1)原子命題に主語の名前を付ける手段は矛盾を合理化する・・。
原子命題「太郎は犬を飼っている」
に、
主語である太郎という名前を付けたら
太郎「太郎は犬を飼っている」
と
なり、
¬太郎「太郎は犬を飼っていない」
と
合わせて
太郎∧¬太郎「太郎は犬を飼っているが太郎であり太郎は犬を飼っていないは太郎じゃない」
という
中間子結合をして矛盾を合理化する・・。
ゆえに
「この現象はいかなる原子命題に同様の処置を加えても同じでありゲーデル命題もまた例外ではないがためにG∧¬Gを避けられないのではないのか?」
とゆー《仮説》を生じさせる。
2)自己言及文の否定形もまた自己言及文であるべきだ・・。
「この命題は証明できない」
の
否定形は
「この命題は証明できる」
で
あるべきだ。
つまり、
G「Gは証明できない」
に
対して
¬G「¬Gは証明できる」
で
あるべきだ。(だからゲーデルの論証は誤りである・・)
それにしても「この命題は証明できない」をG「Gは証明できない」と書き替えること自体が中間子文G∧¬Gを合理化する元になっているのじゃなかろうか?
また、
「この命題は反証できない」
の
否定形は
「この命題は反証できる」
で、
Y「Yは反証できない」
と
¬Y「¬Yは反証できる」
と
なる。
それぞれ集合となって
集合Y「矛盾しない数学命題と数学体系の無矛盾性そのもの」
と
集合¬Y「数学命題の形をしているが矛盾しているものと数学の矛盾性そのもの」
と
言える。
中間子文Y∧¬Y「矛盾しない数学命題と数学体系の無矛盾性そのものは反証されないし数学命題の形だが矛盾しているものと数学の矛盾性とは反証される」
「数学は無矛盾でありさえすれば己の無矛盾性を反証することはなく矛盾しておるならば無矛盾性を反証するであろう」(powered by buturikyouiku)
最終結論「数学命題である限りは反証されなければ無矛盾でありかつ真である」
このことは数学体系の完全性を即座に意味している!
(結果として数学の完全性を論証することができました!)
原子命題「太郎は犬を飼っている」
に、
主語である太郎という名前を付けたら
太郎「太郎は犬を飼っている」
と
なり、
¬太郎「太郎は犬を飼っていない」
と
合わせて
太郎∧¬太郎「太郎は犬を飼っているが太郎であり太郎は犬を飼っていないは太郎じゃない」
という
中間子結合をして矛盾を合理化する・・。
ゆえに
「この現象はいかなる原子命題に同様の処置を加えても同じでありゲーデル命題もまた例外ではないがためにG∧¬Gを避けられないのではないのか?」
とゆー《仮説》を生じさせる。
2)自己言及文の否定形もまた自己言及文であるべきだ・・。
「この命題は証明できない」
の
否定形は
「この命題は証明できる」
で
あるべきだ。
つまり、
G「Gは証明できない」
に
対して
¬G「¬Gは証明できる」
で
あるべきだ。(だからゲーデルの論証は誤りである・・)
それにしても「この命題は証明できない」をG「Gは証明できない」と書き替えること自体が中間子文G∧¬Gを合理化する元になっているのじゃなかろうか?
また、
「この命題は反証できない」
の
否定形は
「この命題は反証できる」
で、
Y「Yは反証できない」
と
¬Y「¬Yは反証できる」
と
なる。
それぞれ集合となって
集合Y「矛盾しない数学命題と数学体系の無矛盾性そのもの」
と
集合¬Y「数学命題の形をしているが矛盾しているものと数学の矛盾性そのもの」
と
言える。
中間子文Y∧¬Y「矛盾しない数学命題と数学体系の無矛盾性そのものは反証されないし数学命題の形だが矛盾しているものと数学の矛盾性とは反証される」
「数学は無矛盾でありさえすれば己の無矛盾性を反証することはなく矛盾しておるならば無矛盾性を反証するであろう」(powered by buturikyouiku)
最終結論「数学命題である限りは反証されなければ無矛盾でありかつ真である」
このことは数学体系の完全性を即座に意味している!
(結果として数学の完全性を論証することができました!)