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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-09-12 10:58:19 | Weblog

日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
被害地への旅
さらに 崇山村へ
 1998年2月、第1回口頭弁論に崇山村から来日した王麗君(ワンリジェン)は、崇山村原告団を代表して東京地裁の法廷で陳述した。以下はその抜粋である。

 崇山村は浙江省義烏市郊外の農村で、6百有余年の歴史があります。環境は美しく、村人は働き者で、楽しく幸せに暮らしていました。
 1942年、私が10歳の頃、鬼のような日本軍がばらまいたペスト菌が原因で、崇山村で突然ペストが大流行しました。病人はみな、高熱を出し、頭痛がひどく、喉が渇き、リンパ節が大きく腫れるという共通した病状を呈していました。(中略)私の家では、7人の内4人がペストに感染しました。17歳の長兄、15歳の次姉が死にました。母と一番上の姉は幸い助かりましたが、苦しい目に遭いました。
 村中に病人があふれかえって大変になっているころ、日本軍の部隊が村にやって来ました。日本軍は白衣を着て防毒マスクをつけていました。その日本軍は裏山の広場に無理矢理村民を集め、身体検査をしたり、何かわけのわからない注射を打ってたりしました。
 又日本軍は、村の郊外にある林山寺というお寺にたくさんの病人を集めて隔離しました。しかし、そこで治療が行われたのではなく、生体解剖が行われたのです。
 その後、日本軍は、また村に入って来てたくさんの家を焼き払いました。その日、村の全員を裏山の広場に集め、機関銃を抱え、手に銃剣や銃器を持ち、村を包囲しました。それから、たくさんの家に火をつけたのです。びっくりした村民は火を消そうとしましたが、日本軍はそれを射撃したり、銃剣で刺したりして、村民が消火するのを許しませんでした。私の家も燃やされ、それに抗議すると私たちを火の中へ放り込もうとしました。初冬の寒風吹きすさぶ広場で、老若男女全ての村民は、銃や剣を手にした日本軍に包囲され、自分たちの家が大火に飲み込まれるのを目を大きく見開いて見ているほかありませんでした。家を燃やされた人は、全財産を焼き尽くされ、食べるものも着る物も無く、住む所も無くなり、寒空の下、畑の中で野宿して生き延びるしかありませんでした。
※本当に悲惨な状況に置かれたものだ!!ペストという恐ろしい病気が蔓延し、家を焼かれ、全財産を失う!!寒空の下で生き残った人たちは本当に必死に生き抜いたのだろう?今の私には想像すらできない!!
●南京大虐殺 
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
馬桂芳(女、63歳)の証言
 1938年の春節(旧正月)の後、その頃、家は馬長興鴨子店(今の長江路の2番バスの停留所の向かい)をしていましたが、店の隣が良園菜館で、日本軍が毎日やって来て食い飲みしていました。確か2月のある日の晩7時か8時に、日本軍の1人が酒に酔って、菜館から出て行き、気が狂ったみたいに人をむやみになぐり、我が家の鴨子店のガラスも打ち壊してしまいました。私はその頃結婚して間もなくで、様子を見に家に帰って来て、ちょうど2階で家の者としゃべっていて、2番目の兄1人だけが下で商売をしていたのですが、周りの人達と通りがかりのラオパーイシン(=庶民)が、その場景を見て店の入り口を取り囲み、日本軍が酔っ払って眠ってしまったのに乗じて、あいつが一発やれば、こいつも1つぶん殴りして、日本軍をこてんこてんにやっつけてやりました。私は下で起きた事で驚きあわててしまい、下に見にも来れずに、事が過ぎてから、その夜の内に夫の家に戻りました。
 事が起きた明くる日の午後4時に、日本軍が8、9人車で乗り付け、みんなが手に銃を持って店の入口の所で降りて来て、有無を言わせず、付近のラオパーイシンを全部捕まえて行って牢に閉じ込めました。日本軍は鉄の棒で兄の腿をなぐり、長い拷問用の腰かけに兄をくくりつけ、タオルで目隠しをし、水道の水をぶっかけ、ぶっかけてはまたなぐりました。兄が拷問に耐え切れずに、自分がなぐったと認めました。3ヶ月してから、私たち家族はお金を使い人に頼んでやっと2番目の兄を釈放してもらい、兄は石膏をうずめた両腿を引きずって戻って来ました。私は兄が釈放されたと知って、直ちに急いで見舞いに帰って来ましたが、間もなく兄は受けた苦しみが重すぎて世を去りました。日本軍が負っている債務は、私は永遠に忘れられません。(張登鳳と田梅が記録)

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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