細菌戦の系譜!!

2022-11-06 11:00:47 | Weblog

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)


Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930

4 霧社事件

催涙ガス弾の使用

 翌3日、渡辺台湾軍司令官は宇垣一成陸軍大臣に対し、住民が逃げ込んだ区域は断崖のある森林地帯なので「糜爛性投下弾及山砲弾を使〔用〕し度(たし)。至急その交付を希望す」と打電した。糜爛性ガス(イペリット・ルイサイト)投下弾・砲弾を要求したのである。これに対し、陸軍省副官は、糜爛性弾薬の使用は「対外的其他の関係上」詮議されなかったと、拒否の回答を伝達した。また、ガス弾に関する事項は、以後暗号を以てせられたいと伝えた。

 

      海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
 
 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)

第13章  毒ガスは消えず

隠れた災難はなお消えず

1988年、つまり戦争が終わって43年の後、高橋さんは当時兵役に就いていたチチハル市を再訪した。星霜移り変わり、昔のチチハルはもはや存在せず、新興の工業と商業の街が高橋さんの前に姿を現わした。

 当時化学部と練習隊があった地域も工場や住宅に取って代わられ、「南大営」という地名だけが戦争の頃の歴史を思い起こさせる。詳しく調べて、高橋さんはようやくに当時の部隊の旧跡を探し当てたが、すっかり様子が変わっていた。それでも高橋さんは、その当時捨てた毒ガス砲弾のことをまだ気にかけていた。あの場所は市の中心から十数 km しか離れておらず、しかも嫩江は黒竜江省の主要河川であるから、毒ガスが一旦漏れ出すと、どれだけ大きな危険を引き起こすことだろう。もちろん、幸いなことに、嫩江のこの区間では大型の船は通行しないので、ここで浚渫や清掃が行われたことがなく、このためここに捨てられた毒ガス砲弾に接触することもなかった。とはいえ、大きな危険が依然として存在しているのではあるまいか。

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

 

 
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細菌戦の系譜!!

2022-11-06 10:54:14 | Weblog
●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

釘うち拷問

残忍極まりない取り調べ

 

原田左中(はらださちゅう)

憲兵軍曹

〈旧部隊名〉

元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊

そしてその眼は一言も言わなかった自分を誇っているかのように輝いている。私は男より5メートルくらい離れたところに、右手に拳銃を握って立っていた。

「おい、博、しっかり警戒しろ、逃げたらお前も射ち殺すんだぞ」

「ハイ」博の声は震えていた。≪クソッ、たかが中国人1人殺すのにこれでも貴様は皇軍の儀表を誇る憲兵かッ≫誰かに怒鳴りつけられるような気がして、力んでみたが、ますます震えは大きくなり、膝頭ががたがた震えるのを押さえることができなかった。男は私の心中を見抜いているのか巨木のように立っている。「この野郎ッ、くたばりやがれッ」

「ダン」引鉄をを引いた。弾丸は男の肩先を貫き、血しぶきは男の顔を真っ赤に染めた。肉は飛び、真っ赤な血が傷口より噴き出し、胸を伝わって流れ落ち、真っ白い雪を鮮血に攻めた。≪しまった≫私は心の中でこう叫ぶと、第2弾目の引鉄に手をかけた。

男は顔を歪め、肩を吊り上げ、両足でしっかり大地を踏みしめ、大きく肩で呼吸している。呼吸するごとに肩の傷口よりドクッドクッと血が噴き出した。全身は怒りと憎しみにブルブルと震え、両眼をぐっと見開き、今にも飛び掛かってくるように感じられた瞬間、私は背筋に水を流されたように感じ、全身を何かに押さえつけられたような衝撃を覚え、全身ががたがた震え出した。

「クソッ、往生しあがれ・・・」

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

    

 

 

    

 
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

 

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究

昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 その他

(1)3月下旬、日米安保協議委員会が開催され、東南ア情勢についての検討が行なわれた。2項(3)号の状況は、その席上米側から説明されたものである。

(2)上記の他は昭和38年1月末現在の通りとする。

(3)極東における彼我の兵力、配置等は前述の他昭和38年度情報見積の通り。

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

 

金原節三と細菌戦

 

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

 

金原節三と武見太郎

 

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人

 

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

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細菌戦の系譜!!

2022-11-06 10:53:23 | Weblog

●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

 

(資料)

 

生物・化学兵器の効果についての報告書(大要)

 

1969年7月2日

1、この数十年間の科学と技術の進歩は生物・化学兵器の使用の可能性を高め、これを使用すれば、従来の戦争がもたらす以上の大規模な損害を与えることが出来ると考えられるまでになったことは、今日における脅威である。化学兵器の使用についての我々の知識は、ほとんど第1次世界大戦での経験によるものである。毒ガス兵器は1914年に初めて使用され、1915年の大規模なガス兵器による攻撃で5000人の人命が失われた。以来、1918年の終戦までの間に、少なくとも12万5000トンにのぼる有機化学薬品が使用されたとみられ、公式報告によれば、その被害は1300万人を越え、うち10万人が生命を失った。当時使用された薬品は今日使用できるものに比べ、はるかに毒性が弱く、神経性のものについては特に弱かった。更に毒ガスは比較的単純な戦場の概念に従って、今日に比べると原始的ともいえる道具によって散布されたのだった。

 

 

第5代衛生学校長

 

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 

 
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
 
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

 

 




 

 

 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

 
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

     


 

 

 

第1部 皇太子の教育

1901(明治34)年―1921 (大正10)年

第3章  現実世界に向きあう

皇后の反対を押しきつたあとは、政府と宮内官僚は、旅行の真の目的について内部で気がねなく議論できるようになった。皇太子が間もなく摂政に就任するのはいまや明らかだった。彼には外国の状況を知り、日本国民の新思潮に対処することが求められた。

 

 ヨーロッパ大陸の大王朝は崩壊し、戦争は平和、民主主義、軍縮、独立の運動を世界に解き放った。反君主制の大勢のなか、日本でも確実に勢いを増している社会改革運動の力量に、彼は摂政として対処することになるのだった。また日本では、ナショナリズムや軍国主義や国家を軽視する新傾向が広まっており、それにも対処が必要だった。そのうえ彼は明治天皇の血筋の重要な「三代目」を体現する身であり、皇室が存続し繁栄するかぎりその地位をまっとうしなければならない立場だった。洋行の必要性は、このように内外の事情に促迫されたものであり、皇室の将来とその孤立に対する憂慮とも相まっていた。

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

 

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

 

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

 

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

 

 

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-11-06 10:50:42 | Weblog
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

 日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

 
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
 
※私が考える、今の異常気象の要因は

 

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

 

・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。

 
●核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

地球を破壊する核実験

 

 

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

署名国               署名日          批准日 (締約日)

ブルネイ         2018年9月26日

カーボベルデ         2017年9月20日

カンボジア         2019年1月9日      2021年1月22日

中央アフリカ共和国   2017年9月20日

チリ            2017年9月20日

 

 

水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ) 
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】

 

メアリーが伝えるヒロシマ
核実験の人体実験
核被災と核兵器禁止条約



●核融合もすべきではない!!

 
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

       

      


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

 
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
 
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。


水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。




 

 

 

 



 

 

 

 

 

福島第1原発事故



           











 

 


 
 
 
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

 



 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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