核・戦争のない世界!!

2025-01-23 12:48:10 | Weblog

「1人の生還も望まない」ロシア派兵軍人に金正恩の残忍な仕打ち

ネタニヤフ首相 “戦争終わらせる用意ない” ガザ地区めぐり

脱原発!!地震が起きてからではダメだ!!

東京電力 class="content--title">女川原発2号機 運転差し止め訴訟 住民側訴え退ける 仙台高裁

志賀原発 data-cke-saved-href="https://www.youtube.com/watch?v=Syr0yncISoI" style="font-weight: bold;" data-cke-saved-href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiRkUwnlNh7DpfbSH4uVIn9m9Ixi6jpOfG4aZppF6auoJh6vmM3HdbG8QHyslugdIGsC0Or3q7nH_XYVRigqokkafjveqEv-Nl3GlRlOFtsCJgveFhFbEut7sDj03j_uFGc5pPAm0SChKiPnJ7fCfYXY-qf-MNekgkFJKTbCIWCWtavQcTE2-l91-60E3YF/s1087/%E9%80%9A%E4%BF%A1No.3044.jpg" data-cke-saved-src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiRkUwnlNh7DpfbSH4uVIn9m9Ixi6jpOfG4aZppF6auoJh6vmM3HdbG8QHyslugdIGsC0Or3q7nH_XYVRigqokkafjveqEv-Nl3GlRlOFtsCJgveFhFbEut7sDj03j_uFGc5pPAm0SChKiPnJ7fCfYXY-qf-MNekgkFJKTbCIWCWtavQcTE2-l91-60E3YF/s600/%E9%80%9A%E4%BF%A1No.3044.jpg" data-original-height="767" data-original-width="1087" style="color: red; ">地球温暖化!!

南米で観測史上最悪の干ばつ被害 アマゾン川水位が最大で90%低下 絶滅危惧種指定のイルカも大量に死ぬ

プラスチック環境汚染防止へ class="content--title" style="quot;Hiragino Kaku Gothic ProN",>“兵庫県知事選期間中にX凍結” 稲村和美氏後援会が刑事告訴へ
兵庫・斎藤知事の“SNS戦略”に公選法違反の指摘…「広報全般を任された」PR会社のコラムが物議 知事は疑惑を否定【news23】

東電 style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: left;">

 
 
 
 

 

 

 

 

第112回八王子アクション


東京 新宿「戸山公園」で鉛や水銀など検出 一部で立ち入り制限

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.1.6 核兵器禁止条約に日本は署名・批准を!!

「日本人は戦時中、ひどいことをさんざんしました。民間人をたくさん殺しました。日本人はこのことを忘れてはいけません」

 

平頂山事件92年 歴史を学び合い、不再戦を誓う集会!!

 

2024 11 16平頂山集会

 

2024 11 16平頂山集会 纐纈講演





 
















平頂山事件92年「歴史を学び合い、不再戦を誓う」集会 アンケート集計

 

  (集会をどこで知ったか)(記入者年代)

8、友人知人から、50代

・纐纈講演

気づかされることがたくさんあった。歴史から学べることを生かして平和を作っていかないといけないと思った。そのためには軍事史を知ることが大切であると教えてもらったことが印象に残っている。

 

・パネルディスカッション

 平頂山事件のこと、対中戦争から何を学んで平和を作っていく必要性がよく分かった。

 メディアの隠蔽に騙されてはいけないと思った。

 

・集会全体。

 聞きやすくよくまとまって勉強になった。

 

 

作品によせて

 

1945年8月6日のソ連が参戦した時、私は12才だった。旧満州国の奉天市(現瀋陽市)に住んでいた日本人の女性と小学生以下子どもは、戦火から避難するためにリュック1つを背負って南下する列車に乗った。8月15日の敗戦の知らせによって在満のすべての日本人は日僑(他国に住む日本人)として扱われ、この日を境に私の流民の旅が始まった。

疎開地から奉天市に戻ったものの支配関係は全く逆転し、異民族から受ける迫害は想像を超えるものであった。自分の命や財産は勿論のこと、人間そのものの尊厳さえ奪われた極限の状況での体験は、私の人生観を決定づけた大きな要因であることに間違いない。

 居住地を離れてから日本への帰還船 (私には流民船)に乗るまでの約2ヶ月の出来事はまさに難民生活そのものであり“衣"は着のみ着のまま、“食"はこうりゃん、“住"は倉庫などであった。

本籍地の北海道には墓地と何軒かの親類があっても、生活の基盤はなく、その後落ち着く場所を求めて転々と移動し、やっと定住したのは敗戦から15年を経過した1960年であった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4、「船中の食事」

船の中での食事は、主としてひじきご飯であった。米の中にひじきが入っているというよりも、ひじきの中に米粒が入っていた。

姉と甥(生後3か月)は消化不良を起こし、甲板上の便所に通い続けた。

私は、今でも、ひじきを見ると食欲が減退する。

1946年8月

 

少年Mの記憶ー「満州」からの帰還ーDVD上映会には70余名の来場者があった。

9・29アミダステーション(八王子)

近藤滿さんの紙芝居をDVDに、近藤仁子さんの話 <少年Mの記憶ー「満州」からの帰還> DVD完成上映会(五井信治)

仁子さんは、ある時期、ある人間が、こういう目に遭っただけではなくそこには万人に共通する何かがあるのではないかと思い、滿さんはこれ(紙芝居)を残したのではないかと考えました。その思いをDVDを制作する過程で強く感じたので、これからこのDVDをどうしようかと考えているところですと、話されました。会場には、「満州」で生まれた滿さんの甥御さんも来ていて、「両親や滿さんに「満州」のことを聞いてもなかなか教えてくれなかったが、50を過ぎた頃、2時間ほどかけ滿さんから、家族8人で、無事に赤ちゃん(私)が日本に帰れるように力を合わせて協力していたことを聞いた」と、その語る声は言葉にならず、嗚咽に近かった。長野県飯田から来られた仁子さんの元同僚は、かつて近藤宅を訪れて、滿さんと会っていたが、「滿さんが、こんな体験をされているとは全く知りませんでした。・・・私の住んでいる飯田の隣に阿智村があって、そこに満蒙開拓平和記念館があります。私もそのボランティアスタッフの1人なんですけれども、証言する人も少なくなっているのでこのDVDを持ち込みたいと思います。満蒙開拓平和記念館と日中友好協会八王子支部が何らかの形で繋がればいいなと思っています。」と話されました。そのあと、こういうことを多くの人に知らせる必要があると思うと言う意見があったり、私も「満州」で生まれて大変な経験をしたということを1人の方が話されると、会場の中には、私も中国にいたとか、何人かの方々が次々にご自分の体験談を話されて、会場にどよめきが起こりました。くしくも9月29日は、52年前の1972年に日中共同声明が発表された日でした。

 
 

2024.9.29  少年Mの記憶ー「満州」からの帰還  感想

3、(感想)入院中の中、心からの肉声で体験案内して下さって、胸に響きます。

今この時、戦争は又新しい波を感じます。

皆で心一つに、平和を願います。

 

*DVD購入ご希望の方は、nobu.goi@gmail.com(五井)までお問い合わせください。


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