●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅴ エスカレートする作戦 1939‐1941
1 イペリット・ルイサイトの実験的使用
華南での使用
以上は、華北の山西省の奥地での密かな実験的使用であったか、間もなく華南でもびらん性ガスが使われる。 1939年末から、陸軍は翁英作戦できい弾を使用するのである。
この作戦、1939年夏に、中国第12集団軍(長・余漢謀)による夏季攻勢を受けて打撃を負った日本の第21軍が、第12集団軍を広州北方にある翁源付近で捕らえ、壊滅的打撃を与えるために準備したものである。大本営は強力に支援し、膨大な兵站資材を与え、また内地から近衛混成旅団を派遣した。この中でびらん性ガスの使用も計画された。ところが、攻撃開始直前の12月20日に、広西省の要衝、南寧方面が危機的状況に陥ったので、早急に作戦を終了して主力を南寧方面に転進せしめねばならなくなった。
海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
Ⅴ:敗戦と大久野島
②東京裁判で歴史の闇へ
しかも国際条約に違反し毒ガスを使用していたことの責任を追及されることを恐れて、証拠隠滅のため日本軍が遺棄してきた毒ガスが今でも中国で被害を出しています。にもかかわらず日本政府は謝罪も補償もしていないのです。日本は早急に毒ガス使用の事実を公にし、中国の毒ガス被害者へ謝罪と補償をしなくてはなりません。
<iframe style="height: 100%; left: 0px; overflow: hidden; position: absolute; top: 0px; width: 100%;" title="Dailymotion動画プレーヤー" src="https://www.dailymotion.com/embed/video/x8grcvw" width="100%" height="100%" frameborder="0" allowfullscreen=""> </iframe>
中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!
チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!
山下基之弁護士の話
チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。
被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。