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細菌戦の系譜!!

2021-11-28 09:04:24 | Weblog

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

6 被告の立法不作為による損害賠償請求について(争点6)

(3)そこで、上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無について見ておくこととする。

(イ)1940(昭和15)年から1942(昭和17)年にかけて731部隊や1644部隊等によって、次の a.f.g.h の通り中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。

c 東陽

(a)1941(昭和16)年10月、義烏で流行していたペストが東陽県に伝播し、同所で流行した。

(b)原告郭飛龍によれば、同原告の住む歌山鎮では40名以上がペストで死亡したとされる。

(甲77、98の1・2、353の1・2、証人邱明軒)

 
 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 

3月11日

晴 風なし 零上二度 休暇  祝賀会

夜と言っても夕暮れ 営庭に集まって軍歌演習あり。なんでも歌う時だけは子供だ。之が二つの輪を作って外まわり内まわり音を取りつつバン声張り上げる その声は遠くもないが八卦溝に流れてゆく

御年二三歳の青年とは思へない無邪気な若さだ。夜は夜で娯楽会あり 週番下士気合をかけれど兵隊中々踊らず?無心に流るる星や終夜光る電燈に暗く描き出されし中学校や満鉄病院や官舎がしっとり濡れた。夕闇に写っている又してもむなしく一日は流れた。丁度星の様に。

 
 
 
 
 
 
 
軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・


 
この、予感は当たっていた。広島は、5年後の今、僕にとって最も重く、最も大きな存在となった。僕は度々、実に息苦しく、辛い夢を見る。陽ざかりの真夏の広場に、阿波人形みたいな頭をしっかりもたげ、緊張した小柄な中年男が寝間着を着込んで立ち、蚊のなくような声で演説する。夢の中の俺は彼の声を聞きながら、彼が数か月後、原爆症による不意の衰弱死をすることを知っているのである。 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2021-11-28 08:55:48 | Weblog

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

細菌詩集

731部隊を詠む

 

とべ しゅん(仮名=ペンネーム)

1644部隊

〈経歴〉

1919年生まれ

1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属

1944年 帰国。召集解除

■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。

 

伝染病菌の検索と研究

 次の詩は、戦後、私がつくったものです。

ヘロイン

 

肌の粗い壁面

裸電球の暗い光の中で

萎びた青白い腕が

大きく震えている

殺されたものは 確かに

極限状態に閉塞された

にんげんだったか

殺したものは

魂を喪くした悪魔

おれたちが鬼子(くいず)

日本鬼子(りいべん・くいず)

(『詩人会議』1983年8月号より)       

 
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

4 山西

 

 吉沢行雄の罪悪事実についての調査分析(1954年12月28日)

私は山西省惇(忄が山辺)県原平鎮山西惇(忄が山辺)県住民張存福の告発資料に基づいて検討した結果、1954年12月28日、山西惇(忄が山辺)県原平鎮に赴き、告発人張存福及び当時日本人に仕えた苦力高福生、李五龍らに対して綿密な審問を行った。その結果、1940年9月下旬、原平鎮に駐屯したいた旧日本陸軍病院の軍医少尉吉沢行雄は、捕虜となった抗日戦士2名を解剖していたことが明らかになった。その情況を以下に述べる。

1、捕虜を解剖する当日の朝食後、当時原平の旧日本軍西村部隊陸軍病院の水汲み苦力をしていた張存福は、5人の日本人が2人の灰色の軍服を着た捕虜の戦士を縛って外科治療室に連れて行くのを見たが、遂に彼らは出てこなかった。

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか

 

2  毒ガス戦に対する参謀本部の意識

「大陸指」からどのような背景が読み取れるか

 ①くしゃみ性・嘔吐性ガスの使用を初めて許可した「大陸指110号」(38年4月11日)、

②びらん性ガスの実験的使用を初めて許可した「大陸指第452号」(39年5月13日)、

③びらん性ガスも含めた毒ガス兵器の使用を許可した「大陸指第699号」(40年7月23日)

には共通の点がある。

 それは、使用の秘匿と、②と③では「第3国人」に知られないよう注意せよとしていること(尚、②では「第3国人」の被害を「絶無」にせよとしている)、そして①と②では使用対象地域に山西省の奥地を指定しており、使用の事実を秘匿しやすい場所を意識的に選定しているということである。

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第7章 残虐な毒ガス戦

 

動かしようのない事実

 

付:百団大戦中に捕獲した敵の毒ガス兵器、及びわが軍の中毒者数

 

             第1段階     第2段階    第3段階

毒ガス兵器  ガス弾   47発      (原文空白)   10発

       毒ガス   93箱       28筒      10筒

       幹部    50名       100名      30名

              兵士   1200名      3000名     500名

   (「第1129師団、百団大戦3段階遂行の戦績統計表」より。『百団大戦史料』236ページ参照)

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

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細菌戦の系譜!!

2021-11-28 08:53:23 | Weblog

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

日本鬼子(リーベンクイズ)

懐柔

捕虜を密偵に仕立てようと画策

大井憲太郎

特捜班長 警佐兼地方保安局属官

〈略歴〉

本籍地 長崎県西彼杵郡

出身階級 雑貨小売商

学歴 私立長崎貿易商業学校4年中途退学

職業 市役所事務員

所属部隊名 旧満州興安総省警務庁特務科

被捕年月日場所 1945年11月25日

長春市祝町朝日ビル3階

年齢46歳

 

「これはどこかね」と尋ねた。

絵に見入ったまましんみりとした口調で「山東の故郷だ」

「そうか、なかなかうまいなあ」と言って私は、そばにいた李にその絵を壁に貼らせた。曲はまばたきもせず、絵から眼を離さなかった。私は開き直って大声をあげた。

「お前は去年の暮、錦州から来た勤労奉公隊の者をそそのかして、副中隊長以下そっくり逃しただろう」

曲は呆気にとられたような顔をして

「そんなことなら俺は昨日聞いた」と言った。 

 
 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

    

 

    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


 

 

 

在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

 
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 
 
5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
 ・12 月 20 日(月)午後 2 時
 ・1 月 14 日(金)午後?時
 ・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
 
 
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

 

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp

 

日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第3章 秘密保全の機構と体制

3  産軍複合の秘密

政治資金の黒い霧

60年安保当時の防衛庁長官であった赤城宗徳は、語っている。「問題は防衛庁の実権をにぎる政界の首脳と業者の関係だ。・・・ボクの時代には、業者との関係はなかったもんだ。・・・それが、ある時代からだらしなくなって、困ったんもんだねぇ」(『週刊朝日』68・3・22)。同じころの『毎日新聞』(68・3・7)も、65年あたりから「防衛庁長官のポストが建設や通産大臣などと同じく金ヅル確保のためのイスに変わった」ときめつける長官OBが存在する事実を伝えている。「ボクの時代」のことはともかく、60年代後半の時期に、佐藤内閣は産軍を結ぶパイプから巨額の政治資金を吸い上げる体制をきずいたのである。防衛庁長官は増田のあと、有田喜一(福田派)、中曽根康弘(中曽根派)、増原恵吉(福田系)、西村直巳(佐藤派)、江崎真澄(藤山派)とまわった。分け前の配分である。

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

アメリカにおける生物・化学兵器の開発

 米軍のBCW研究基地で最も大きいものは、メリーランド州フォート・デトリックの陸軍生物兵器基地である。ここでは年間70万匹を越すハツカネズミ、モルモット、サル、ウサギなどを使って炭疽熱、各種ペスト、中毒素などのバクテリア、ウイルスを戦略的攻撃兵器として研究・開発中だ。またアーカンソー州のパイン・ブラフの陸軍化学兵器基地では各種の化学ガスの研究・製造を行っており、ベトナム戦争作戦用のCSやCNはここで製造されていると言われている。(68、3.30・『朝日新聞』)

 
 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2021-11-28 08:51:10 | Weblog

●昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

 

 

 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十七章  静穏な晩年と昭和の遺産

岸失脚に学んだ彼の後継首相池田勇人は、憲法改正を断念し、「寛容と忍耐」をスローガンにかかげた。彼は主に、国民総生産を年9パーセント増加させ、10年以内に国民の所得を「倍増」させる計画によって記憶されている。彼が政権の座にあった1960年7月から64年11月までの時期に、日本は1973年の第1次「オイル・ショック」まで続く例のない経済成長に突入した。その年に成長は鈍ったものの、依然として日本の成長率はどの西側諸国より高かった。農業人口の減少が加速され、1960年に就業人口の3分の1だったのが、70年に5分の1、80年には10分の1以下に下がった。天皇が67歳になった1968年、日本の国民総生産は資本主義国中、第2位に達した。それでも、「1981年に彼が80歳を迎えるころにも、かつて天皇制の重要な支持基盤だった農村はまだ存在していた。

 

 

  

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 

 

 

 

 

 

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

 

 

● 核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核実験の探知
東西冷戦中には、アメリカ合衆国が地下核実験の探知を目的として世界中に地震計を設置した。おもにソビエト連邦が実施した地下核実験によって生じる地震波をとらえた。いっぽう、核実験実施国も自然地震と見せかけるために巧妙な核実験を行った。たとえば爆弾を並べて短時間に順に爆発させていき断層破壊と偽ったり、2発の爆弾を短時間に続けて爆発させ自然地震特有のpP波に似た波を発生させたりしていた。
このような経緯で設置された地震計は、現在では純粋に地震学の分野で大きく活用されている(たとえば地震波トモグラフィー)。
なお、地震計による核実験探知については、ブルース・A・ボルト著『地下核実験探知』に詳しく記してある。
 
 

 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について


なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

 

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した

 

 

 

 

 

 

 
 
 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!

 
 

 

 
 
 

 

 
 
 
 

 

 

 

 
 
 

 

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細菌戦の系譜!!

2021-11-27 09:09:07 | Weblog

               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被爆者 坪井直さん死去 96歳

映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)

川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
2021 9 25加藤講演第1回目
絶望的な核開発!!
トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)

●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)

●2021 9 17 浅井基文講演

 

 

『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」

 
 
 
加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!

日航機墜落事故の原因を究明せよ!!

《今も胸に 日航機事故36年》最期の様子、知りたい 生データ開示求め訴訟 夫を亡くした吉備素子さん

 
 

 
今年のパネル展
11月14日(日)~19日(金)

●加藤哲郎講演会(一橋大学名誉教授)

11月16日(火)18:20~(開始予定)

「新型コロナ・パンデミックと731部隊・100部隊の影」

会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)

資料代500円

●森川聖詩講演会(神奈川県原爆被災者の会二世・三世支部)

「核なき未来へ 被爆二世からのメッセージ」

11月17日(水)18:20~(開始予定)

会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)

資料代500円

 

 

2020年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート

14日(日)

・若い時から石井四郎731細菌部隊には興味がありました。今日は詳しい説明をしていただき、改めて戦争とは?人間とは、民族とはと考えさせられています。

今回のパネル展示が末長く続きますよう・・・少しでも多くの人々にその残虐さが伝わり後世の人々の教訓となり、糧になり、平和で人間が人に優しくできる心のユトリが持てる時代が来ることを願います。

本日はありがとうございました。お疲れ様です。

(70代、市内、)

 

 

 

 


 
 
 

 





 

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細菌戦の系譜!!

2021-11-27 09:07:10 | Weblog



原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

         昭和への挽歌   野崎忠郎
 

                 

 
 

 

 
 

 



 

                 



 
 

 

 

 

自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

 

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)

 
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第5回
 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6

「登戸研究所と731部隊」(お話:山田朗さん)

 

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7

「731部隊について」(お話:五井信治さん)

 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―
 
1948年京都・島根 ジフテリア予防接種禍事件(その2) 
                              栗原 敦
 1971(昭和46)年3月10日京都市会(質問 山下良博議員、答弁 舩橋市長)(昭和46年第1回 京都市会会議録) 
山下議員は、1970(昭和45)年7月31日の閣議決定による予防接種被害の救済措置が明治 42年までさかのぼって適用されることをとりあげている。その措置においてジフテリア事件の被害者は除外されることになった。この補償要求が事件から20年余り後に再燃する理由はそこにあったことは明らかであります。質問は次の内容でした。(府議会における山川議員の質問を踏まえた内容) 
 冒頭事件の概要を述べ、一大不祥事件だったとし、製造業者の医学、衛生的知識の不足・怠慢、これを監督する政府の国民無視、生命軽視の風潮が主因であった。当時の「10万円の補償」は当時のヤミ米5石(1俵は4斗 60キロ、1石は10斗だから、米俵で12俵半─栗原注)分にしかならない。予防接種の被害者の救済措置からジフテリア事件の被害者を除外することは片手落ちである。国にその非を認めさせてほしい。これに対し舩橋市長は次のように答弁しています。この事故は国・府・市の負担で弔慰金を支給し、和解が成立しているから今回の救済措置から、除外するというのが国の見解だ。しかし、このままでは十分とは考えられないので国が今後なんらかの追加措置をするよう折衝しているとしました。 
 

 

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細菌戦の系譜!!

2021-11-27 09:05:59 | Weblog
 
 
 
 

隠された毒ガス兵器

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授

 

  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)

 

     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

 

 
 
 
 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?

 

実験医学雑誌第18巻雑報

 

 

18巻2号(1934年)

所長就任のご挨拶と職員に対する希望

宮川米次

3、所員諸君相互間は互譲、協調の精神を維持していきたい

10人には10色の考えがあります。それは面の変わった通りでありますが、その所お互いに譲り合う精神を持って行きますれば、必ずや愉快なる価値が見出せるものであります。私は本所の事務を遂行するにあたりまして、広く所員諸君の衆意を聞くつもりでありますが、必ずしも常に満場一致の意見のみを行うという訳には参りますまいと思います。しかし正しい、宜しいと考えましたことを断交するつもりで居ります。私は長與先生の女房役を致して参りましてから丁度今日で5年目になります。その間只今申し上げました考えを以って事に当たって参りました。今日所長になりましても、それは同様でありまして、何にも今日速やかに色々な事を改良し、変更したければならない必要のことはありません。大体において今まで通りでありますから、そのところは御安神を願いたいと思います。

 
 

 

 

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

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細菌戦の系譜!!

2021-11-27 09:04:31 | Weblog

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

埋もれた細菌戦調査書

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)


「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

6 被告の立法不作為による損害賠償請求について(争点6)

(3)そこで、上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無について見ておくこととする。

(イ)1940(昭和15)年から1942(昭和17)年にかけて731部隊や1644部隊等によって、次の a.f.g.h の通り中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。

b 義烏

(a)1941(昭和16)年9月、衢県に流行していたペストに感染した鉄道員が義烏に戻って発病し、これをきっかけに義烏においてペストが流行した。

(b)ペストは、義烏からさらに周辺の農村へ伝播していったが、原告陳知法ら現地の被害調査会の調査によれば、義烏市街地におけるペストによる死亡者は309人に上るとされる。

(甲77、89、98の1・2、105の1、142の1・2、証人邱明軒、原告陳知法)

 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

 

3月11日

晴 風なし 零上二度 休暇  祝賀会

十日の続きののようなもの。休暇だ。六大隊の経理が独立してより初めてご馳走らしいご馳走があった。

何もする気のない所を以ってきて下士集会所の臨時使役勤めは辛いね?

地方の日露戦役に関係ある人ばかりと大隊長以下士官の一大祝賀会の給仕人だ。九拾名ばかりの人々の中にただ一人奥さんらしい女の人がいて食器の大きいのに驚いていた。本当に軍隊で使用するものは何でもないようで珍しいと思へる。

 
 
 
 
 
 
 
軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・


 
僕が初めて広島を訪れたのは1960年の夏だった。その時、僕はまだ広島を真に理解しはじめてはいなかったが、唯、ひとつの予感を抱いたことは確かだった。僕は中国新聞に次のような一節を含む小さな文章を書いた。≪僕は今日、広島を訪れて原爆記念祭に出席した。それは僕にとって貴重な体験である。今すでに僕はそれを感じる。この体験の重みは次第に大きくなり僕を深く支配するであろう。僕はこの15年間に青春を迎え、その半ばを過ごしたが、僕はもっと早く広島を訪れるべきであったと思う。それは早ければ早いほどよかった。しかし今年になっても決して遅すぎはしなかったのである。≫
 
 

 

 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2021-11-27 09:02:52 | Weblog

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

Ⅱ 関連部隊・支部

細菌詩集

731部隊を詠む

 

とべ しゅん(仮名=ペンネーム)

1644部隊

〈経歴〉

1919年生まれ

1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属

1944年 帰国。召集解除

■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。

伝染病菌の検索と研究

 次の詩は、戦後、私がつくったものです。

ヘロイン

 

時には衰弱して

実験の継続に耐えられなくなると

治療すると見せかけて

見せかけなくたって

抵抗できる状態じゃあなかったのに

クロロフォルム20(ちぇお、ちぇお)を

注射する

 
 

●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編

 

江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳

 

 

 

 

 

Ⅰ東北

 

2 華北

4 山西

 

 山西惇(忄が山辺)県原平鎮高福生告発証言(1954年)

班村の住民張文瑞の話によると、1940年、陸軍病院の軍医吉沢行雄は、惇(忄が山辺)県六区上封村の勤労人民蘇万金(年齢25歳)を惇(忄が山辺)県憲兵隊からもらい受け、生きたまま解剖した。

皮膚と肉は埋め、骨をせいろで蒸し、ゆでたのち、針金で頭から足まで繋いで人体骨格を作り上げ、彼らが新兵を教育する資料とした。私は生体解剖は見たことがないが、骨格は西村部隊の新兵教育の教室で見たことがある。また一度は(年月日は記憶にない)、我々の革命幹部の2同志が解剖された。日本軍の殺人は中国人に知られないように行われたが、私は幼少であったため、薬局の主任に注射器を実験室に届けるよう命じられた。その時私は、まだ私達中国人が殺されると聞いて恐怖心でいっぱいで、不注意に実験室の床の上にあった洗面器にかけられていた新聞紙を落としてしまった。見ると2組の心臓と肝臓であった。私は恐ろしくて急いで逃げたが、すぐにその部屋の下士官(日本名不詳、中国語であだ名は『小虎恙』(虎の子の意)に捕まり、何発か横っ面を殴られた。日本軍が我が国内で血も涙もなく革命の幹部を惨殺したことに、歯ぎしりをして憤らないものはない。

(1)119―2、732,3、第42号

 

 

 

 

 

●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか

 

2  毒ガス戦に対する参謀本部の意識

「大陸指」からどのような背景が読み取れるか

 参謀本部(大本営陸軍部)の中核は第2課=作戦課だが、ここに集まったスタッフは、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートであった。毒ガス戦は、彼らが起案して参謀総長が発令した「大陸指」によって遂行されている。ここではくしゃみ性・嘔吐性ガスとびらん性ガスの使用を許可した3つの「大陸指」からどのようなことが読み取れるのかを検討してみたい。

 

 

 

 

 
 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

 

第7章 残虐な毒ガス戦

 

動かしようのない事実

 

 

「23日夜、20連隊が曹溝堡(ツォコウブー)を再攻、村の中に突入後、敵は再び毒ガスを放射、わが軍は大部分が毒に当り、再び撤退。24日、攻撃を再開、2重の鉄条網を突破し、敵の宿坊を焼却するや、敵は再び大量の毒ガスを使用、わが軍は再び撤退」

 わが軍には防毒の準備や毒ガス戦の経験が無かったことから、敵の毒ガス攻撃に翻弄され、有効に防備、反撃できなかった。よって「本段階における、当作戦全体の中毒者は1000余名に達し、中毒者の総数は死傷者総数の4分の1強を占める。同時に、毒にあたったために任意遂行が困難になったケースが数多かった。以上を教訓とし、今後は防毒訓練を強化し、毒ガスへの警戒心を高めなければならない」。

 

 

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題


 

 

 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2021-11-27 09:01:00 | Weblog

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

 

日本鬼子(リーベンクイズ)

懐柔

捕虜を密偵に仕立てようと画策

大井憲太郎

特捜班長 警佐兼地方保安局属官

〈略歴〉

本籍地 長崎県西彼杵郡

出身階級 雑貨小売商

学歴 私立長崎貿易商業学校4年中途退学

職業 市役所事務員

所属部隊名 旧満州興安総省警務庁特務科

被捕年月日場所 1945年11月25日

長春市祝町朝日ビル3階

年齢46歳

 

ガタッと扉が開いて通訳の李樹濃に男が引き立てられてきた。30には2つ3つと思われ、痩せてはいるが、がっちりした骨組みの曲子明が、雪焼けした顔に口をキッと結んで、机の前に立った。

こいつも必ずものにせねばならないと考えた私は、猫なで声で、

「お前、絵を描くそうだが、ひとつ描いてみろ」と気を引いた。

机の上に置かれている白紙に眼を注いだ曲は、しばらく考え込んでいたが、静かに筆を取ってスラスラと走らせた。山裾に咲き誇る杏の木に一羽の小鳥がとまり、一軒の百姓屋の庭先で鶏が餌をつつき、その前の河の緩やかな流れに、船頭が小舟を操っている静かな風景を、ものの10分も経たぬ間に描き上げて筆を置いた。ジッと眺めていた私は、≪素人にしては上手い。生粋の労働者に、こんな絵なんか描けるはずがない。確かに工作員だ。しめた、思う壺はまった≫とほくそ笑んだ私は、はやる気を抑え冷静を装って、

「これはどこかに行って尋ねた。 

 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス

在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
  訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。

 
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
 

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 
 
5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
 ・12 月 20 日(月)午後 2 時
 ・1 月 14 日(金)午後?時
 ・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
 
 
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

 

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp

 

日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第3章 秘密保全の機構と体制

3  産軍複合の秘密

政治資金の黒い霧

 佐藤内閣が登場したのは、ちょうど政・産・軍体制が確立されようとする時期であった。65年から68年ごろにかけて、一方では保守政界における佐藤派のヘゲモニーが強化され、他方では軍需生産面で独占体を軸とする系列化がすすんだ。この2つの過程は、相関的に進行したのである。65~68年の間に佐藤首相によって防衛庁長官に任命されたのは松野頼三、上林山栄吉、増田甲子七と、すべて佐藤派からであった。これにより佐藤派は、内局官僚と制服首脳を掌握しつつ業界とのパイプをその手に確保したのであった。この過程で、河野派に近く“海原天皇”といわれるほど防衛庁内に強固な人脈を築いていた海原治官房長が、国防会議事務局長にとばされた(67年7月)。さらに森田装備局長の自殺(67年10月)、川崎一佐逮捕、山口空将補自殺(いずれも68年3月)事件があいついで起こった。これらはすべて、佐藤派体制をきずくための策謀に根ざすものであったと判断していい。

 

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

 

 

 

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

アメリカにおける生物・化学兵器の開発

BC兵器の軍事研究は軍付属施設以外でも、注意深く行われている。1960年度において、陸軍のBCW研究は4200万ドルを費やした。これらの18%が軍以外の民間研究所で使われている。ステュブ将軍はこのことについて議会で、1961年の全計画の33%が民間研究機関に、1962年には43%が使用されていると証言している。

 2年後、デルモア中将ー化学部隊の責任者ーは化学兵器の研究費を大幅に増額し、大学と民間の研究機関での研究計画を拡大したと証言している。

 民間の研究機関では、宇宙航空会社にまでBC兵器の研究を契約している。

 その中にはリットン社、スペース・ゼネラル社、ブーズ・アレン、ノースアメリカン・アビエーション、ロッキード社などの名が出ている。

 
 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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