核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
≪ここで泥をはかせなきゃあ、中隊長に対して面子が立たない、憲兵の恥だ。たかが中国人の1人ぐらいにこう手間取っては・・・≫こう思った私は、傍に突っ立ていた博に、「おい、博、水をもってきてぶっかけろ」博は洗面器に水を一杯汲んできて男の顔にぶっかけた。
「ウウン」男はかすかに唇を震わせ頭を動かし、一晩で落ちくぼんだ充血した眼を細く開いた。「オイ、好農民」私が棍棒で男の背中を突き飛ばした瞬間、男はぐっと顔を上げ、両眼を大きく見開き、ぎゅっと唇をかみ、両手をブルブル震わせ、今にも飛びつきそうな形相をして私をぐっと睨みつけ、「鬼子快殺死我)鬼め、早くさっさと俺を殺せ)」吐き出すようにこう叫んだ。ハッとした私は、思わず一歩後ろにひきさがり、拳銃を握りしめた。「畜生」私は全身の力を持って男の体中目茶苦茶に殴りつけ、ぐったりとし、オンドルに腰を下ろした。
●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
ロ 英国
コマンド空母1隻に本国から派遣のコマンド1コ大隊を搭載、シンガポールに進出。
ハ 豪州、ニュージーランド等タイ国に対し若干の空海兵力を派遣
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。