日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆A級戦犯となるはずの石井四郎
3月8日、モローは日中戦争に関する調査の進展についてキーナンに報告した。全3頁の報告書で、モローは首席検事に対し、国際検察局のどの係官がどの被告や証人に会って話を聞いているかを報告している。モローは最初の頃に調査していた生物戦問題にもう一度立ち戻っていた。
「署名者〔モロー〕は最近『スターズ・アンド・ストライプス紙』に掲載された細菌戦及び石井中将の活動に関する記事について、GHQ、G-2技術情報部のトンプソン中佐とD・Sテイト大佐に会った」とモローは書いている。
「この記事は『中国ハンドブック』に1937(昭和12)年から42(昭和17)年にかけて報告されている細菌戦らしきものとの関連を指摘している」
しかしモローの説明によると、この会見は何の成果も生まなかった。彼の報告書には「会見は否定的な結果に終わった」と記されている。モローはトンプソンから、三菱商事ビルの5階に陣取っているGHQ化学戦部主任将校マーシャル大佐の名を教えられる。
モローがマーシャルに会ったかどうかわかっていない。モローが日本本土で行った生物戦調査記録は、トンプソン、テイトとの会見が「否定的」な結果だったというはっきりしない記述で終わっている。しかしモローは中国に渡って調査を続けることになっていた。3日後、様々な取り調べの結果がコミンズ・カーの委員会に提出された。これにはモローも出席していた。中国問題は議論されたが、議事録には生物戦やトンプソンの話が出たとは記されていない。翌日、ジーアン陪席検事、ヘンリー・チウ書記官、アメリカ人検事補デビット・ネルソン・サットンと共にモローは中国へ旅立った。同日午後、一行は上海に到着した。
※『731』青木冨貴子著にはもう少し詳しく書いてある。いくつか相違点もあるが。
【モロウは「アサイメント(任務?)B」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙(『スターズ・アンド・ストライプス紙』)に目を奪われたのである。そこには、ジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについて報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。
米軍機関紙を読んだ3日後、モロウは12頁に及ぶ長文の覚書をキーナンへ提出した。・・・
・・・・
ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。・・・・
・・・
モロウは「スターズ&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。・・・・・・
・・・・・・・
モロウが参謀2部の技術諜報部D・S・テイト大佐と共に、キャンプ・デトリックから派遣されていたトンプソンにも会っていたという文面に、私は思わず息をのんだ。普通ならすれ違うはずの2人の軌跡が交差した歴史の瞬間であった。
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
それでもトンプソンはテイトと共にモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、テイトからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった。一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。・・・・・・】
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
王正興(男、77歳)の証言
日本軍が南京を占領した時、家は天堂街でした。私は母方の従兄弟の孫鳳奎が高家酒館で、日本兵に殺されるのをこの眼で見ました。それに、上海路や金銀巷の角で、中国人が3人日本軍に撃ち殺されるのを目撃しました。
金陵女子大学の難民キャンプで、日本軍が中国人を全部集め、頭に帽子のあとがあるかどうか、手に銃を握ったたこがあるかどうかを検査し、あったら、中国兵だとみなし、全部漢中門まで連行し、機関銃で撃ち殺しました。その時の南京は大きな通りから小さな横丁まで至る所死人だらけで、すべてが日本兵に殺害されたラオパーイシン(=庶民)でした。(陳言祥が記録)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*
731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)