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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-11-03 10:59:46 | Weblog


日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

心臓にビタカンフルを注射しても、中国人はもう動きませんでした。口もとがかすかに痙攣していました。頚動脈から鮮血が、私の持っている30ccのコルベンの中にポタリポタリと流れ出しましたが、しばらくするとピタリと止まりました。「ビタカン4本」少し離れたところでこの残虐行為を指揮していた大木が叫びました。ビタカン4本うっても中国人の鮮血をしぼることはできませんでした。中国人は「鬼子ッ(クイズッ)」と憎しみの火と燃える一言を残すと、スーッと顔色が変わり、呼吸(いき)を引き取りました。
「解剖刀をよこせ」細島は解剖刀を逆手に握ると、上腹部から下腹部へ下腹部から胸部へと得意然として切りさいなみ、骨鋸をひいて肋骨をひき切り、内臓の全部を露出させました。てんでに細菌培養の白金耳とシャーレを握り、内臓の露出されるのを待っていた3人は、人肉にむしゃぶりつく飢狼そのままに白金耳を焼いてはジューと中国人の体を焼き、より多くの中国人民を殺害する細菌株を作るために、培養基に塗りたくり始めました。20分後には中国人の肉体は、切って切って切りさいなまれ、血のしたたる肉の塊りとして解剖台上に散乱しました。私たち4人はこの惨殺体を見て満腹した狼のようにフーッと太い息をすると、大木、細島、宇田、私と言う順に隣の休息室へともぐりこみました。

※必死に強いペスト菌の培養をしていることが分かる。犠牲になった中国人は余りにも無残である!!

            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

    主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
鄭明徳(男、67歳)の証言
 1937年の臘月8日に、村に日本兵が2人来ました。私と鄭金山の兄嫁とその姪2人とが穴に隠れていました。私たちは見つかってしまい、日本軍が鄭姉さんを強姦したのを、私をも脅迫してろうそくを持たせて照らさせ、彼らが楽しめるようにさせました。やがて、日本軍は銃に弾を詰め、鄭姉さんは2発撃たれて、その場で死んでしまいました。私も足に一発撃たれましたが、日本軍はそれから柴を抱えて穴の口をふさぎ火を放ったので、子どもの1人が窒息死させられ、1人が煙でいぶし殺されました。日本軍が去ってから、私はやっと穴から這い出しましたが、後遺症が残り、今でも動きにくいです。(王前富と王光輝と杜懐静が記録)

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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