日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
南京でもやっていた人体実験
血管が切ると心臓からものすごい勢いで血が・・・・
松本博
1644部隊
経歴
1926年生まれ
1943年中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊配属
この証言は1995年6月、8月、11月の聞き取りをまとめたもの。
全採血
一番嫌だったのは、細菌感染させた数日後、“マルタ”の体から血を全部抜き取る全採血でした。採血には、軍医の他に私ら担当の監視と監視所の者と軍医が連れてきた兵隊が立ち会いました。私は採血される“マルタ”を“ロツ”から出して、目隠しをしました。黒い頭巾のような袋を頭にスッポリかぶせるのです。服は着せません。裸のまま隣の処置室に連れて行くのです。それまでもこのようにして連れ出された“マルタ”は1人として部屋には戻りませんでしたから、連れ出される“マルタ”は同室の“マルタ”に、「スラ―!」(殺される!)とつぶやいていました。殺されることが分かっていたのでしょう。処置室まで“マルタ”は自分で歩いて行きました。警備の者は短い銃に短剣をさしていましたから、逆らいませんでした。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
2 河南
野田実自筆供述書(1954年7月31日)
この時八路軍工作員はまだ生きていたので、秘密保持のため森下に注射器で静脈内に空気を注入するよう命じた。森下は5ccの注射器を使って左肘関節の内側の静脈に約10ccの空気を注入したが、変化が起きなかったので、私は森下に今度は20cc の注射器を用いるように命令した。私は空気の注入がいささか難しく思われたので、自ら注射器をとり、全力で円筒を押し入れて10ccの空気を注入した。八路軍工作員の心臓は先ほどまで「ド、ド」という音を立てていたが、この時一瞬のうちに呼吸が止まり、私は彼の胸に手を当てて、鼓動が完全に止まっていることを再度確認した。こうして彼は惨殺された。私は八路軍工作員に生体解剖を施して惨殺した指揮者・実行者であり、責任は逃れられない。
私の当時の職務と階級は、旧第117師団野戦病院附・外科主任・軍医中尉であった。
(1)119ー2、901、1、第5号
訳注:野田氏の河南省に関する証言については、同氏の「太行の麓をしのんでー生体解剖ー」【中国帰還者連絡会・新読書社編『侵略(中国における日本戦犯の告白)』新読書社、1984年】を参照されたい。尚、本文中に「軍医中尉新田林」とあるのは、氏の回想では「新田」となっている。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦
4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍
アメリカ軍の対日毒ガス戦計画
連合軍の攻勢が次第に日本本土に近づくにつれて、アメリカ軍では大規模先制的な毒ガス戦計画を具体化させていった。吉見氏によれば、アメリカ軍は1944年4月から日本への毒ガス戦を本格的に検討し始め、ドイツ降伏(45年5月7日)後の45年6月19日に、オリンピック作戦(九州上陸作戦)開始予定日の45年11月1日を毒ガス戦準備完了日とする方針が統合参謀本部で承認された。計画では、兵士の損害を抑えるために上陸作戦直前での使用を想定し、九州各地のほか東京・大阪などの大都市を標的として航空機によるイペリットやホスゲンの大規模使用によって軽く500万人が死亡すると推定している(吉見義明「米国の日本殲滅『毒ガス作戦』の全容」及び同『毒ガス戦と日本軍』 )。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章 残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
江西南昌作戦(1939.3.17~29)
塗家埠方面では、日本軍第101師団の一部が、塗家埠対岸の山麓への4回連続の攻撃が失敗したあと毒剤を放出、中国軍の一部が被毒した。8,9日に及ぶ激戦の後なお、日本軍は目的を達成できずにいたが、後に国民党軍左翼の敗退により自動的に陣地を移した。
日本軍の西進を食い止めるため、国民党軍は急遽102師団(柏輝章)を派遣して、南昌から大城奉新にいたる新しい幹線道路の守備にあたった。だが、守備につくと同時に日本軍の攻撃にあい、豊城に撤退したので、奉新方面の日本軍は南昌近郊へと進軍して来た。27日、国民党第32軍の一部及び南京警備部隊は、敵の101師団及び106師団の一部と南京において激しい市街戦を展開、国民党軍に死傷者が多数出て、持ちこたえられず、同日夜、南昌を放棄し、その東郊に転身した。
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用