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喘鳴に似た咆哮をあげながら、アルカードは屋上床を蹴って屋上を駆けた――ナイフを手にした若い女が繰り出してきた刺突が装甲板の隙間から左肩を貫くのを無視して、女の顔面を右手で鷲掴みにする。踝を踵で蹴り潰す様にしてアキレス腱を挫く動作で足を刈りながら、アルカードは女の体を押し倒した。
頭蓋骨の砕ける鈍い音とともに、後頭部から屋上床に激突した女の体がびくりと一度大きく痙攣する。
全体重をかけた掌で押し潰した女の頭蓋の割れ目からこぼれ出した柔らかな脳髄が、なんとも言えない色の液体ともども叩きつけられる雨粒によって無理矢理洗い流されてゆく――脳髄や肉体は
女の頭を床に叩きつけた体勢のまま床に右手を床に突いて、アルカードは工場の屋上に膝を突いた。
酸素不足で全身に力が入らず、そのまま腕で体を支えることも出来ずに――雨水にひたった屋上の、防水用のプライマで塗装されたコンクリートの上に突っ伏す様にして崩れ落ちる。
片肺が潰れたままなので、まともに呼吸もままならない――酸素を求めて喘ぐ眼前には、ずぶ濡れになった女の屍。引きちぎった柵の鋼管が端正な顔面を左の眼窩から後頭部までぶち抜いてコンクリートに突き刺さっており、そこから流し込まれた魔力に霊体構造を破壊された女の体は塵と化し、雨に洗われて徐々に消滅しつつあった。
もう一体は雑居ビルの内部に通じる施錠された階段室の建物に、
なんとか呼吸を鎮めようと無駄な努力を続けながら、アルカードはその場で立ち上がった。出血と体温の低下のせいだろう、強烈な立ちくらみを感じてその場で数歩踏鞴を踏み、屋上のへりに設けられた転落防止用の柵を掴んで体を支える――青く塗装された柵がメキメキと音を立てて紙筒の様に握り潰され、鋼管を覆う塗膜が細かく罅割れ剥がれ落ちた。
「……あ?」
意図せずしたその破壊に、アルカードは自分の掴んだ柵を凝視した。消耗が酷過ぎて、力加減がまったく効いていない――自分の魔力を『抜いて』力を抑える程度の、初歩的な魔力制御すら出来ないほどに消耗しているらしい。
実際のところ追ってきた三体の
自嘲しながら、アルカードは片足を引きずる様にして歩き始めた。その背後で魔力供給を断たれた
もはやこれ以上身を守る余力も無い。いったん身を隠して、回復を待たなければならない。
胸中でだけつぶやいて、アルカードは鉄柵に沿って屋上の端を歩き、ビルの裏側に当たる側の鉄柵の上から地上を見下ろした。
ビルの裏手は線路だった――折しも走ってきた電車のヘッドライトが、視界を明るく染め上げる。
荒い息を吐きながら、アルカードは柵を乗り越えて宙に身を躍らせた――ちょうど眼窩に差し掛かった電車の丸みを帯びた屋根の上に落下する様にして飛び降り、着地にしくじって体側から倒れ込む――右腕を下敷きにして鈍い痛みに顔を顰め、アルカードは風圧に煽られるのを避けるためにその場で身を伏せた。
この電車がどこに向かっているのかは知らないが、ここから遠く離れたところに彼を運んでくれるだろう――今必要なのは、とにかくここから離れることだ。
着地をしくじって派手に打ちつけたこめかみの痛みに顔を顰め、アルカードは少し傾斜をつけられた車体の上で仰向けに転がった。
普通の人間より少し鋭敏な程度に設定した聴覚が、車体に雨粒がぶつかって砕ける音に混じって車内の音を拾ってくる――人は結構乗っているのか、車内から大勢の人間の話し声が聞こえてくるが、そのうちの女性ふたりの声は、どうもこちらの立てた騒音を話題にしている様だった。
どのみち駅に着くまでは、アルカードが乗ったままでも見つかることはないだろう――この雨の中で外を出歩いて鉄道をじっくり眺めている者はいないだろうし、たまたま車内から電車の屋根になにかがくっついているのが見えたとしても、それが人間の姿をした生き物だとは思うまい。
さて、あとは――
どこか適当な場所で、すれ違う車輌に飛び移ればいい――出来れば全然違う方向に行く車輌が望ましいが。
胸中でつぶやいて、アルカードは寝返りをうつ様にして体を横向きに倒し、口の中に入ってきた雨水を吐き棄てた――夏も盛りの季節とはいえ、こうも長時間雨に打たれたままでは少々きつい。
まったく、電車の屋根の上に飛び降りるなんて映画の中だけのことだと思ってたがな――苦笑して、アルカードは周囲を見回した。どうやら大きな駅が近いのか、すぐ近くを別な線路が走っている。ちょうど今乗っている電車とすれ違う様にして――といっても、五十メートルは離れていたが――、向こう側から電車が走ってくるのが見えた。
線路はもう少し接近したあたりで強く曲がっており、最終的には百七十度近く曲がっている――駅の向こう側から続いてきた線路が、こちら側の方角から駅に入るために強く屈曲しているのだろう。
車輌側面に掲示された車輌が快速電車、行先表示機に表示された行き先が駅の向こう側、かなり離れた場所なのを確認して、アルカードは走行風の風圧に逆らって屋根の上で立ち上がった。
走行風に加えて颱風がきているため、複雑な乱気流が車輌の周りで渦巻いている――目に直接雨滴が入るのが非常に目障りではあったが、それは意識から締め出して、アルカードは電車の屋根を蹴って跳躍した。
ギイギイという装甲板のこすれ合う音が、ひどく耳障りに感じられる――何度か跳躍して電柱から電柱に飛び移りながら、アルカードは断続的に襲ってくる失血が原因の嘔吐感と眩暈に小さくうめいた。
四回目の跳躍で道路を越え、ちょうど目の前にやってきた快速電車の屋根に取りつく――屋根に着地したところで強烈な眩暈に襲われ、その場で足を滑らせて、アルカードは再び屋根の上に倒れ込んだ。
こめかみを盛大に打ちつけて、視界に火花が散る――強烈な嘔吐感に耐えながら、アルカードは苦笑した。なんとまあ、みっともない有様よ。
自嘲しながら、その場で寝返りをうつ様にしてうつ伏せになる――電車が軌道のカーブに入ったので振り落とされない様に構造物に掴まりながら、アルカードは嘔吐感が治まるのを待った。
すぐに軌道の屈曲が終わって直進に戻り、遠心力で振り落とされる危険が無くなったので、アルカードは力を抜いた。
かれこれ数時間雨に濡れ続けているのが原因で、低体温症を起こしかけているのだろう――意識が朦朧としている。『帷子』を使えば低体温症を防ぐことも出来るだろうが、魔力のバランスが崩れすぎていてそれもままならない――なにしろ自分の身体機能の制御もままならなくなっているのだ。至近距離とはいえ外部に魔力を放出する『帷子』の使用は、
あとしばらく、水濡れによる体温の低下と風速冷却に耐えなければならない――生身の人間と違って、低体温症で落命する危険が無いことだけが救いだろう。死んで楽になれないぶん、余計に苦しい気がしないでもないが。
胸中でつぶやいて、アルカードは自分の気配を消しつつ索敵することに集中するため目を閉じた。
*
ハードディスク・レコーダーとテレビをつなぐHDMIケーブルのプラグを本体から抜いて、アルカードはハードディスク・レコーダーをテレビ台の棚部分から引っ張り出した。
本体についた埃をディスプレイ用のウェットティッシュで丁寧に拭き取ってから、脇に置いておく。
今はいい時代になったもので、昔の様に三色のケーブルをこまごまといじる必要も無い。
コンセントはいくつか並べたテレビ台の端のほうにあるので電源ケーブルをはずすのはそれほど面倒でもないのだが、HDMIケーブルは一度抜いてしまうとテレビ台の後ろを通してテレビにつなぐのがとても面倒臭い。が――よくよく考えたら、ファミコンの様に専用のケーブルというわけでもない。
テレビの横に置かれた
電源ケーブルにちょっと埃がついていたのでウェットティッシュで軽く拭き取り、輪ゴムでくくって本体の上に置いてから、アルカードは立ち上がった。
テレビの横に置かれたプレイステーション3の筺体とテレビのHDMI入力端子をつなぐサードパーティ製のHDMIケーブルを抜き取り、ずれたテレビを元の位置に戻す――長さは一メートルほど、まあ不自由することはあるまい。
布でしっかりと被覆された硬いケーブルを適当に丸めてマジックテープの結束バンドで束ね、チャクラムみたいにくるくる回してから、アルカードは丸めたケーブルをレコーダー本体の上に置いた。
布でしっかりと被覆された硬いケーブルを適当に丸めてマジックテープの結束バンドで束ね、チャクラムみたいにくるくる回してから、アルカードは丸めたケーブルをレコーダー本体の上に載せる――とりあえずはこれで事足りるだろう。
デルチャはアルカードがその作業をしている間に、その代金代わりなのか単に手持無沙汰だったのか、使った食器を洗っている。凛と蘭はフィオレンティーナの反応で悪いことをしたと思っているのか、ちょっとしょげている様に見えた――ふたりが落ち込んでいるのがわかるのか、仔犬たちがふたりのそばで床の上でころころ転がって愛嬌を振り撒いている。パオラとリディアはフィオレンティーナの様子を見に行くべきか迷いながら、とりあえず子供のほうを優先しているらしい。
「ねえ、この銀のぐい飲みってさ、普通に洗っていいの?」
「使うのがスポンジなぶんには大丈夫だ」 キッチンカウンター越しにかかってきたデルチャの声にそう返事を返してから、アルカードはリビングから出た――本体、電源アダプター、HDMIケーブル。必要なものはだいたいそろったが、一応取扱説明書を出しておこう。たぶん誰も読まないだろうが。
階段のところに座っていたフィオレンティーナが、こちらに気づいて顔を上げる。
「少し落ち着いたか?」 声をかけると、フィオレンティーナは疲れた様子でうなずいた。
「ごめんなさい。雰囲気を悪くさせちゃいました」
「別に問題無い。はじめて観るんだから、免疫が無かったら怖いもんは怖いだろ」 アルカードはそう言って、適当に手を振ってやった。
「こっちこそすまない。まさかあそこまで怖がるとは思ってなかった」 そう言ってから、アルカードは手を伸ばしてフィオレンティーナの頭をぽんぽんと軽く叩き、
「気分が治ったんなら、中に戻っておいてくれ――凛ちゃんと蘭ちゃんがちょっと落ち込んでるしな」
それだけ言って、アルカードは寝室のほうに歩き出した――おびえて腕にしがみついてきたことは、この際触れないことにしておく。普段ならぷりぷり怒るのだろうが、本気でおびえてとった行動をからかうのはよくない。
取扱説明書は寝室にあるので、アルカードはそちらに足を向けた――空気の中に残ったガンオイルやエンジンオイルの匂いが、扉を開けた途端に漂ってくる。
アルカードはパソコン用のデスクの脇にある樹脂製の書類入れの抽斗のひとつを引いて、SHARPのロゴが入った説明書を取り出した。家電品の取扱説明書や保証書のたぐいは、すべて個別にファイリングして管理してある――ファイリングというほどたいそうなものでもないかもしれないが、数が結構多い。説明書の入っていたファイルを一番上に置き直してから、アルカードはふと書類入れの上に置いてあった写真立てに目を止めた。
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