島根原発2号機が7日再稼働 12年10カ月ぶり
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飯田市平和祈念館の問題と清水英男さんの証言
【29日夜に再稼働へ】『女川原発2号機』 東北電力前では市民団体が”反対”の抗議活動(宮城)
地球温暖化!!
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作品によせて
1945年8月6日のソ連が参戦した時、私は12才だった。旧満州国の奉天市(現瀋陽市)に住んでいた日本人の女性と小学生以下子どもは、戦火から避難するためにリュック1つを背負って南下する列車に乗った。8月15日の敗戦の知らせによって在満のすべての日本人は日僑(他国に住む日本人)として扱われ、この日を境に私の流民の旅が始まった。
疎開地から奉天市に戻ったものの支配関係は全く逆転し、異民族から受ける迫害は想像を超えるものであった。自分の命や財産は勿論のこと、人間そのものの尊厳さえ奪われた極限の状況での体験は、私の人生観を決定づけた大きな要因であることに間違いない。
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本籍地の北海道には墓地と何軒かの親類があっても、生活の基盤はなく、その後落ち着く場所を求めて転々と移動し、やっと定住したのは敗戦から15年を経過した1960年であった。
16、「寺子屋式の小学校」
ソ連軍の進駐と同時に、学校は兵舎として接収された。空き家を見つけて、みんなで改修して、授業を始めてしばらくすると、これも接収された。
1945年9月
少年Mの記憶ー「満州」からの帰還ーDVD上映会には70余名の来場者があった。
9・29アミダステーション(八王子)
近藤滿さんの紙芝居をDVDに、近藤仁子さんの話 <少年Mの記憶ー「満州」からの帰還> DVD完成上映会(五井信治)
最初に、当時の「満州」の様子を描いた、『満蒙開拓にかけた夢』(ユーキャン)を上映しました。 日本軍が侵略して、傀儡国家「満州国」を樹立し、日本人を徐々に「満洲」に移民として送り出していきました。開拓とは名ばかりで、その土地は、元々中国人が耕していた土地を取り上げたのです。満鉄(南満州鉄道)職員は、中国人を使用人として雇い、優雅な生活をしている場面も映し出されました。
2024.9.29 少年Mの記憶ー「満州」からの帰還 感想
1、この集会を何で知りましたか? 近藤仁子さんから
(感想)戦争を知らない私、私の両親は、戦争の話をほとんどしてくれませんでした。DVDを見てとても良かったです。かかわって下さった皆様、ありがとうございました。
*DVD購入ご希望の方は、nobu.goi@gmail.com(五井)までお問い合わせください。
1972年9月29日 日中共同声明調印!!
日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
上野動物園のパンダ リーリーとシンシンが中国に返還「日本に笑顔をありがとう」