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●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
●マレーシアの旅
●九大生体解剖事件
●お知らせ
森友学園「安倍小学校」の補助金詐欺疑惑について。
<森友学園>3通目の契約書あった 金額は異なり日付は同じ
・安倍晋三のおじいさんは岸信介
岸信介という人
以下「日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ」より
岸信介の最初の実績の満州国で実業部総務司長に就任して訪満し、満州国の事実上の責任者として5ヵ年計画の中心者でした。
国家全体主義に燃え、あらゆる悪事を振舞うことになります。
岸信介は大日本帝国の侵略に果たした役割においては非常に優秀だったといえるかもしれません。
岸信介は満州国の現地の中国人らの生き血やアヘンで稼いだ資金をバックに、東條内閣の商工大臣として戦時統制経済を推進していきました。
岸信介は、東條内閣でも中国に深く関わっていくことにあります。戦時中の労働力不足として、中国人の労働力をも使おうとします。
そのために出されたのが、1942年11月27日、東條内閣による「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定でした。
このときの商工大臣は岸信介であり、「華人労務者」強制連行・強制労働政策遂行の最高責任者でした。
戦犯を逃れて、戦後首相に上り詰めた岸信介はそのことを追及されたのだが、責任者であったにも関わらず、白を切り続けました。
強制連行の決定
・3月2日 東京地裁でビザ発給拒否裁判がありました。
中国人細菌戦被害者遺族が日本の集会で細菌戦のことを報告しようと、ビザの申請をしたところ、外務省がビザの発給を拒否しました。そんなことが2度ありました。2度目は裁判の原告して証言しようしたら、これも拒否です。明らかに日本国政府は細菌戦の事実を闇に葬ろうとしている暴挙です!!なぜ、日本政府は、加害の事実を明かにしないで、消し去るのか!!
ビザ発給は外務省の自由裁量でできる?外務省の課長が処理した案件であるから、政治的な意図はないなどと、被告国側は主張している!!おかしい!!
当時の集会の模様
中国人細菌戦被害者遺族は、なぜいない?
ビザ発給拒否・集会妨害裁判について
・2月28日と3月1日には同じく東京地裁で、「衛生学校記事」「化学学校記事」の公開を求める情報公開裁判がありました。2月28日には、防衛省が、きちんと内部の調査結果を報告する予定になっていたのですが、全く調査が不十分でいい加減でしたので、裁判長がもっときちんと調べるように、叱責しました!!防衛省の態度には、本当に誠実さがなく、これでは隠す意図が見え見えです!!裁判が長期化し過ぎています!!司法は、しっかりと裁定して欲しい!!
一体、今の自衛隊の中では、生物兵器の研究、化学兵器、核兵器、どんな研究が日米の軍事同盟の中で行われているのか、これでは国民は全く知ることができないではないか!!恐ろしい世の中だ!!
●2017年「戦争の加害」のパネル展:2月21日~28日 (於)かながわ県民センター
2017年2月横浜パネル展
・2月22日講演「南京大虐殺を考える」大谷猛夫
・2月25日講演「731部隊の細菌戦」奈須重雄
・2月26日講演日本軍の毒ガス戦と企業責任
感想
・日本軍の加害の歴史の最もひどくすさまじい資料を見るのはつらく苦しいです。でも、今も多くの人が苦しい思いをしている事を忘れてはいけないと感じます。戦争を繰り返さないために何ができるのか、考えていきたいです。
●731の実態
汽車が背陰河(はいいんが)駅を通過するとき、まずはカーテンを下して、車内の人に外の状況がわからないようにしている。中馬城(背陰河の実験施設)から途切れ途切れの悲鳴が背陰河の夜を恐怖の色に染めた。その中で起きていることは、誰も知らない・・・・
日本の『大日本帝国憲法』に「天皇は神である」と書かれています。実は神ですから、神の元に日本は統治、コントロールされていました。ですから世界で一番優れた民族であると教育で習っている。・・・石井四朗のような人物は偶然ではないですね。たくさん同じような人間が日本にたくさんいました。人を人とも思わない、特に他民族に対しては、中国人に対して、あるいは朝鮮人に対して日本は非常に蔑視をしていました。・・・・
731(1)
●今、731を問う!!
特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
一 戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■隠蔽・極秘取引・タブー・無視と検証・克服
―これらのことについて、戦後の医学界・医療界、医学者・医師はどのように向き合ってきたのでしょうか。団体の動きや、個人の発言などもふくめて紹介してください。
おもに731・「石井機関」にかかわる当事者の去就について述べます。
1945年8月15日の日本の敗戦以前に、当時の日本政府と軍部は国際的な非難を恐れ、「国体護持」のため、731部隊の証拠隠減を工作しました。
ドイツの医学者・医師が裁かれた1946年12月9日から1947年8月20日にかけて米国が単独で担当したドイツ・ニュルンべルクにおける医師裁判と異なる経緯をたどりました。日本では、米国の細菌戦研究におけるソ連からの立ち遅れを克服するために、「米国への731部隊のデー夕提供と引き換えに、関係者の訴追を免責する」という極秘の取引が連合軍総司令部(GHQ、実体は米軍) と731部隊トップとの間で交わされたのです。731部隊に関係した医学者・医師は、公に露わにならず、そのほとんどが、何食わぬ顔で医学界・医療界に留まり、悪弊を断ち切ることなく、戦後の医学界・医療界などの重職につき、中には叙動、までされました。
以上(月刊『前衛』より)
●福沢諭吉
福澤諭吉は民主主義者ではなく軍国主義者だった 雁屋哲〈週刊朝日〉
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。
──しかし、福澤はそうした軍国主義的な思想を自分の新聞で堂々と述べています。それがなぜいまや民主主義の礎を築いた偉人に?
昭和に入り福澤諭吉を高く評価し、その研究に多くの時間を割いた丸山眞男氏の罪です。丸山氏は福澤の言葉のなかから、自分の都合の良い部分だけつまみ食いしました。例えば「市民的自由主義」という言葉を使っていますが、福澤の文章のどこをとってもそんな表現はない。逆に福澤が「人民は政府の馬だ」と述べた部分は一切省いている。丸山氏は福澤の文章の行間を重視したり、著書をバラバラにして再構築する方法を採ったと述べています。それでは一体、福澤が何を言いたかったのかわからなくなります。
●南京大虐殺80周年!!
村上春樹さん新作、「南京事件」犠牲者「四十万人というものも」で波紋 中国・人民日報サイトも報道
2015年 南京大虐殺世界記憶遺産に登録される!!
安倍晋三は、南京に行くべきだ!!
かつて、石原慎太郎、稲田朋美は南京大虐殺を否定した!!
戦争の反省の無い頭!!
<稲田防衛相>「教育勅語自体が全く誤りというのは違う」
31、関連する裁判
・教科書裁判第3次訴訟 (1997年8月29日 最高裁判決)
1993年10月20日の第3次訴訟についての東京高裁の判決は、南京大虐殺の存在と、その際における強姦の多出を認め、その削除を要求した検定を違法とした。97年8月29日の最高裁判決も、この高裁判決を支持し、南京大虐殺と強姦を最終的に認めたのである。この家永裁判の結果を反映して、教科書の記述にも南京大虐殺の事実が載るようになっており、この限りでは否定論は敗北していると言えるようになっている。
・李秀英名誉毀損裁判 (2005年1月20日 最高裁判決)
南京大虐殺事件の被害者である李秀英さんは、1995年8月、日本国を被告として損害賠償の訴えを起こした。1999年9月22日、請求は棄却 されたものの、李秀英さんの被害事実と南京虐殺の事実は認める判決が言い渡された。ところが、『「南京虐殺」への大疑問』(展転社刊・松村俊夫著)と いう本で、当時日本国に対し損害賠償請求の訴えをしている李秀英さんは、実際に被害を受けた者ではない、別人であるとの記述をした。李秀英さんは、南京で受けた被害に続き、今回の不当な記述によって二重の被害を受け、怒り悲しみ、自己の名誉を守るため、1999年9月、松村俊夫、展転社等に対する、名誉毀損に基づく損害賠償請求の訴えを東京地方裁判所に起こした。地裁・高裁・最高裁はすべて李秀英さんに対する名誉毀損の事実を認定した。
南京事件を調査せよ!!
南京事件 兵士たちの遺言
南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分
パナイ号撃沈
安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!!
当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
マギーフィルム(日本語訳付き)
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦、核開発)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!それだけではない、毒ガスのデータ、原爆開発のデータもアメリカに引き渡し、戦後はアメリカと共同で、極秘裏にCBR兵器の開発を進めている。国民にはその事実を隠蔽し続けている!!核兵器開発の為、原発を手放せないのではないか!!原発と自衛隊との関係はどうなっているのだろうか?〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器)、R(放射能兵器)〕
・『昭和天皇』(下)(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫)より
国民の象徴一族に対する深沢の架空の殺人は 一部の共感を呼んだが、それらはたちまち反対派の憤激の声にかき消され、ついには現実の殺人事件が起こった。宮内庁が著者と出版社を告訴しようとしたのに対し、池田内閣は反対した。右翼は、安保闘争も「風流夢譚」も、革命の欲求という同じ根から出ていると見ていた。彼らはこのような「不敬」な行為を制裁するのに、政府とは違って成功を収めた。右翼勢力は中央公論社の前に押しかけて従業員をなじったり脅したりした。61年2月1日には、過激派右翼団体に属する17歳の少年が、怒りにかられて同社の社長嶋中鵬二(しまなかほうじ)の自宅を襲った。嶋中は在宅しておらず、少年は家政婦を短刀で刺殺し、嶋中の妻に重傷を負わせた。
日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア
井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)
※井本熊男
・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる
・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀)
ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した。 施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。 ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった。 1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。 731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731の流れは国立予防衛生研究所(予研)→国立感染症研究所に姿を変えている!! エイズ・エボラ出血熱・マーズ・サーズ新型インフルエンザなどの病気は、世界のこういった研究所で作られたのではないか?? 一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか?? 国立感染症研究所 国立感染症研究所 どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか?? 国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験 国立感染症研究所の危険性!! 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか??? ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影 堀田伸永 第2章 原子力ムラの源流 学者集団と原子力産業の接近 中泉正德は、1956年9月に原子カ委員会参与となり、あわせて日本原子カ産業会議参与、日本原子力研究所理事に就任した。中泉は、原爆が投下された時に設置された文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会の委員であリ、第五福龍丸事件では東大医師団の中心となって働いた放射線医学の権威だった。中泉は、原子力の平和利用には賛成の立場で、1954年3月30日の参議院連合審査会で、「原子力の平和的な応用ということは、非常に望ましいことであって、大いにやらなければならんことだ」と答えていた。 放射能汚染地図「川で何が起きているか?」 海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集 原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は??? 封印された原爆報告書 開示された文書「何で黒塗り?」 ・日本の科学者の核兵器への執念の系譜 戦中、日本は原爆開発を研究していた。陸軍は理研の仁科芳雄のもとで、海軍は京大の荒勝文策のもとで。戦後もアメリカと自衛隊の軍事交流によってその流れは加速している!! 核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も 潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!! 非核3原則は嘘だった!! ※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。 ※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。 日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!! なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか?? ◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ 小路田泰直 では、アメリカの核の傘のもと日本独自には何をどうしようと、仁科は考えたのだろうか。上記史料に「勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである」とあるように、日本がアメリカ同様の水爆保有国になろうとは、当然考えていなかった。ソ連の原爆実験成功のニュースに接するや、生まれたばかりの日本学術会議をうながして(1949年10月の第4回総会)、「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効な国際管理の確立を要請する」[★13] との「原子力に対する国際管理の確立の要請」を出させたように、アメリカの核の傘の下、原子力の国際管理を実現し、そのもとでの原子力の平和利用に徹しようとしていた。当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。 ※湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。 ※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。 ※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!! 原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影) ●秘密国家日本!! 日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年) アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。 このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。 ・水俣病の原因解明を遅らせた東大医学部 医学は水俣病で何をしたか 宇井純 水俣病 ・京都府立大学の黒い影 731で凍傷実験の人体実験をした吉村寿人は、戦後南極観測の特別委員会の委員を務め、京都府立大学の学長になった!! 淵上輝夫『戦争・罪・贖罪-吉村寿人の場合』 ディオバン事件 暴力団に虚偽診断疑惑の名門・京府医大の「闇」…過去にもトンデモ不祥事連発 ・神奈川大口病院 大口病院 ・日航機墜落事故は自衛隊のミサイルがジャンボの尾翼を破損して起きたのではないか? 森永卓郎X大竹まこと 日航機墜落の陰謀説暴露 日航機墜落事故(空白の16時間) ・地下鉄サリン事件と自衛隊!! 戦後、日本軍の毒ガスのデータも全てアメリカに渡った。そして日米軍事同盟の交流の中で新たな毒ガス開発が続いている!! 1964年には、既に自衛隊ではサリンを製造していた。 日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ) 「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」 「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」 ―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。 ―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。 ―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。 ―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。 ―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。 「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」 『悪魔の白い霧』下里正樹著より オウム真理教の中に化学学校の隊員がいて、サリンの製造方法が漏れていたのではないのか? 「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース 第5回目 ・自衛隊とパワハラ(1) 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 |
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と新宿の軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故
また当時の新聞記事や調査において、
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)
・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!!
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた会社
萩野 昇(富山のシュヴァイツァー)
2015年
偉人医 ・ 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
イタイイタイ病と出会う
萩野が整形外科医として父の白衣を着て診察を始めると、すぐにある奇妙な病気に気づくことになる。それは神経や骨の激しい痛みを訴える病気であった。彼は7年間、軍医として多くの神経痛の患者を診察してきたが、これほど激しい痛みを訴える患者を診察したことはなかった。しかも痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたした。この多発性骨折をきたす病気は何だろうか、まったく見当がつかなかった。同じ症状を訴える患者が次々に萩野病院に押し掛けてきた。骨折の痛みに悲鳴を上げながら患者は診察を受けにきた。どの患者も「痛い、痛い」と悲痛な痛みを切なく訴えた。萩野はレントゲン写真をみて驚いた。身体中の骨は枯れ枝のようであった。痛みの訴えの切実さが理解できた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から、看護婦はこの悲惨な患者を「イタイイタイさん」と呼んでいた。そして萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになった。
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
・パネル展(731細菌戦)
中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。
・細菌戦最大の被害地・浙江省を訪ねるスタディツアー
2016年10月24日 衢州(くしゅう)
2016年10月25日 麗水 (れいすい)
2016年10月25日(火) 麗水№2
2016年10月26日(水) 四路口(しろこう)
2016年10月27日(木) 武義、金華石門
2016年10月28日(金) 金華市街
2016年10月29日(土)義烏市崇山村
台湾義勇隊(金華 )
台湾義勇隊(上)抗日戦争:細菌戦
台湾義勇隊(下)(抗日戦争)
事前学習会
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
話は今につながっている!!
11月20日の石井が、アメリカ人、通訳を入れて6名ですね。日本人側は、石井ともう一人Mと称している、書かれている人等が、招聘してですね、そこで会っているという、これが、非常に今まで分からなかったこと、新事実ですね。
石井隊長の戦後2
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。
薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!
子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!
ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
※Internet Explorer よりグーグルクローム(Google Chrome)で見るとスムーズに画面が動きます。
●731部隊(1) ●731部隊(2) ●731部隊(3) ●731部隊(4) ●陸軍軍医学校50周年記念行事について ●南京大虐殺 ●昭和天皇 ●教科書問題 ●陸軍登戸研究所 ●日航123便の怪 ●日本とドイツの違い ●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!! ●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか? ●731部隊展 ●マレーシアの旅 ●九大生体解剖事件 ●お知らせ 森友学園「安倍小学校」の補助金詐欺疑惑について。 <森友学園>3通目の契約書あった 金額は異なり日付は同じ ・安倍晋三のおじいさんは岸信介 岸信介という人 以下「日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ」より 岸信介の最初の実績の満州国で実業部総務司長に就任して訪満し、満州国の事実上の責任者として5ヵ年計画の中心者でした。 国家全体主義に燃え、あらゆる悪事を振舞うことになります。 岸信介は大日本帝国の侵略に果たした役割においては非常に優秀だったといえるかもしれません。 岸信介は満州国の現地の中国人らの生き血やアヘンで稼いだ資金をバックに、東條内閣の商工大臣として戦時統制経済を推進していきました。 岸信介は、東條内閣でも中国に深く関わっていくことにあります。戦時中の労働力不足として、中国人の労働力をも使おうとします。 そのために出されたのが、1942年11月27日、東條内閣による「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定でした。 このときの商工大臣は岸信介であり、「華人労務者」強制連行・強制労働政策遂行の最高責任者でした。 戦犯を逃れて、戦後首相に上り詰めた岸信介はそのことを追及されたのだが、責任者であったにも関わらず、白を切り続けました。 強制連行の決定 ・3月2日 東京地裁でビザ発給拒否裁判がありました。 中国人細菌戦被害者遺族が日本の集会で細菌戦のことを報告しようと、ビザの申請をしたところ、外務省がビザの発給を拒否しました。そんなことが2度ありました。2度目は裁判の原告して証言しようしたら、これも拒否です。明らかに日本国政府は細菌戦の事実を闇に葬ろうとしている暴挙です!!なぜ、日本政府は、加害の事実を明かにしないで、消し去るのか!! ビザ発給は外務省の自由裁量でできる?外務省の課長が処理した案件であるから、政治的な意図はないなどと、被告国側は主張している!!おかしい!! 当時の集会の模様 中国人細菌戦被害者遺族は、なぜいない? ビザ発給拒否・集会妨害裁判について ・2月28日と3月1日には同じく東京地裁で、「衛生学校記事」「化学学校記事」の公開を求める情報公開裁判がありました。2月28日には、防衛省が、きちんと内部の調査結果を報告する予定になっていたのですが、全く調査が不十分でいい加減でしたので、裁判長がもっときちんと調べるように、叱責しました!!防衛省の態度には、本当に誠実さがなく、これでは隠す意図が見え見えです!!裁判が長期化し過ぎています!!司法は、しっかりと裁定して欲しい!! 一体、今の自衛隊の中では、生物兵器の研究、化学兵器、核兵器、どんな研究が日米の軍事同盟の中で行われているのか、これでは国民は全く知ることができないではないか!!恐ろしい世の中だ!! ●2017年「戦争の加害」のパネル展:2月21日~28日 (於)かながわ県民センター 2017年2月横浜パネル展 ・2月22日講演「南京大虐殺を考える」大谷猛夫 ・2月25日講演「731部隊の細菌戦」奈須重雄 ・2月26日講演日本軍の毒ガス戦と企業責任 感想 ・日本軍の加害の歴史の最もひどくすさまじい資料を見るのはつらく苦しいです。でも、今も多くの人が苦しい思いをしている事を忘れてはいけないと感じます。戦争を繰り返さないために何ができるのか、考えていきたいです。 ●731の実態 汽車が背陰河(はいいんが)駅を通過するとき、まずはカーテンを下して、車内の人に外の状況がわからないようにしている。中馬城(背陰河の実験施設)から途切れ途切れの悲鳴が背陰河の夜を恐怖の色に染めた。その中で起きていることは、誰も知らない・・・・ 日本の『大日本帝国憲法』に「天皇は神である」と書かれています。実は神ですから、神の元に日本は統治、コントロールされていました。ですから世界で一番優れた民族であると教育で習っている。・・・石井四朗のような人物は偶然ではないですね。たくさん同じような人間が日本にたくさんいました。人を人とも思わない、特に他民族に対しては、中国人に対して、あるいは朝鮮人に対して日本は非常に蔑視をしていました。・・・・ 731(1) ●今、731を問う!! 特集 軍拡に走る安倍政権と学術① 15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために 一 戦争における医学者・医師たちの犯罪 西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表 2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか ■隠蔽・極秘取引・タブー・無視と検証・克服 ―これらのことについて、戦後の医学界・医療界、医学者・医師はどのように向き合ってきたのでしょうか。団体の動きや、個人の発言などもふくめて紹介してください。 おもに731・「石井機関」にかかわる当事者の去就について述べます。 1945年8月15日の日本の敗戦以前に、当時の日本政府と軍部は国際的な非難を恐れ、「国体護持」のため、731部隊の証拠隠減を工作しました。 ドイツの医学者・医師が裁かれた1946年12月9日から1947年8月20日にかけて米国が単独で担当したドイツ・ニュルンべルクにおける医師裁判と異なる経緯をたどりました。日本では、米国の細菌戦研究におけるソ連からの立ち遅れを克服するために、「米国への731部隊のデー夕提供と引き換えに、関係者の訴追を免責する」という極秘の取引が連合軍総司令部(GHQ、実体は米軍) と731部隊トップとの間で交わされたのです。731部隊に関係した医学者・医師は、公に露わにならず、そのほとんどが、何食わぬ顔で医学界・医療界に留まり、悪弊を断ち切ることなく、戦後の医学界・医療界などの重職につき、中には叙動、までされました。 以上(月刊『前衛』より) ●福沢諭吉 福澤諭吉は民主主義者ではなく軍国主義者だった 雁屋哲〈週刊朝日〉 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。 ──しかし、福澤はそうした軍国主義的な思想を自分の新聞で堂々と述べています。それがなぜいまや民主主義の礎を築いた偉人に? 昭和に入り福澤諭吉を高く評価し、その研究に多くの時間を割いた丸山眞男氏の罪です。丸山氏は福澤の言葉のなかから、自分の都合の良い部分だけつまみ食いしました。例えば「市民的自由主義」という言葉を使っていますが、福澤の文章のどこをとってもそんな表現はない。逆に福澤が「人民は政府の馬だ」と述べた部分は一切省いている。丸山氏は福澤の文章の行間を重視したり、著書をバラバラにして再構築する方法を採ったと述べています。それでは一体、福澤が何を言いたかったのかわからなくなります。 ●南京大虐殺80周年!! 村上春樹さん新作、「南京事件」犠牲者「四十万人というものも」で波紋 中国・人民日報サイトも報道 2015年 南京大虐殺世界記憶遺産に登録される!! 安倍晋三は、南京に行くべきだ!! かつて、石原慎太郎、稲田朋美は南京大虐殺を否定した!! 戦争の反省の無い頭!! <稲田防衛相>「教育勅語自体が全く誤りというのは違う」 31、関連する裁判 ・教科書裁判第3次訴訟 (1997年8月29日 最高裁判決) 1993年10月20日の第3次訴訟についての東京高裁の判決は、南京大虐殺の存在と、その際における強姦の多出を認め、その削除を要求した検定を違法とした。97年8月29日の最高裁判決も、この高裁判決を支持し、南京大虐殺と強姦を最終的に認めたのである。この家永裁判の結果を反映して、教科書の記述にも南京大虐殺の事実が載るようになっており、この限りでは否定論は敗北していると言えるようになっている。 ・李秀英名誉毀損裁判 (2005年1月20日 最高裁判決) 南京大虐殺事件の被害者である李秀英さんは、1995年8月、日本国を被告として損害賠償の訴えを起こした。1999年9月22日、請求は棄却 されたものの、李秀英さんの被害事実と南京虐殺の事実は認める判決が言い渡された。ところが、『「南京虐殺」への大疑問』(展転社刊・松村俊夫著)と いう本で、当時日本国に対し損害賠償請求の訴えをしている李秀英さんは、実際に被害を受けた者ではない、別人であるとの記述をした。李秀英さんは、南京で受けた被害に続き、今回の不当な記述によって二重の被害を受け、怒り悲しみ、自己の名誉を守るため、1999年9月、松村俊夫、展転社等に対する、名誉毀損に基づく損害賠償請求の訴えを東京地方裁判所に起こした。地裁・高裁・最高裁はすべて李秀英さんに対する名誉毀損の事実を認定した。 南京事件を調査せよ!! 南京事件 兵士たちの遺言 南京大虐殺:侵華日軍南京大 南京電影制片庁 21分 パナイ号撃沈 安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!! 当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺 フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」 マギーフィルム(日本語訳付き) ●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦、核開発) 日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!それだけではない、毒ガスのデータ、原爆開発のデータもアメリカに引き渡し、戦後はアメリカと共同で、極秘裏にCBR兵器の開発を進めている。国民にはその事実を隠蔽し続けている!!核兵器開発の為、原発を手放せないのではないか!!原発と自衛隊との関係はどうなっているのだろうか?〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器)、R(放射能兵器)〕 ・『昭和天皇』(下)(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫)より 国民の象徴一族に対する深沢の架空の殺人は 一部の共感を呼んだが、それらはたちまち反対派の憤激の声にかき消され、ついには現実の殺人事件が起こった。宮内庁が著者と出版社を告訴しようとしたのに対し、池田内閣は反対した。右翼は、安保闘争も「風流夢譚」も、革命の欲求という同じ根から出ていると見ていた。彼らはこのような「不敬」な行為を制裁するのに、政府とは違って成功を収めた。右翼勢力は中央公論社の前に押しかけて従業員をなじったり脅したりした。61年2月1日には、過激派右翼団体に属する17歳の少年が、怒りにかられて同社の社長嶋中鵬二(しまなかほうじ)の自宅を襲った。嶋中は在宅しておらず、少年は家政婦を短刀で刺殺し、嶋中の妻に重傷を負わせた。 日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!! 「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア 井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている) ※井本熊男 ・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる ・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀) 寧波(ニンポー)細菌戦 地底からの叫び声が聞こえませんか??(「八紘一宇」のスローガンのもと行われた残虐行為!!) ・三原じゅん子の歴史の事実を無視した国会での発言!! 【国会】三原じゅん子『【八紘一宇】を語る? 2016年年3月16日 731勿忘 731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、 また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。 ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長) 侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像 常徳細菌戦 闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送) 細菌戦裁判(1997年~2007年) 終戦50周年731部隊 細菌戦被害の人々 (毒ガス戦) 原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】 <終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造 日本鬼子のおきみやげ(毒ガス) 暴かれる毒ガス戦の真実 (毒ガス戦) さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) (細菌戦) 昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 天皇は知っていた!! 澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!! 『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』 松野誠也(明治大学大学院)【当時】より ・・・・・・(略) 澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。 これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。 石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。 これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。 次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。 石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。 何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。 仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。 石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略) 東京初空襲・浙かん作戦 一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。 ※蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。 蛍石を採掘するのも、山東省、河南省、安徽省、江蘇省、浙江省などから強制連行された中国人だった。(約1700人) 1944年疫病がはやり、病気になったものは、隔離され食べ物も与えられず、餓死した。 蛍石の彫り物 赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】 ・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!! ・日本は富国強兵を目指した!! 1921年昭和天皇フランス視察 1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察 ??A氏(731部隊幹部)の言うには、今事実関係を明らかにすると、それは戦争中の犯罪行為を暴露するだけにとどまらす、戦後の重大な犯罪事実までズルズル数珠つなぎに明らかになってしまうから、だから話が出来ない、ということなのです。?? ・731と天皇の戦争犯罪 同じように、おそらく日本政府が恐れているのは、戦争中の日本軍の戦争犯罪が暴かれて賠償の問題になることだけではなく、暴露によって戦後の重大事実が明かになることなのではないかという疑いが大きくあります。 それと同時にもう1つ大きな問題は、天皇の戦争犯罪の問題です。私も鑑定書で書きましたが、中国・浙江省寧波で細菌作戦の時、昭和15年の11月に発令された「大陸指」というのがあります。杉山参謀総長名で出ているものです。その781号によると、大陸指690号によって目下実施中の特殊ガスの試験を大陸命第439号に基づく大陸指第781号を以って終わりにすると、11月末日で終了せよという命令が出ています。特殊ガス試験というのは細菌兵器の実施使用のことです。これは明かに細菌戦の命令指示です。 「大陸命」というのは大本営陸軍部命令の略ですが、天皇が発する命令です。 当時は普通御前会議で昭和天皇と陸軍部の参謀総長、海軍の軍令部長とそれと大体原則的には侍従武官長が列席して、お上に作戦を上奏します。それでOKということになると「大陸命」を作成するわけです。陸軍部がやるわけですが、その「大陸命」を作るとそれに基づき「大陸指」を作成してこれでよろしいかと、お上にお見せするのが慣例でした。いつも必ず見せていた。それでこの通りにというと「大陸指」という参謀総長の発する命令、指令が出るわけです。作戦によっては担当の大本営の担当者、参謀が直接天皇の前へ行って作戦を事細かに上奏、説明します。・・・・・・(中略)・・・・・ 瀬島龍三という元大本営の参謀も、「陸軍は大陸命、海軍は大海命といいますが、それがないと軍の用兵は何1つ出来ない、参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ勝手に軍を動かすことは一切出来なかった」と言っています。ですから「大陸命」に基づいてというところが一番肝心なのですが、その内容はすべて昭和天皇の耳に入っていたということです。ここに731を何としてでも隠蔽しなければならなかった理由があります。・・・・(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より) ・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか? 医の倫理は、向上すると思う!! 中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!! 聞け、この沈黙の慟哭を 平房の涙、地底の叫びを 見よ、この虐げられた大地を 名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている 記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける 【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より 日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア 混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮) 細菌戦資料発掘の旅(1) 近藤昭二(本会共同代表、ジャーナリスト) 731部隊・細菌戦関連の資料を発掘する旅の報告。まずはロシアに残されている資料のレポートから始めることにする。 日本語版も出回ったハバロフスク細菌戦裁判の公判記録 冒頭に、調書の目次があり、続いて日付順に調書が並べられている。 どういった様式になっていたのか、ここに実例を挙げてみる。 『公判書類』は、1950年出版の後、1973年12月に全日本医学生連合・刊行委員会から、1982年7月には海燕書房と不二出版で復刻されているが、いずれも残念なことに捜査段階の調書は「抄録」になっている。特に川島清の1949年10月24日付け調書は省略が多く、そこには安達演習場での実験の模様や中国中部での細菌戦実施についての重要な事実が語られているので、川島分の3通全文をまずここであげてみる(宇都宮亜紀訳 英語版を参照して筆者監修)。 大括弧[ ]でくくった太字の部分が省略された部分。二重括弧《 》は欄外余白の記入、文中の下線は原文のママで、タイプ後に記入されているもの。 川島清尋問調書 1949年10月24日 ハバロフスク市 [尋問時間:12時00分 尋問終了:2時45分 休憩:17時-19時 川島証人はロシア連邦共和国刑法第95条による偽証罪の警告を受けている。 尋問は、ロシア連邦共和国第95条による偽証罪の警告を受けた、通訳プリャチェンコを介して日本語で行われる。 (プリャチェンコ) 質問:細菌兵器の演習実験に参加することはあったか? 答え:私たちが演習場に到着するまでに、その区画には柱に縄でつながれた10-15人の人間のほか、数百匹のネズミが置かれていた。約100人の実験の参加者は、実験場から1km離れた風上に設置された安全な掩蔽部にいた。実験を指揮したのは第2部の部長、オオト(7)だった。 しばらくすると演習場の上空に731部隊の飛行場を出発した私達の飛行機が現れた。実験対象の人間や動物の上に10個以上の爆弾が投下された。その爆弾は陶器製で、地上200mで自動的に爆弾を爆発させる特別な起爆装置がついていた。爆弾は長さ50cm、総重量は約10kgだった。 爆弾の爆発後、蚤が飛散し、標的に命中していき、実験対象の人間や動物を感染させていった。 実験結果について、技術的にはうまくいった。細菌爆弾はすべて的にあたったが、その後、監獄内での被験者の経過観察によると、感染レベルは満足いくものではなかった。原因は、非常に暑い天候のため、蚤の動きが弱かったためだ。 それ以外の、生きた人間を使った屋外での細菌兵器の使用試験は、私が参加したところでは行われなかった。 (7):Ootaのミスタイプ。大田澄は総務部長、第2部長、第4部長を歴任していた。 ※日本人も731部隊で細菌などを扱っていたので、細菌に感染することがあった。時には日本人も、生体解剖された!! プライム10「731細菌戦部隊」 小泉親彦(ちかひこ) ※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物 1945年9月、自決。 |
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行) 第2部 恐るべき遠足 死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。 わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。 は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。 ・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と新宿の軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた?? 実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。 1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英) 1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。 紅白の殺戮者 1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか? 事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故 また当時の新聞記事や調査において、 三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと 2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと 患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない) 市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること などが分かっている。 当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。 しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。 一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの?? (参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年) ・三井という会社 毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!! ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大 イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた会社 萩野 昇(富山のシュヴァイツァー) 2015年 偉人医 ・ 萩野昇 萩野昇(富山のシュヴァイツァー) 富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。 イタイイタイ病と出会う 萩野が整形外科医として父の白衣を着て診察を始めると、すぐにある奇妙な病気に気づくことになる。それは神経や骨の激しい痛みを訴える病気であった。彼は7年間、軍医として多くの神経痛の患者を診察してきたが、これほど激しい痛みを訴える患者を診察したことはなかった。しかも痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたした。この多発性骨折をきたす病気は何だろうか、まったく見当がつかなかった。同じ症状を訴える患者が次々に萩野病院に押し掛けてきた。骨折の痛みに悲鳴を上げながら患者は診察を受けにきた。どの患者も「痛い、痛い」と悲痛な痛みを切なく訴えた。萩野はレントゲン写真をみて驚いた。身体中の骨は枯れ枝のようであった。痛みの訴えの切実さが理解できた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から、看護婦はこの悲惨な患者を「イタイイタイさん」と呼んでいた。そして萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになった。 護衛艦などを作る!!軍需会社!! 三井造船が建造した船舶 三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞 ・パネル展(731細菌戦) 中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。 ・細菌戦最大の被害地・浙江省を訪ねるスタディツアー 2016年10月24日 衢州(くしゅう) 2016年10月25日 麗水 (れいすい) 2016年10月25日(火) 麗水№2 2016年10月26日(水) 四路口(しろこう) 2016年10月27日(木) 武義、金華石門 2016年10月28日(金) 金華市街 2016年10月29日(土)義烏市崇山村 台湾義勇隊(金華 ) 台湾義勇隊(上)抗日戦争:細菌戦 台湾義勇隊(下)(抗日戦争) 事前学習会 瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」 「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦 話は今につながっている!! 11月20日の石井が、アメリカ人、通訳を入れて6名ですね。日本人側は、石井ともう一人Mと称している、書かれている人等が、招聘してですね、そこで会っているという、これが、非常に今まで分からなかったこと、新事実ですね。 石井隊長の戦後2 筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。 ガン治療のウラ 3/8 抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ 「ミドリ十字」という会社 内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。 厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。 命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような 医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう 医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する 千数百名もの感染者を出した 「薬害エイズ」事件 このような事件の発生を反省し この碑を建立した 平成11年8月 厚生省 碑を建てても薬害は続く!! 8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。 薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体 イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴 イレッサ訴訟 子宮頸がんワクチン接種後の症状 国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!! 子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ 以下、ウィキペディアより ・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。 ・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。 ・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。 国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!! ABCC委員会と731部隊 ・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。 ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。 1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より) ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより 米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した。 施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。 ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった。 1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。 731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731の流れは国立予防衛生研究所(予研)→国立感染症研究所に姿を変えている!! エイズ・エボラ出血熱・マーズ・サーズ新型インフルエンザなどの病気は、世界のこういった研究所で作られたのではないか?? 一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか?? 国立感染症研究所 国立感染症研究所 どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか?? 国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験 国立感染症研究所の危険性!! 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか??? ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影 堀田伸永 第2章 原子力ムラの源流 学者集団と原子力産業の接近 中泉正德は、1956年9月に原子カ委員会参与となり、あわせて日本原子カ産業会議参与、日本原子力研究所理事に就任した。中泉は、原爆が投下された時に設置された文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会の委員であリ、第五福龍丸事件では東大医師団の中心となって働いた放射線医学の権威だった。中泉は、原子力の平和利用には賛成の立場で、1954年3月30日の参議院連合審査会で、「原子力の平和的な応用ということは、非常に望ましいことであって、大いにやらなければならんことだ」と答えていた。 放射能汚染地図「川で何が起きているか?」 海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集 原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は??? 封印された原爆報告書 開示された文書「何で黒塗り?」 ・日本の科学者の核兵器への執念の系譜 戦中、日本は原爆開発を研究していた。陸軍は理研の仁科芳雄のもとで、海軍は京大の荒勝文策のもとで。戦後もアメリカと自衛隊の軍事交流によってその流れは加速している!! 核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も 潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!! 非核3原則は嘘だった!! ※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。 ※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。 日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!! なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか?? ◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ 小路田泰直 では、アメリカの核の傘のもと日本独自には何をどうしようと、仁科は考えたのだろうか。上記史料に「勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである」とあるように、日本がアメリカ同様の水爆保有国になろうとは、当然考えていなかった。ソ連の原爆実験成功のニュースに接するや、生まれたばかりの日本学術会議をうながして(1949年10月の第4回総会)、「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効な国際管理の確立を要請する」[★13] との「原子力に対する国際管理の確立の要請」を出させたように、アメリカの核の傘の下、原子力の国際管理を実現し、そのもとでの原子力の平和利用に徹しようとしていた。当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。 ※湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。 ※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。 ※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!! 原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影) ●秘密国家日本!! 日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年) アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。 このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。 ・水俣病の原因解明を遅らせた東大医学部 医学は水俣病で何をしたか 宇井純 水俣病 ・京都府立大学の黒い影 731で凍傷実験の人体実験をした吉村寿人は、戦後南極観測の特別委員会の委員を務め、京都府立大学の学長になった!! 淵上輝夫『戦争・罪・贖罪-吉村寿人の場合』 ディオバン事件 暴力団に虚偽診断疑惑の名門・京府医大の「闇」…過去にもトンデモ不祥事連発 ・神奈川大口病院 大口病院 ・日航機墜落事故は自衛隊のミサイルがジャンボの尾翼を破損して起きたのではないか? 森永卓郎X大竹まこと 日航機墜落の陰謀説暴露 日航機墜落事故(空白の16時間) ・地下鉄サリン事件と自衛隊!! 戦後、日本軍の毒ガスのデータも全てアメリカに渡った。そして日米軍事同盟の交流の中で新たな毒ガス開発が続いている!! 1964年には、既に自衛隊ではサリンを製造していた。 日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ) 「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」 「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」 ―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。 ―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。 ―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。 ―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。 ―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。 「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」 『悪魔の白い霧』下里正樹著より オウム真理教の中に化学学校の隊員がいて、サリンの製造方法が漏れていたのではないのか? 「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース 第5回目 ・自衛隊とパワハラ(1) 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 |