかなり痛い。
床の上に流れ落ちたコーヒーを見遣ってから赤いネクタイにコーヒーが染み込んでいるのに気づいて顔を顰めるアルカードに、
「わたしが片づけておきますから、着替えてきてください。包帯も替えないと」 パオラが事務所の隅にある給湯用の流し台のところにある台拭き用の布巾を水で濡らしながらそう声をかけると、アルカードは小さくうなずいた。
「悪いがそうさせてもらう」 事務所から出て行こうとしたアルカードに、フィオレンティーナは本来の用件を思い出して声をかけた。
「アルカード」
ん?と振り返るアルカードに、フィオレンティーナは自分が貸し与えられている注文を取ったりするための機械――ハンディターミナルというらしいが――を見せて、
「これが動かなくなったんですけど、ちょっと見てくれませんか――時間がかかる様なら、代わりのがほしいんです」
アルカードは受け取ろうと手を伸ばしかけてから、自分の有様を思い出してか手を引っ込めた。代わりにテーブルを指差して、
「あとで見てみるから、そこに置いておいてくれ――パソコンの横に俺のが置いてあるから、とりあえずそれを使ってくれ」
電源が入ったままのパソコンの横に置かれたハンディターミナルを確認して、フィオレンティーナはうなずいた。
「わかりました。お借りします」
「ああ」
その言葉を最後にアルカードが事務所から出て、後ろ手に扉を閉める。更衣室ではなく部屋に戻って着替えるつもりなのだろう、裏手に通じるドアが閉じる音がかすかに聞こえてくる。
基本的に店内の音楽はパソコンで管理していて、有線放送などは使っていない――アルカードが言うには既存の曲ではなく、バイトのひとりであるフリドリッヒ・イシュトヴァーンが作曲・演奏したものなのだそうだ。それを音楽管理ソフトで流しているだけなので、営業中はパソコンは電源が入りっぱなしになっている。なので別段電源が入りっぱなしなのは珍しくないのだが、表計算ソフトが開きっぱなしというのは割と珍しい。きっと作業中に小休止のつもりで眠ってしまったのだろう。
フィオレンティーナは自分のハンディターミナルをテーブルの上に置いて、代わりにアルカードのハンディターミナルを手に取った。
パオラはテーブルや椅子の座面に落ちたコーヒーを台拭きと雑巾で拭き取り、床もモップがけするつもりなのか床のコーヒーは放置で事務所から足早に出ていってしまった。
ひとり残されたフィオレンティーナだが、いつまでもここにいるわけにもいかない――パオラが後片づけ中、リディアは皿洗いが担当だから、今は向こうにアンしかいない。
そろそろ昼前で客が増えてくる時間帯だから、早く戻らないとアンに負担が集中してしまう。
アルカードのハンディターミナルがきちんと動くのを確認してから、フィオレンティーナは事務所から出てフロアのほうに歩き出した。
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「
「
大型の怪物を相手にするときと違って、人型の、それも術理を使う相手に対して大振りの攻撃は意味が無い――それが自分と同じ技術を基本に修めた相手ならなおさらだ。
アルカードが繰り出した刺突を、グリゴラシュは左肩に巻き込んだ体勢から繰り出した長剣の一撃で弾き飛ばした。横に流された剣を引き戻すよりも早く、グリゴラシュが振り抜いた剣を空中で逆手に持ち替え、順手であれば刺突を繰り出す様な動きでこちらの胸元を柄頭で突き飛ばす。吹き飛びこそしなかったものの、体勢が崩れたのでそのまま後退――逆手に握った長剣で首を刈りにきた一撃を、アルカードは左腕の手甲で受け止めた。
アルカードも甲冑や手放したものを魔力で補強する技能は身につけているものの、補強強度はグリゴラシュに及ぶほどではない――だが、状況は同じでも条件は違う。
グリゴラシュのそれはただの鈑金甲冑だが、アルカードのものは悪魔の外殻や骨格を削り出して作られているのだ。
素材として見た場合、
結果アルカードの装甲は傷ひとつ無く――代わりにグリゴラシュの手にした長剣は火花とともに欠けた。
後退したことで間合いが離れている――アルカードは左側に弾かれた
その斬撃が届くよりも早く、グリゴラシュが後方に跳躍して間合いを離す。彼はアルカードの手甲に斬り込んだために毀れて亀裂の走った長剣の刃を見下ろして、小さく舌打ちを漏らした。
アルカードも自分の腕を鎧う手甲の装甲を見下ろして、口元をゆがめて笑った――グリゴラシュの長剣は手甲の
グリゴラシュがいったん間合いを離すために後退しながら、頭を傾ける――吹きつけたベアリングが頬を裂いて、肌が裂けて血が舞った。含み針の様に口の中に仕込んでいたベアリングだ――右眼を狙ったのだが、残念ながらはずしてしまった。
いったん後退したところで、アルカードが投げつけた
肩口めがけて叩きつけてきた一撃を、手の甲で払いのける様にして受け捌く――アルカードはそのまま踏み込んで、鼻先をかすめる様にして鈎突きを繰り出した。
攻撃動作中に握り込んでいた小さな爪状のナイフの尖端がとっさに頭をそらして躱したグリゴラシュの顎先をかすめ、浅く裂けた顎先から血が噴き出す。
そのまま右足を側方に踏み出して、その足を軸にして左回りに転身――転身動作の勢いのまま、アルカードはその転身動作に合わせて体の向きを変えていたグリゴラシュのこめかみに左拳を叩きつけた。
小さく毒づいて、グリゴラシュが一歩よろめいた。さらにそのまま転身して正対し、今度は下顎を斜めに突き上げる様な軌道で鈎突きを放つ。グリゴラシュがそれを躱すために一歩後ずさり――フェイントの拳を引き戻しながらアルカードはグリゴラシュの左膝を狙って蹴りを放った。
ノーマークだった膝を側面から刈り倒す様にして撃ち込まれた蹴りをまともに喰らって、グリゴラシュが堪らず膝を折る――アルカードは手を伸ばしてグリゴラシュの髪を掴んで無理矢理頭を下げさせ、そのままグリゴラシュの顔面に膝蹴りを叩き込んだ。
グリゴラシュが手放した長剣が足元に落下して、防滑塗料で塗装された分厚い鋼板に跳ね返ってガシャンと音を立てる。グリゴラシュは顔の前に右手を翳して、こちらの膝を受け止めている――舌打ちを漏らして、アルカードはグリゴラシュの頭を押し出す様にして突き飛ばし、そのまま数歩よろめきながら後退したグリゴラシュの下顎めがけて蹴りを放った。
グリゴラシュがさらに後退してアルカードの繰り出した蹴り足を躱し、体勢を低く沈めて踏み込んでくる――組みつくつもりなのか体勢を起こしながら突っ込んできたグリゴラシュの顔面めがけて、左足で踏み込みながら右拳を撃ち込む。
その拳を頭を傾けて躱し、グリゴラシュが体を沈めながら右腕でこちらの踏み込んだ左足をすくい上げる様にして足を払い、ちょうどアルカードが先程やったのと似た様な動きで左肩で当て身を撃ち込んできた。
当て身の勢いに逆らわずに右足で後方に跳躍する様にして後方に倒れ込みながら、アルカードはグリゴラシュの頭を右拳で殴りつけた――手甲をつけたままの右拳が左眼を深々と引き裂いた傷口を直撃し、ふさがりかけていた傷口が開いて再び血が噴き出す。
ちぃ、と舌打ちして、グリゴラシュは上体をひねりこんで踏み込みながら、アルカードの鳩尾に掌を叩きつけてきた。
突き飛ばされる勢いで為す術も無く仰向けにヘリパッドに倒れ込み、アルカードはそのまま後転して立ち上がった――ずだん!という轟音とともに、グリゴラシュの足が目標を失ってヘリパッドの鋼板を踏み鳴らす。転倒したアルカードの足を踏み折ろうとして踏みつけてきたのだ。
グリゴラシュが捩り折られた右手の親指を見下ろして、小さく毒づくのが聞こえた。掌打が撃ち込まれてきたときに、左手で親指を掴んで思いきり捩り折ったのだ。
アルカードはそのまま体勢を立て直して、一歩間合いを詰めた。ようやく左腕の骨がつながったのか、グリゴラシュが左手の手指を試す様に動かしながらこちらに視線を向ける。
アルカードの左眼も、ようやく完治しつつあった――あと数分で左眼で目視が可能になるだろう。グリゴラシュの左眼は、先ほどの殴打でもう少し治癒に時間がかかるはずだ。
ならば、左眼が治りきる前に――
胸中でつぶやいて、アルカードはヘリパッドを蹴った。
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