日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
7章 長春の死の工場・第100部隊
Ⅳ
100部隊の研究活動は、長春基地のみに限られておらず、731部隊の場合と同様、満州各地の要衝に支部が設けられていた。100部隊の支部は大連、海拉爾(ハイラル)〔のちに克山に移転〕、拉古(ラク)駐屯地にも存在した。のちには東安、鶏寧、東寧、四平にも防疫廠が設置された。こうした支部もまた、主として植物及び動物の細菌戦研究に携わったが、細菌戦の人体実験を追及する機会も見逃していない。100部隊員は、可能な場合は、731部隊員と共同の作戦行動に参加した。
100部隊の人体実験の性格について、これまでに知られている報告は、731部隊の生き残りによって戦後アメリカ及びソ連に提供されたものほど豊富ではない。とはいえ、長春で獣医と軍医によって人間を使って行われた研究の恐るべき詳細は現に存在している。こうした記録は、長春の部隊員が、石井や北野の部隊員の場合と同様、同情心のかけらもなく犠牲者を見ていたことを物語っている。若松部隊の技術員、獣医、医者、生物学者、細菌学者、病理学者らは、自分たちが同類の人間に対して行っていることの倫理性や道徳性について顧みることは、例えあったとしても、稀であった。彼らにとって、こうした人々は人間ではなかった。ある獣医の言葉を借りるなら、単なる「実験材料」にすぎなかったのである。長春100部隊の科学者と技師は仕事をするためにそこにいたのであり、それは敵国との戦争において彼らの国のために役立つと期待された仕事だった。
※100部隊にも支部があったのだ!!それも結構多い数だ!!聖戦の美名の下、日本人は異国の人を人と見ず、蔑視していたことが分かる!!日本人が世界で最も優秀な民族だと洗脳されていた!!
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他の親族の被害
談春余(男、55歳)の証言
1937年の12月13日に、日本の侵略軍が南京を占領した時、私は7歳で、家は鎖金橋でした。日本軍は入って来てから、人は殺すは火は放つはで、為さざる悪はありませんでした。私はこの眼で2番目の叔父の楊仁友(楊という人の養子として息子になった)と従兄の談春山(楊仁友の息子、その時20歳)とが、日本軍に殺害された惨状を目撃しました。
2番目の叔父と従兄とは、あの時南京城内のある料理屋で店員をしていて、家は鎖金橋でした。ある日、2人は家が気がかりで、叔母の様子を見に村に戻り、家に一泊泊まりました。明くる朝、日本軍が村にやって来たのですが、逃げるのが間に合わず、家の後ろに自分で掘った穴に隠れました。日本軍は村に来てから、先ず村中の人をみんな駆り出し、一列に立たせ、日本軍20何人かが銃や銃剣を私たちに向けていました。もう一組の日本軍が至る所捜査し、しばらくして、ある穴を見つけ、2人を引っ張り出して叱りつけ、叱ってから、日本軍2人が銃に剣を着け、2人を狙って悪辣な手段を講じたので、叔父は形勢をまずいと見てとり、ぱっと身を巡らして逃げ、日本軍の1人に100メートルほど追われた所で、銃剣で6、7太刀突っつかれて倒れた後、日本軍は叔父がまだ動いているのを見て、またやって来て身体に向かって力任せに一太刀刺し、こうして活きたまま殺されたのでした。その時従兄は形勢悪しと見て、家の後ろの沼の方へ走って行き、河を跳び越えて逃げようとしましたが、日本軍の発砲を恐れて、また引き返して走り、ちょうど引き返して来た所を、追いかけて来た日本軍に腹を目がけて一太刀刺され、腸が飛び出して来て、地に倒れました。日本軍は血の着いた刀を何度かふいて、刀を鞘に刺して行ってしまいました。(張登鳳と田梅が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●撫順の奇蹟を受け継ぐ会東京支部 特別企画
<次世代へ伝える言葉と映像を記録する学習会>
元中国帰還者連絡会座談会
『撫順戦犯管理所の6年間』(第5回)
高橋哲郎さん・金子安次さん・坂倉清さん・小山一郎さん
【日 時】2010年4月11日(日) 午後1時半~4時半
【会 場】「新宿区立消費生活センター 第1集会室」
(住所)〒169-0075 新宿区高田馬場4-10-2
(当日連絡先)090-83159427長沼・090-24927751平山
【交 通】JR&西武新宿線&東西線「高田馬場」駅徒歩5分
【資料代】500円
【内 容】
13時15分 開場
13時30分 開会
13時40分 資料映像放映
-休憩―
14時40分 中帰連座談会
16時30分 閉会
【主 催】撫順の奇蹟を受け継ぐ会 東京支部
〒173-0014東京都板橋区大山東町4-2
Tel 090-8315-9427 Fax03(3962)8478
E-mail jin@crown-ts.jp
●化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
今こそ「解決」を!
~65年前の化学兵器で傷つけられた人々のために~
●遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
●化学兵器被害の苦しみ
事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
●遺棄化学兵器被害の解決のために
旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
●解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします
早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい
このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3 学習会・パネル展示を開きませんか?
中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください
2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
●カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)