●第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? ●NO MORE 化学兵器 ●帝銀事件と登戸研究所 ●石垣島の自衛隊!! ●カネミ油症問題 ●元731部隊軍医と強制不妊手術 ●731部隊・100部隊と戦後の流れ ●細菌戦部隊員の戦後 ●731部隊の問題 横浜の「戦争の加害展(2月10日~16日)」が無事終了しました。 今回で4回目になりますが、今までで一番多い2500人以上の方が来場されました。 ご来場ありがとうございました。 『この世界の片隅に』に描かれた軍都・植民地主義・女性抑圧 植松青児さん 「この世界の片隅に」 1940年農安細菌戦と新京ペスト 奈須重雄さん 日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!! 平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相 ●日本国憲法第9条 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】 ・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前) ・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない) 統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に 2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影 ●ニュース 中江首相秘書官「検討申し上げたかも」 勤労統計対象入れ替え 「なぜ沖縄に冷たいのか」の指摘も 辺野古移設巡り激しい論戦 衆院予算委 陸自車両、コマツが開発中止…高コスト低利益 【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 濃くなった景気後退の兆し! アメリカの予兆と日本の来年度予算&日銀政策 自衛隊の名、実態と合ってない? 無線では「日本海軍」 「南スーダンPKO動画」開示 防衛省 根元から腐り始めた国の機構/防衛省PKO動画公開 核兵器廃絶!! 復活する米露の中距離核戦力とは 3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~ 「歴史の真相」内海聡の内海塾 【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 やばい日本の製造業! 家電&国産スマホの財政危機 【大竹まこと×近藤誠×倉田真由美】 〈目から鱗の医療〉 がん手術・抗がん剤治療・早期発見は効果がない! 竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか 海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見 【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任 森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」 「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ 松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示 “旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27) 真相を解明していないからこうなるのだろう!! オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活 731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他 国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題 中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30 京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局) 731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に 「特殊部隊731」 秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行) 野外実験所の記録 しかし、いざとなると、やはり私はちゅうちょせざるを得なかった。もし、曲解されたなら、それこそ大変な事になる。わざと悪意な解釈をされても結果は同じなのだ。その日はあきらめて、翌日、佐川技手に申し出てみた。 「資料を見せていただけないでありますか」 私は、佐々と保坂とに打ち明けておいて、連れ立っていったのだった。 「資料?なんのだ」 佐川技手は額にしわを寄せながら、机に両肘をついたまま顔を上げた。 「講義だけでは、良くのみ込めないところもありますので、患者の写真があるようでしたら見たいと思うのですが・・・・。いろんな症状を実際にのみ込んでおきたいのであります」 「そうか、君たちも、もう大分馴れたからなぁ。勝手に見てかまわんよ」 佐川技手は、いともあっさりと承諾して、“持出禁止”の箱をあごで示した。 「自分で開いてかまわないのでありますか?」 私は遠慮深く聞き返した。 「いいよ。せいぜい勉強してくれ。いくらでも仕事はあるんだから、早く1人前になってもらわにゃ困るからな」 佐川技手は、熱心な奴らだと思ったらしく、上機嫌であった。与えられた仕事を忠実に履行し、これまでの仕事の上での小言をくったことのない私だから、直接指導の立場にある佐川技手にとっては、やはり嬉しいことであったろう。 ・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容 (731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より) 1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り 京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。 審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。 これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。 ・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った ・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった ・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した ・死亡後の学位授与認可 ・・・・・ 「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」 日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!! ●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より 第4章 科学はいかにして罪業となったか 多種多様な化学兵器 1934年と1935年には、重型及び軽型の毒ガス投射機がそれぞれ開発された(表14参照)。これらは第1次世界大戦時に用いられはじめた大規模な毒剤散布のための兵器で、迫撃砲に似ているが、発射されるのは毒剤を装入した壁の薄い金属の円筒だ。円筒の真ん中に爆薬があり、発射後起爆する。迫撃砲の射程の長さと毒ガス筒の毒剤の多さという特徴を併せ持った兵器で、数十門の投射機で同時に発射すれば、速やかに敵方に対して毒ガス攻撃を実施することができる。日本軍の研究した投射機には構造上新たに改良がなされている。すなわち毒ガス筒を回転した状態で発射し、正確さを高めることができるのである。また射程を1500mから3000mに伸ばすなど、第1次世界大戦時のタイプと比べ著しく進歩したのである。しかし時を同じして毒ガス迫撃砲ができたため、このタイプの投射機はずっと制式化されなかった。 東京第二陸軍造兵廠曽根製造所 平成十二年八月六日、「平和のための戦争展 in 北九州2000」の企画で、旧軍施設の見学会が催されました。見学先は、「東京第二陸軍造兵廠曽根製造所」跡地です。それに参加したときの写真です。 ここは、表向きは普通の爆弾製造工場とされていましたが、実際は、「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(広島県竹原市大久野島)」製の毒ガスを、「小倉陸軍造兵廠(福岡県北九州市小倉北区)」製の砲弾・爆弾に充填する化学兵器製造所でした。日本の製造した毒ガス弾の2割がここで充填されたと言われています。 ●A1棟(イペリットの充填作業場・ルイサイトとの混合物もここで充填された) このような外観をしています。これら旧軍施設は、現在物置として使用されているとの説明がありましたが、この建物以外はほとんどカラでした。 ●登戸研究所資料館 学内史跡 明治大学生田キャンパスは登戸研究所跡地に建てられたため、キャンパス内には動物慰霊碑・消火栓など、登戸研究所の面影を残す史跡がいくつか残っています。ここでは、キャンパス内に残る史跡を紹介し、現在のキャンパス内に残る史跡を紹介し、現在のキャンパスから登戸研究所が所在していた過去を振り返ります。 消火栓 図書館付近と食堂館入口に研究所時代に設置された消火栓があります。どちらの消火栓も、すでに消火栓としては機能していません。正面に陸軍のマークである星形が記されているのが分かります。消火栓は、空襲による火災だけでなく、研究所内における化学兵器の開発。製造に伴う火災も想定されていたことを考えさせる重要な遺跡です。 ●特集 軍拡に走る安倍政権と学術① 15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために 1、戦争における医学者・医師たちの犯罪 西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表 4、ドイツではどのように向き合ったのか ■世界と日本での議論の進展 ―それに対し、日本の科学者の世界では、全体の問題としてどう議論されていますか。 さらに、2005年の平和問題研究連絡委員会報告「21世紀における平和学の課題」では、日本学術会議としても日本の未決の戦争責任などの諸問題を学術的に解明することが重要であると述べられていました。 このように、731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上(そじょう)にのる兆しが出てきました。 しかし、2005年に学術会議会員の選考法がさらに改悪され、学術会議会員が自ら選考する方法となった後に公表された学術会議の諸文書には、戦争医学犯罪のみならず、日本の科学者の軍事研究への加担の歴史や戦争責任全般についての学術的解明について、言及したものは見当たりません。731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上にのったことを契機に、それまでの不作為も含めて、学術会議自身が自らの課題として検証を進めることは、1950年、1967年の2度にわたる戦争や軍事日的のための研究を拒否する誓いの見直しにストップをかけ、軍事研究復活阻止にもつながると思います。 昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版) ●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか? 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。 井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。 東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。 ※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。 1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。 南方軍防疫給水部(岡9420部隊) 復刊衛生学校記事1(2)(井上義弘) 1961年7月 昭和20年の頃 1、養衆の条件 沖縄の戦局が決定的となった頃には、米軍の日本本土進攻作戦の予想と、わが決戦の構想が、街の人々の間でも話されていた。部隊の転用や動員が次々と行われ、満州から来た兵団もあって、内地の軍隊は多くなったけれども、どこへ行っても目につくのは、体力の劣った未教育兵と老兵ばかりで、あまり頼もしい感じもわかず、あまり頼もしい感じもわかず、結局は爆雷を抱いて敵の戦車に突入するだけだと思うより外なかった。そして、どこの部隊でも切実な話題とされるのは、食べ物のことばかりであった。 ●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 ●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く ●水俣病問題 ●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去 ●小泉親彦と宮川米次の絆 ●ヒロシマからフクシマへ ●宮川正 ●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ— ●ビキニ「死の灰」世界各地へ ●自衛隊とサリン ●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 ●日本の国家機密 ●兒嶋俊郎さんを偲ぶ ●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!! ●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 第3部 陛下の戦争 1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年 第7章 満州事変 V 1933年末に向かって、国政は依然として流動的であり、満州国の植民地化は、いまだその成果をもたらすに至らず、戦争意識の高まりは、下降する局面となった。〔塘沽停戦協定の成立や景気の回復によって、このころから「非常時」の厳しい雰囲気はかなりやわらぎ、満州事変勃発当初の軍国熱や排外熱もようやく鎮静化し始めていた〕それは軍指導者、官僚、ジャーナリストが望まないものだった。この新しい軍国主義と戦争に対する熱がまさに冷めようとしていた時に、陸軍の宣伝家たちが行動を起こした。大新聞社の映画部門は、すでに事変をめぐり「目で見る新聞」やニュース映画で、競争していた。大阪毎日新聞社は、事業拡大の好機と考え、新しい種類の愛国映画を製作し利潤を大幅に増大させようとした。この映画は、この先、国民に求められるべきことを示すものだった。プロデューサーの水野新幸はこの映画について、「共産主義と全体主義とが相闘うというような状態にあつたのであります。各所にテロ行為が行われたり、あるいはデカダンの生活が行われたりしておりまして、人心の帰趨(きすう)のおもむくところがわかつておりませんでした。そこでどうしても、これは新聞の論説とか、そういうようなものだけでなしにこゝに私どもがふだんに考えております映画の偉大なる力を利用して、この国民の思想混乱の状態なり国際情勢の認識なりをさせたいと思いまして」と述べている。その結果作られたのが「非常時日本」であり、喝采を浴びたこのドキュメンタリーは陸軍省後援のもとに8月に製作を終え、1933年末に日本国中で公開された。 ●小泉親彦と昭和天皇 ●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~ ●近代天皇制の真髄は ●福沢諭吉 ●神武と戦争 憲法9条を生かそう!! |