核・戦争のない世界!!

2025-01-15 09:48:30 | Weblog

「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝
 意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今
 日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 
 

 

南京大虐殺
南京大虐殺

南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈

 

 

重慶爆撃
第58号 重慶爆撃
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦干(重慶無差別爆撃)

731部隊
731部隊






















[中国新闻]日本学者向浙江义乌捐赠近千件细菌战重要史料
 
 

原爆
ニュース257号

 



日航123便の怪(1985年8月12日)
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実



●東京帝国大学伝染病研究所

伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?



実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??

実験医学雑報24巻12号で、三田村が伝研の所長に任命されて、挨拶を書いているが、宮川米次がなぜ、伝研を去ったのかに全く触れていない!!

 

宮川は、どんな不祥事をしでかしたのか?その後、伝研には姿を見せていない。

 

実験医学雑誌25巻(1941年)

雑法2号 

春秋会歓送迎会

 かねて大陸に赫々たる武勲をたて目出度く凱旋された医局の中村敬司君、米倉秀雄君、第3部の金沢謙一君の歓迎を兼ね永らく伝研の為にお尽くしになりこの度お辞めになった事務の稲川留吉君、医局の岡西順二郎君、第2部の小栗一好君、第5部の中原和郎君、岩崎龍郎君及び渡邊喘漸君等の送別会が2月7日伝研食堂に於いて開催された。三田村会頭の辞について田宮副会頭司会せられ盛会であった。お辞めになった稲川君は兄上の会社に実業家として、岡西君は今後結核に小栗君は熊本医大衛生学教授として、中原君は専心癌研理研に、岩崎君は結核研究所に、渡邊君は平壌医専病理教室に夫々御栄転されたのである。因みに渡辺君は2月9日、小栗君は2月10日に夫々東京駅から富士号で認知に出発せられた。

 
 
 
 
 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修 
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年

 

第9章 聖戦

 7月29日から30日にかけて、「暴支鷹懲」の名のもとに再開された日本の侵略政策を正当化するのに格好なタイミングで、新たな事件が起きた。北京東部に通州という城壁で囲まれた小さな町がある。そこは対日協力者の殷汝耕〔糞東政府の代表〕とその中国人保安隊(日本により訓練された)が支配していた。7月29日から30日にかけて、この保安隊が反乱を起こし、日本の駐屯部隊主力が近くの北京、天津に出撃して無防備となった日本人居留地域を攻撃したのである。

 日本の北京・天津占領に激しい憤怒の雰囲気があり、それが反乱の引き金となった。学生、労働者の支持を得て、中国人の部隊は18名の日本兵、9名の情報将校、385名の日本人ならびに朝鮮人の居留民のうち、女性子どもを含む223名を殺戮した。

 
 

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