1937年12月13日
南京陥落!!
●南京大虐殺
河村・石原両氏の発言には全くあきれる!!
名古屋市河村市長南京発言を検証する緊急市民集会 3月31日
女性政治局員の訪日案浮上=来月国交40年行事に派遣―関係緊張で人選に苦慮・中国
震災後の日本の対中「感謝外交」をどう受け止めるべきか―中国メディア
中国要人が4月に相次いで訪日、日中関係の早期修復が狙いか―米華字メディア
日本企業家が南京市民に謝罪、大虐殺生存者支援に100万円寄付
名古屋の河村たかし市長、南京大虐殺の「発言は撤回しない」と表明
南京虐殺否認罪「発言控える」=名古屋市長
全人代代表が大虐殺否認罪を提案、「日本の右翼分子を威嚇すべき」
全人代に「南京大虐殺否定罪」制定を提案、名古屋市長発言を受け―中国
「河村たかし名古屋市長の南京事件を巡る発言」
史実を守る会は、河村市長に以下の抗議文を送りました。
抗議文
名古屋市市長 河村たかし殿
(1)貴殿は2012年2月20日午前、表敬訪問に訪れた南京市の共産党市委員会常務委員の一行に対し、「南京事件はなかったのではないか」と発言し、その後も同趣旨の発言を繰り返し、その結果、南京市は名古屋市との交流を一時停止、中国国内でも大きな反発を呼ぶなど、大きな問題に発展している。
(2)貴殿の今回の発言をまとめると、南京事件を否定する根拠として、①終戦後、下士官だった貴殿の父上が南京市において手厚くもてなされた、②目撃者がいない、という2点を挙げている。
しかし、根拠①は、当時の蒋介石政権の「以徳報怨」政策(国共内戦を見越しての日本軍宥和政策)に基づくものと解されるが、そもそも、この様なことが大虐殺を否定する根拠となるはずもない。これを根拠に大虐殺を否定するなどというのは、父上に対して温情を示した南京市民を裏切る暴論である。
また、根拠②は、事実に基づいていない。まず、その前提として指摘するが、南京市の地理の広さ、事件の期間の長さを考慮すれば、大虐殺の全体像を「目撃」することは不可能である。したがって、ここでの「目撃者」とは個々もしくは一定集団に対する虐殺の目撃事例ということになる。
そこで目撃の一例を挙げるならば、夏淑琴さんのケースがある。夏さんは、当時7~8歳だったが、2家族13人の内、11人が殺害されたことを目撃している(※1)。
一方、 独立工兵第1連隊第2中隊の岩崎昌治伍長は、捕獲した敗残兵を殺害したり、「城内に居った支那人を約二千名」を「全部殺してしまった」と陣中書簡に書いている(※2)。
また、ロイター通信社のスミス記者は、揚子江の桟橋で、「一千人の中国人を」「脆かせ、後頭部を撃ち抜く」という処刑の光景を目撃している(※3)。
この様に南京事件は、被害者も加害者も、また第三者でさえも虐殺の模様を「目撃」している。貴殿が言うところの「目撃者がいない」とは、単に「目撃事例の資料を知らない」ということでしかない。
(3)貴殿の「根拠」は根拠たり得ないものであり、それをもって「南京事件はなかったのではないか」などと主張するのは、非科学的主張としか言いようがない。
あまつさえ、表敬訪問に訪れた被害国の要人に向かい、この様な非科学的主張によって被害事実を否定するなどということは、誹謗中傷と受け止められても致し方ない。
即刻、「南京事件なかった」という暴言を取り消し、日中双方の国民に向かい、自身の不明を詫びることを求めるものである。
2012年2月26日
南京への道・史実を守る会
fact_keeper@yahoo.co.jp
http://jijitu.com
「ノブの日記」(seesaaブログ)に寄せられたコメント
河村は本当に馬鹿な男だ、数年前実名で河村に抗議したが返事なし、30万は毛沢東の宣伝で過大だが蒋介石は3万人以上と国連に報告、虐殺は有った、私は中国から復員してきた友人の父親の軍医から聞き15年前南京を訪問現地の資料をみて恐ろしくなった。(sakai)
河村市長:「礼儀欠いた」 中国の批判報道に戸惑い
河村名古屋市長:南京事件発言 SKE48公演に影響も
石原都知事:「河村君正しい」 南京事件否定発言を擁護
南京事件発言、河村市長を大村知事が批判
藤村官房長官「非戦闘員の殺害、略奪行為あった」 村山元首相談話の踏襲表明
南京大虐殺74周年、日本は沈黙
「南京事件」から74周年、市内各所では追悼式典を開催―南京
“南京事件”…犠牲者名簿に新たに1万人を追加=中国
南京大虐殺、新たな証拠品
南京大虐殺 日本の住職、資料を寄贈
南京大虐殺74年で追悼式典 未解決の歴史問題浮き彫り
3月28日 南京に中華民国維新政府成立。南京事件終焉する。
4月 1日 国家総動員法公布。
【南京事件:笠原十九司著:岩波新書より】
「南京事件」143枚の写真
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
フォースター
アメリカ大使館への手紙(1938年3月10日)
1937年12月14日、火曜日のことです。ラーベとスマイスと中国人の孫さんとに、ご一緒していただき、私はまた大急ぎで、私達の敷地2ヶ所を見に行きました。その道で、中国の一般市民や兵士は1人も見られず、日本兵が太平路の道沿いに、商店や民家に押し入り、略奪をしているのが見られるだけでした。私達の教会堂の敷地では、爆弾が1発、大きな正門を撃破していて、小さ目の2つの門の扉も無くなっており、会堂のホールにも砲弾が命中して、ひどく損壊していました。聖ボーロ堂の中の窓や戸が、みんな打ち砕かれ、屋根のかわらも壊れていました。敷地の壁とコンクリートの歩道とに、爆弾の破片でできた小さな穴が無数に開いていました。敷地内の中国風の住宅にも入っていて、ひどく損なわれ、屋根が何ヶ所も崩れ落ちていました。白下路の住宅区に入るとすぐ、そこがすでに略奪した者に踏み込まれたとわかり、アメリカ大使館の公式な告示が正門に貼り出され、敷地内にアメリカの国旗が掲げられもしていたのに、そうなったのです。私は前のロバーツさんの住居で、2人の日本兵に出逢いました。2人とも手に斧を持っていて、そのうちの1人が部屋から、子供の自転車を一つ盗んでいこうとしているところでした。私が現れるや、1人が急いでずらかり、もう1人も自転車を放り出して逃げ去りました。けれどもその後、その自転車もほかの何台かも、やはり盗まれてしまいました。
12月17日 南京入城式
『南京城頭日章旗翻る』&『南京入城式』
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・映画やテレビの時代劇ではクライマックスにチャンバラシーンがあるが、斬られた方のその後の苦しみ・悲惨な光景は省略されることが多い!!日中戦争でも多くの捕虜や市民が日本刀による「据えもの斬り」にされ、殺された。最近のテレビでは日本刀を伝統文化だといって取扱っている番組があったようだ!!恐ろしい!!
・なぜ南京軍事法廷では皇族の朝香宮(当時上海派遣軍司令官)は皇族ゆえ裁かれなかったのか?
南京戦犯裁判軍事法廷の設立と経緯
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南京大虐殺マギーフィルム)1
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南京大虐殺
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日中戦争 (1937-1938)
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南京大 ( Nanking Massacre )
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兵士たちが記録した南京大虐殺1
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●「南京!南京!」が見られる映画サイト
映画「南京!南京!」日本語字幕版全編1/14
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日本の戦争 2
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南京大虐殺
日本は唯一の被爆国であり、広島・長崎では核兵器廃絶のアピールが毎年盛んに行われていたが、今度はその日本が、放射能汚染の加害国になってしまった!!
原発輸出反対!!
日本政府は、先の侵略戦争を真摯に反省し、アジア・日本の被害者に対し謝罪すべきである!!
遺棄毒ガス兵器の処理を急げ!!
きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!!
「怨」
No More 731!! No More Nanking!!
No More Noborito!! No More War!!
No More Fukushima!!
武器よ!原発よ!さらば!!
沖縄の米軍基地撤去!!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
9条を世界に!!
新しい日本!!
世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!!
昭和天皇の戦争犯罪・戦争責任を問う!!
政府は戦史資料を全面公開せよ!!
原発・軍事偵察衛星・次期主力戦闘機・リニア・スパコンは要らない!!
税金を震災復興に回せ!!憲法9条が泣いている!!
※リニアモーターカーは膨大な電力を食い(原発3基分)、福島第1原子力発電所の事故ではスピーディー(スパコン)で計算されたデータは全く生かされなかった!!
沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。
城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
福島に限らず放射能汚染に悩む全世界の人々の悲痛な叫び!!
ふるさとを返せ!!自然を返せ!!
日常を返せ!! 脱原発!!
日本は、“平和を愛した?”「昭和天皇」・“原子力の未来を明るく描いた”「鉄腕アトム」・“アメリカと結託して原子力を推進した”「中曽根・正力」・“今現在でも原子力を推進しようとする「石原」に騙され続けているのでは?と強く思う!!
福島4号地震で傾斜修理中! 1.2.3号機メルトスルー!5/13ガンダーセン(字幕)
東電のカネに汚染した東大に騙されるな!
日本を導く頼もしい学者先生方
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)
水俣病のときは、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまって...
「原爆報告書」は、毒ガス戦・731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書
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封印された原爆報告書
広島・長崎あわせて20万を超える人々の命を奪った原子爆弾。これまで日本は、アメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、“想定外”の奇襲を受けたとしてきた。しかし実際は、原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。
番組では、広島・長崎への原爆投下を巡る日本側の動きを克明に追う。情報を掴みながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか…。原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道である。
*SPEEDIの情報をつかみながら住民の避難に生かさず見殺しにした民主党政権は、戦時中の大本営とまるで変わりありません。
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20120211 原爆投下 活かされなかった極秘情報
731部隊と山下俊一
山下俊一トンデモ発言
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山下俊一のお師匠さん、重松逸造とは?
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長崎大学:チェルノブイリ原発事故と甲状腺がん
このスライドはベラルーシ共和国のがん登録数で、年齢別に手術された甲状腺がん患者10万人あたりを年次推移としてあらわしたもの。
ここで、福島原発事故後に福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した山下俊一・長崎大学教授がチェルノブイリ原発事故後10年をピークに、被ばく時年齢0から15歳未満の甲状腺がん手術数が激増していると解説している。
山下教授は、アドバイザーに就任以降、後に計画的避難区域に設定さた福島県飯舘村で行った講演等で、「健康へのリスクは低く、心配する必要はない」などと発言しているが、飯舘村はベラルーシの強制移住の基準を超えている。
痛み分かち合う行動を 山下俊一氏に聞く
【177】専門職が立ち上がって欲しい(1) 医学の良心と医師の倫理 / 武田邦彦
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福島の外部被ばく調査に関する山下俊一氏と小出裕章氏の意見
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原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~
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2011年12月22日 「国の放射能の『除染に効果はない』」神戸大教授 山内知也
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農民詩「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」は2011年7月18日付で農民連の「しんぶん農民」に掲載され、全国の脱原発集会で朗読された。作者の前田新は会津美里町に住む農民、詩人、作家である。2011年3月11日に勃発した福島第一原発の惨事から四ヶ月目に書かれたものだが、一周年を迎えた今も、原発事故のせいで家を、土地を、家族を、生活を奪われた数十万の人々の怒りと絶望を代弁するものである。農民にとって、手塩にかけて育てた農産物が放射能汚染にさらされるほど無念なことはない。2011年3月29日には、須賀川のキャベツ農家が、政府が新たに発表した摂取制限を聞き、全ての希望を失い、自殺した。前田にとって、農民から生活と命そのものを奪う国策は、隣国の征服と搾取を「国益」とし、多大な市民の命を犠牲にした戦時中の国策を彷彿とさせるものであった。福島医大で教鞭を取る経済学者の後藤宣代は、2011年10月に開催されたUCバークレイ校での福島関連の会議の場で前田の詩を朗読し、この詩に心を打たれた同校の日本近現代史教授、アンドリュー・バーシェイが英語に訳した。後藤の見解では、福島核危機を受けて発表されてきた文学、芸術作品は概ね「福島大好き!福島がんばれ!」といった無批判な応援調のものが主流だとのことである。この傾向は、結果的に、東電や日本政府に対して大きく広がった市民の怒り、そして、放射能から子どもたちを守ることを要求し続けている母親たちの運動、この一年で急増した脱原発運動などの、市民の抵抗運動を抑制することになってしまっているのではないか。ブルームバーグのコラムニスト、ウィリアム・ペセクは、会計処理の不正や汚職により、オリンパスのような大企業のトップや総理大臣さえもが投獄されてきた日本であるのに、野田首相が原発事故について「個別の責任を問わず、痛みは全員で分かち合う」と表明したことについて「開いた口がふさがらない」と言っている。(注)前田新による詩は、日本で起こった大惨事の連続を受けて、責任の所在と適切な処分をどう追及していくのかという重要な課題を我々に突きつける、貴重な文学の「声」と言えよう。(乗松聡子)
(注)William Pesek, “Forget the yakuza, the nuclear mob should be the ones sent to jail,” Sydney Morning Herald, March 10, 2011. Link
見えない恐怖のなかでぼくらは見た
前田 新(福島県農民連会津美里町在住)
見えない恐怖に脅かされて
4か月も過ぎたいまも
ぼくらは、ふるさとの町を追われたままだ
レベル7、その事態は何も変わっていない
何万という家畜たちが餓死していった
人気のいない村に、その死臭だけが
たちのぼっている
姿を見せないものに
奪われてしまったふるさとの山河を
何ごともなかったように季節が移ってゆく
郭公が鳴くそこで、汗を流して働くのは
もう、夢のなかでしかないのか
ぼくらは、そこに立ち入ることもできない
かつて、国策によって満州に追われ
敗戦によって集団自決を強いられ
幼子を棄てて逃げ帰ってきたふるさと
そして苦闘のすえに築いた暮らしを
あの日と同じように、一瞬にして
国策の破綻によって叩き壊された
しかもこれは痛みのない緩慢な死だが
あの日と同じ集団自決の強要ではないのか
七三一部隊の人体実験ではないのか
なかまよ 悲しんで泣いてはいられない
この4ヶ月の間、見えない恐怖のなかで
ぼくらがこの眼で見たものは
それでも、儲けのために
原発は続けていくという恐怖の正体だ
よし、そうならば
ぼくらも孫子のために、腹をすえてかかる
かつての関東軍のように、情報を隠し
危ないところからは、さっさと逃げ帰って
何食わぬ顔で、安全と復興を語る奴らに
そう簡単に殺されてたまるか
なかまよ、死んでいったなかまよ
原発のエキスパート、アーニー・ガンダーゼン氏が緊急警告「事故当初からそうですし、今もなお一番危ないのが4号機です」 -インタビュー(週プレNEWS)
東京で採取(土壌)は #放射性 廃棄物レベル! ガンダーセン<字幕>
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震災がれきの再利用の政府方針について。- 2012.03.15
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20120315 たね蒔きジャーナル 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章
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飯田哲也:今夏の電力は足りる"電力が足りないと言う人は知恵が足りない
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20120316 姜尚中が見た“脱原発...
釜石の奇跡(脈絡のない記事ですいません(;^ω^))
●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】
動物慰霊碑
①正門裏手にあって、高さは3メートルほどある。
碑の裏面には、「陸軍登戸研究所」「昭和18年3月」とあり、碑文の書は所長の「篠田鐐」であることも刻まれている。
②「陸軍登戸研究所」となっていることが注目される。正式名称「第9陸軍技術研究所」はあらゆる陸軍法規からも抹消されていた。
③碑の巨大さも不可解である。ここで格別に多数の動物を実験材料に使っていたという形跡はない。にもかかわらず、すでに戦局が傾いている最中にこれだけの大きさの碑を建てたのは、何か別の理由があったと考えられる。
第2科では生物化学兵器を研究・開発していた。その過程でイヌ、サル、モルモット、ブタなどを使って動物実験を繰り返したのだが、完成すると中国で人体実験を行なった。1941年5月22日から、登戸研究所の幹部7名が南京1644部隊に赴いて、青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘毒蛇、ハブの毒などを用いて、約30人の中国人に実験した。1943年12月から翌年1月にかけても青酸ガスなどの人体実験を行なっている。いずれも防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとで行なわれた。
この事実を踏まえると、人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、動物の慰霊碑として巨大なものを建てたとも考えられる。費用は、この時期に陸軍大臣から与えられた「陸軍技術有功章」に伴う賞金が充当された。
④人体実験をする科学者の心理はどのようなものか。通常の倫理観を持った科学者が悪魔の科学者に変身する。第2科で生物化学兵器研究の中心にいた伴繁雄(終戦時、陸軍少佐)は、帝銀事件の捜査で警察の事情調査を受けた時、次のように供述している。
「実験を始めた。最初は厭であったが、馴れると1つの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)。相手は支那の捕虜を使った。相手が試験官を疑うので偽装して行なった。たとえば・・・・。」(帝銀毒殺事件捜査手記第5巻より。昭和22年4月26日)
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】
動物慰霊碑1
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動物慰霊碑2
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秘密戦関係
記念写真(中央 三笠宮)
偽札(登戸研究所で作っていた)
(模型)登戸研究所で製造していた!!
●731部隊
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第3部
死の壁は固く
しかし、あきらめるわけにはいかない。私達は小さな穴を掘ってはダイナマイトを仕掛けて逃げ、また、がっかりしながら戻ってハンマーを振るった。
立て続けのしかも衝撃的な不眠作業のために、外へ待避して地べたに伏すと、死人のようにがっくり、あごが突き出てしまい、わずかの間にも、すうと眠りに落ちそうになる。しかし、うっかり眠ってしまおうものなら、そのまま置き去りにされそうな危惧がある。死を恐れる意識だけで私達は体を動かしているようなものであった。
とうとう間に合わないとみて、爆弾で破壊するという話がでたが、部隊内には爆弾の用意がないので、他所から取り寄せるのが果して間に合うかどうか不安がられた。
「朝までやってみろ。できるだけ壊すんだ」
と言われて、ひょっとしたら土間の側面は柔らかいのではないかと思い、そこを叩いてみた。案の定、穴をあくのが早い。これだ、というわけで一斉にその部分を狙ってダイナマイトを詰めて点火した。しかし、帰ってみてまたがっかりした。そのあたりのわずかな場所は確かに壊れているのだが、獄そのものはかすり傷をおった程度で、びくともしないのであった。
満洲の夏は夜明けが早く、3時頃には東が白み始める。その時分になって雨はすっかりあがった。
731部隊8月9日 証拠湮滅・日本帰還!!
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※アメリカは中国における日本軍の情報を集めていた。
南京大虐殺・重慶などの都市の無差別爆撃、毒ガス戦・大規模な細菌戦などの残虐行為に対して、今度は報復に出
た。
『金子順一論文集(昭和19年)』紹介
4月15日(日)13:30~16:30 (於)東京ウィメンズプラザ・ホール
「731部隊のすべて」↓(クリックすると拡大します)
た。
※満州の満人をはじめ、農安県でも731部隊は細菌をばらまき、多くの人々を殺し、家々を焼き払った。これも、細菌が自然発生したように見せかけた謀略であった。
フェル・レポートによればPX(ペスト菌を保菌しているゲオプスネズミノミという兵器)を使用した細菌戦は12ケ所で行われ、一次流行したら二次流行と続き多くの犠牲者を出した。
今現在でも中国でこの細菌戦の調査が行なわれている。また、他の病原菌を使った細菌戦やゲオプスネズミノミ以外のペストノミを使用した細菌戦もあったようだ!!(『731資料センター会報第2号』を参照・・・ノブ)
※・・・加えて、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装勢力によって中国の様々な場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が当政府に届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行われたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「我々は完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には(国際)責任が発生するであろう」
(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 P139)
731部隊員の証言 1
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731部隊 究明なるか 年明けにも3カ所目の調査
細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)
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精魂塔(裏)
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精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦(731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
黒い太陽731部隊