細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:36:33 | Weblog

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 


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飯田市平和祈念資料館の展示の見直しを!!



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



2022/10/22 清水さん宅にて


 

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731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村

 

731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。

 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。

 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・

 




 


 

 





 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:35:27 | Weblog

 

 

 

 

 

 


久保田昇さんが熱く語る731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室

 

 

 

 

 
 

ビキニ被爆訴訟

 日中友好協会八王子支部

アジア諸国との歴史認識をどう共有するか?

 

北海道・笹の墓標展示館

 



 

 

 

中国の撫順に於て、日本の「撫順から未来を語る」実行委員会と
平頂山訴訟弁護団より献花が行われました。

犠牲者の方々に心より
哀悼の意を捧げます。

平頂山事件の悲劇を
繰り返してはならない。

政府の行為によって
再び戦争の惨禍を
繰り返してはならない。

「撫順から未来を語る」実行委員会と
平頂山訴訟弁護団

2022年9月16日

" itemprop="description"><iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8dzb6m?autoplay=1" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>
 
 
今年は、平頂山事件から90年!!

平頂山事件から90年

平頂山事件90周年(中国では)

 



 

 

 






↑9月18日の「赤旗」より

犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。

平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。

政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。 

『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団

 

我们向受害者表示衷心的慰问。

平顶山惨案的悲剧决不能重演。

我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。

                   抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团


平頂山事件90周年を迎えて
2022年9月16日
平頂山事件訴訟弁護団、「撫順」から未来を語る実行委員会を代表して 井上久士
 
 本日私たちは、平頂山事件90周年を迎えました。1932年9月16日、関東軍撫順守備隊は、約三千名の無辜の平頂山全住民を暴力的に家から追い出し、付近の窪地に集合させ、機関銃を掃射したうえ銃剣で刺突し虐殺しました。翌日、遺体にガソリンをかけて焼却し、その後崖を爆破して遺体を覆い隠しました。これは、日本軍の軍規や国際人道法に反するだけでなく、人間として許されない行為です。
 私たちは、平和を愛し、正義と人道を尊重する日本人の立場から、犠牲となられた平頂山住民とご遺族のかたがたに、深甚なる哀悼の意を表します。二度とこのような悲劇を繰り返してはいけません。そのために重要なのは、この事件を決して忘れず、日中両国で史実を次の世代に伝えていくことです。
 1996年、虐殺現場から奇跡的に生還した莫徳勝・楊宝山・方素栄の三氏は、日本政府の謝罪と賠償を求め日本の裁判所に提訴しました。裁判の過程で、原告の三人はそれぞれ日本を訪問し、平頂山事件の体験と正義の実現を日本で訴えました。環直彌弁護士を団長とする平頂山事件弁護団は、原告とともに十年間奮闘しました。日本でも原告の話しを聞き、共感し支援する人びとの輪が生まれました。
 日本の裁判所は国家無答責の法理をもって原告の要求を認めませんでした。しかし、日本軍による住民虐殺事件があったことは認定されました。日本の裁判所も、歴史的事実を否定することはできなかったのです。
 2006年に裁判が終わった後も、原告と訴訟に加わらなかった被害者の楊玉芬・王質梅氏らは「日本政府に対する3つの要求事項」を掲げて、事件の解決を求め活動を続けました。それは、歴史の事実を多くの人に知ってもらいたい、惨劇の責任を明確にしてもらいたい、そして二度と再びこのような悲劇を起こさないでもらいたいという強い願いにもとづくものでした。弁護団も日本の支援者も、その実現のための歩みを止めませんでした。また平頂山惨案紀念館をはじめ撫順の関係者も支援を続けてきました。
 しかし、日本政府は今に到るまで歴史から学び、過去の中国侵略を率直に反省するに到っていません。中国の古いことばに、「過而不改、是謂過矣」(過ちて改めざる、これを過ちと謂う)とあります。歴史から学ばず改めない者は、いずれ歴史によって裁かれるに違いありません。
 時の経過とともに、莫徳勝さん、楊宝山さん、方素栄さん、楊玉芬さん、王質梅さんらは、みな他界されました。弁護団団長であった環直彌弁護士も逝去されました。しかし、裁判の十年、その後の十五年を通じて、培われてきた日中両国関係者の信頼関係は生き続けています。
 90周年に当たり、私たちは、理由もわからぬまま殺された平頂山住民の無念に思いをはせ、元原告のかたがたと環団長の遺志を引き継ぎ、平頂山事件の政治的解決、歴史の究明と普及のため今後も努力を続けていく決意です。新型コロナウイルス感染症がまだつづき、世界では戦火が絶えない不穏な情勢ですが、日中両国の信頼と平和がとこしえに続くことを心から祈念します。
 
 




 
 
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戦犯たちの告白

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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:34:11 | Weblog

平頂山事件 (香港フェニックス)

 

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「731部隊員だった池田苗夫元軍医の戦後の軌跡」


 
今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた

731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。

 

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会

第1分科会

 

大久野島戦争遺跡保存活動の歩みと今後の課題

『鹿島海軍航空隊跡地』の未来について

四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に

22日のフィールドワーク

平和記念公園と周辺の被爆遺跡を巡るコース

番外編

 

大久野島遺跡巡り

 

似島(広島県)

 
 
関連動画
 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:32:54 | Weblog

ロシアとベラルーシの合同部隊、活動を開始

日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??

戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!

国が原発推進していて、事故があったら責任ないなんて全くおかしい??
責任を全部下に押し付けるのは、BC級戦犯裁判、226事件と酷似だ!!
「こんな判決出るとは」無念の原告 疲労と失望

 

 

それまで原子力を利用していたものの脱原発を表明する国が現れ、米国で新規建設のプロジェクトがなくなるなど、世界各国の原発利用は停滞することとなりました。(資源エネルギー庁のHPより)
 



 
世界には、核実験、原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!

被爆二世健診…43年目の真実~データが語る遺伝的影響と「ほしょう」を考える
 
 
 
戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!
 
У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!
 
Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!
 
 
 

 

ウクライナに平和を!!
 
日本は、戦争の反省をしているのだろうか??
過去最大の防衛予算 歯止めなき膨張許されぬ

731部隊全景

 

戦争を停止する道を探れないのか??
 

No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!
 
 
 
憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!
 
War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!

Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!
 
21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!
 
 

 
 
 
 
 
大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
 
重慶無差別爆撃

 
 
 

京都大学出版会(2022年4月10日発行)
 
もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
 
 
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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:31:43 | Weblog
遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)
 
 

 

 
 
 
 
昨年のパネル展

 

 

 

 

2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
11月18日(木)
・断片的に知り得ていた事が少し繋がってきた。知らなかったことが多すぎる事がわかった。45分間の見る時間を予定していたが足りない。再度の見学で続けたい。
(70代、市内)
 
 



原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

 
                


 
 
 

自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 
 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える―


石井 四郎(いしい しろう)
第一軍軍医部長

1942年(昭和17年)8月、第1軍軍医部長。細菌戦を実戦指導
終戦まで

1943年(昭和18年)8月、陸軍軍医学校附。

1945年(昭和20年)3月、陸軍軍医中将に進級。関東軍防疫給水部長に再任。同年5月、満洲第731部隊は「満洲第25202部隊」と改称された。同年8月、ソ連軍の侵攻を受けた満洲国を脱出し、内地へ帰還。同年12月、予備役編入。

1959年(昭和34年)10月9日、喉頭癌のため国立東京第一病院で死去(67歳)。葬儀委員長は、北野政次(第2代・関東軍防疫給水部長)が務めた。墓所は東京都新宿区・河田町の月桂寺。
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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:30:24 | Weblog

メチル水銀中毒(「水俣病」)

 
 
 
 
 
 
 

 

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

 

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!     
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

 
     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

 

 
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」

 
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
 

 
 
 
(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)

この事件は、冤罪の可能性が高いことが長らく多くの識者によって指摘されてきたが、現在でも再審請求を続けている平沢弁護団が所蔵する捜査資料『甲斐捜査手記』の分析から、非常に重要なことが浮かび上がってきた。

 それは、帝銀事件捜査陣は、旧日本陸軍の秘密戦部隊(731部隊・登戸研究所、毒ガス研究をしていた六研、中野学校など)の実態を詳細に明らかにしていたが、米軍はそれらの部隊が行なった人体実験データを入手するために、731部隊をはじめとする部隊関係者の多くを免責・保護し、さらには関係者に捜査当局にも旧軍の秘密を話さないように約束させたということである。

 

 
 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:28:04 | Weblog
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

 

実験医学雑報21巻 第5 号(1937年)

 

学友会懇親会

去る5月7,8,9の3日間に渉り新潟に於いて第11回連合微生物学会が開催され、当所からも所長以下多数参会、それぞれ業績を発表したが、学会第2日目の5月8日午後6時から同市西大畑町行形亭で学友会懇親会を催し約50名の参会者があり盛会であった。

学友会へ寄付

金26円62銭也      中村茂一君

 

人事異動報告

昭和12年5月5日  伝染病研究所

発令月日   辞令                   官職   氏名

4.9   北海道へ出張を命ず(道庁衰残試験所へ)

     鮮魚の化学的殺菌防腐応用試験の為         技師   遠山祐三

                            嘱託   鐡本総吾

4.10   依願免本官                  技手   相良貞直

     伝染病研究所業務を嘱託す           同上

4.21   沖縄県下へ出張を命ず

     学術上取調べの為               嘱託   石井信太郎

4.22   山口、佐賀及福岡の3県下へ出張を命ず     

     学術上取調べの為               技手   佐藤久蔵

 
1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
 

浜一中大福餅事件

                

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浜松一中の慰霊碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

●戦時下

大牟田爆発赤痢事件

隠蔽された企業犯罪、国家犯罪

 

            北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)

 

いわゆる「大牟田爆発赤痢事件」の真相

 

毒ガス中間薬製造

 

三井鉱山(後に三井化学工業)三池染料工業所に於て毒ガスも製造していたことは「三井鉱山50年史稿」という稿本を1944(昭和19)年に出しており、その中に毒ガス製造に関わる記載があり、昭和9年には陸軍科研から毒ガス中間薬の製造にかかり、後に海軍からも毒ガス中間薬の製造を行なっていたことを社史は記しています。

・1937年9月25日のN工場爆発は、毒ガス中間薬(陸・海軍用イペリット・ジフェニルシアンアルシン)の可能性が高い。

チオグリコール(びらん性毒ガス、イペリットの中間薬)〈海軍名オクゾール〉

〈チオグリコールに塩酸を加え、加熱すればイペリットになる〉

チオグリコールを作るには、大ざっばに、塩酸、硫化ソーダ、塩素エチレンクロルヒドリンを加熱して加えるとチオグリコールができる訳です。

原料それぞれに毒性があり、高圧ガマで製造中に爆発ともなればガス状の毒煙になって人体に入ります。

症状はのどの痛み、呼吸困難、腸内に入れば、下痢、腹痛そして死に至ります。

 
 
科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)





 
 
 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:26:49 | Weblog
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?
 
 

 

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
 
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 
 
第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)

第5 条理に基づく謝罪及び損害賠償請求

8 謝罪請求

細菌戦による損害は、生命身体等への直接的な侵害にとどまらない。現在に至るまで、細菌の恐怖は収まらず、また、被告が細菌戦の事実を速やかに認め適切な被疑者救済をすることを怠ってきたことにより、原告らは現在まで継続して人格権への侵害を受けてきた。この人格権への侵害の重大性は、名誉権に対する侵害と比肩し得る。そして、以上の損害は、損害賠償のみならず、国の真摯な謝罪があってこそ初めて慰謝されるのである。よって、原告らは被告に対し、条理に基づく謝罪請求権を有する。

 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

 

 
 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

 

 

           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

 

           

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

 

日本の中国東北侵略から91年

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四月三日

 

顔は砂で痛くなり、弾は当たらないー射撃が、つくづく嫌になった。中隊に帰って来たが前期兵ばかりが集まれば必ず不平の言葉ばかりだ。

寝台に横たわって軍隊生活の嫌さを語る者や下士志願する者を笑う者、果ては幹部にたてつく者本当に蜂の巣をつついたようだ。本当に頑固ーなんて始末に悪いものだ。然し今日はほんとうに駆け引きのない所嫌になった自分の体に。

 

 

「ずっと父が嫌いだった」

 

 
 
 
軍都広島での物語

 

原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
 

その日はいつか

 

       しかし君よ、耐えきれなくなる日が来たらどうしよう

たとえ君が小鳥のようにひろげた手で

死のかなたからなだめようとしても

恥じらいやすいその胸でいかに優しくおさえようとしても

われわれの心に灼きついた君の屍体の屈辱が

地熱のように積み重なり

野望にみちたみにくい意志の威嚇(いかく)により

また戦争へ追いこまれようとする民衆の

その母その子その妹のもう耐えきれぬ力が

平和をのぞむ民族の怒りとなって

爆発する日が来る。

 

 
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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:25:01 | Weblog

メアリーが伝えるヒロシマ

 

日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。

原爆の威力調査を行い、原爆による「死亡率曲線」などを
作成した。全部で181冊の原爆報告書はすべて英訳され、アメリカに渡された。
その報告書は、もっぱら731部隊などの残虐行為の免責を得るためのカードに使われた。
苦しんでいる被爆者の治療はほとんどされなかったし、入市被爆などの事実も国民には知らされなかった。
また、被爆者本人の治療にも生かされなかった。" itemprop="description"><iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8669gl" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>

 
 
 
1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x87n39j" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

生体解剖をやらされた

意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・

 

鎌田信雄(かまたのぶお)

731部隊・少年隊

(経歴)

1923年生まれ

1938年 731部隊入隊

1940年 新京の防疫でペスト感染

1943年 病気療養の為帰国

■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。

 昭和14(1939)年7月に、私は教育機関を終了して高橋班(ペスト研究)に配属されました。この時にそれぞれの班に分かれた同期の者とは、それ以来あまり顔を合わせることがなくなりました。高橋班に配属後は、菌の培養、シャーレ、試験管洗い、小動物を含む実験用動物の保育管理、滅菌機の操縦法、乾熱滅菌機の使用等などの教育を経て、寒天培養の製造、生菌培養、生菌活着・分離などの助手、検鏡検査、増菌培養などの仕事を手伝うようになりました。

日本軍政下香港(1997.7.27)

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
 
 
第2 731部隊に関する研究状況
 
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
 
2 731部隊作成資料の発見
 
(1)イペリットガスと破傷風菌による人体実験
 
 前者は、1940年9月7日から10日にかけて実施されたイペリットガス弾を人体へ向けて発射した実験や、イペリットやルイサイトの水溶液を人間に飲ませた実験等5種類の実験結果をまとめたものである。イペリットは致死性の糜爛性毒ガスで、からし臭がするところからマスタード・ガスとも呼ばれ、本来無色であるが、通常夾雑物が混じり淡黄色をしていることから「きい弾」と称された。ルイサイトはイペリットと同様、致死性の毒ガスでより速効性ある。本資料の表紙には、左下に「加茂部隊」と印刷されている横に、毛筆で「池田少佐担当」と書かれている。「加茂部隊」は731部隊石井四郎の郷里の地名に由来する。
 













 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」

 

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細菌戦の系譜!!

2022-11-17 10:24:09 | Weblog

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936

1 満州事変と催涙ガス使用問題

満州事変開始と陸軍

 この戦争の中で関東軍は毒ガスの使用を計画した。1932年1月23日、三宅光治関東郡参謀長は、野砲と山砲の催涙弾・嚏(くさめ)弾(嘔吐性ガス弾のこと)計2500発を遅くとも2月中旬までに支給するよう陸軍省に要求した。名目は「土匪(抗日ゲリラ)の掃蕩」だった。野砲も山砲も75ミリ砲だが、野砲は射程約15㎞だった。山砲は山地で使えるように軽量化したもので、射程は約8㎞だった。師団には野砲か山砲の1個連隊(砲36門)が付いた。しかし、杉山元陸軍次官は、29日、毒ガス弾支給の件は「対内対外関係上詮議せられず」と拒否する返電を発した。陸軍省は、これら毒ガス弾の使用は国際的に禁止されており、たとえ「土匪の掃蕩」といえども「正義を護る日本軍隊が帝国外の地に於て」用いるのは国際法軽視の誹りを免れない、使用すれば「良民」にも被害が及ぶ、として交付しなかったのである。

      海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)




 

 

 

 

 
 
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

死の谷踏査記

 陳延生さん(60余歳くらい、1945年当時は鉄道で働いていた。50年代には敦化県弁公室で秘書を務め、毒ガス弾の処理に加わったことがある。後に敦化県民政局長となる。現在はすでに退職)は次のように紹介してくれた。

 

「あの頃私は鉄道で働いていましたが、毎日だいたい4列車(1列車38両)が、砲弾を東飛行場まで運び、川沿いの村に置くのを見ました。東飛行場の専用線の北側の山あいには倉庫がなく、露天に置いておくしかありませんでした」

 
 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

 

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