10、「開拓団の人々」
千数百キロの北満から、辛うじて奉天市(現瀋陽市)にたどり着いたが、栄養失調と病気の為に亡くなる人が続出した。窓にむしろを掛けた程度の廃屋で零下20度の夜を過ごしていた。
1945年12月
2024.9.29 少年Mの記憶ー「満州」からの帰還 感想
1、この集会を何で知りましたか? 近藤仁子さんから
(感想)戦争を知らない私、私の両親は、戦争の話をほとんどしてくれませんでした。DVDを見てとても良かったです。かかわって下さった皆様、ありがとうございました。
近藤滿さんの紙芝居をDVDに、近藤仁子さんの話 <少年Mの記憶ー「満州」からの帰還> DVD完成上映会(五井信治)
仁子さんは、ある時期、ある人間が、こういう目に遭っただけではなくそこには万人に共通する何かがあるのではないかと思い、滿さんはこれ(紙芝居)を残したのではないかと考えました。その思いをDVDを制作する過程で強く感じたので、これからこのDVDをどうしようかと考えているところですと、話されました。会場には、「満州」で生まれた滿さんの甥御さんも来ていて、「両親や滿さんに「満州」のことを聞いてもなかなか教えてくれなかったが、50を過ぎた頃、2時間ほどかけ滿さんから、家族8人で、無事に赤ちゃん(私)が日本に帰れるように力を合わせて協力していたことを聞いた」と、その語る声は言葉にならず、嗚咽に近かった。長野県飯田から来られた仁子さんの元同僚は、かつて近藤宅を訪れて、滿さんと会っていたが、「滿さんが、こんな体験をされているとは全く知りませんでした。・・・私の住んでいる飯田の隣に阿智村があって、そこに満蒙開拓平和記念館があります。私もそのボランティアスタッフの1人なんですけれども、証言する人も少なくなっているのでこのDVDを持ち込みたいと思います。満蒙開拓平和記念館と日中友好協会八王子支部が何らかの形で繋がればいいなと思っています。」と話されました。そのあと、こういうことを多くの人に知らせる必要があると思うと言う意見があったり、私も「満州」で生まれて大変な経験をしたということを1人の方が話されると、会場の中には、私も中国にいたとか、何人かの方々が次々にご自分の体験談を話されて、会場にどよめきが起こりました。くしくも9月29日は、52年前の1972年に日中共同声明が発表された日でした。
上野動物園のパンダ class="separator" style="clear: both; text-align: center;">9.25『化学学校記事』情報公開裁判
石川 style="font-size: large;">日本政府は、真摯に過去に向き合っているのだろうか?
青山貞一さんのXにこんなことが書かれていました。
リニア中央新幹線 style="color: red; ">軍隊をなくそう!!
中米の小国コスタリカの非武装化が、政治的な衝突や戦争、日常のいざこざの解決に対する思考や言動にどう影響を与えているかを知りたかった。
マシュー・エディー監督
〈作品紹介〉
style="font-size: medium; font-weight: 400; margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;">
9.16さよなら原発集会(東京)
第1の被ばくが広島、第2が長崎、第3が1954年の「第5福竜丸」他、多くの被災船、第4が1958年の「拓洋」「さつま」の被ばく?
第四の被ばく」米軍医報告書 class="separator" style="clear: both; text-align: center;">第110回 style="text-align: center;">
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます