y軸のプラス方向に向かってx軸のプラス方向が右方向だとしましょう。
x軸だけの正負を入れ替えると確かに左右が逆になりますけど、すべての空間軸の正負を入れ替えるという空間反転(P変換)を行いますと、やはり右は右のままで変化いたしません。その際に変化するのはz軸が正となる位置に頭があったところが負の位置に存在するように変わることです。すなわち上下が確かに入れ替わっています。
これはスピン表現で上下は逆になったがカイラルは変わらなかったという思考実験と一致しております。
くり返しますが、z軸のプラス方向から原点に向かって右巻きに自転して直進する素粒子があった場合に、P変換を施しますと、進行方向の表現はz軸のマイナス方向から原点に向かうように逆になりますが、自転方向はy軸のプラス方向からx軸のプラス方向に回る右巻きであることに変わりがありません。これは定義のとおりに考えてのことなのですよ。
そしてスピン表現は元は下向きだったのがP変換を受けたら上向きに変化しています。
このように右巻きとか左巻きとかいうのは運動の本質であって座標系の有り方によらない普遍性を持っていることがよく分かります。もちろん、特殊相対論変換によって、光速度以内の運動を追い越してみる座標系を設定したとすれば、進行方向も変わればカイラルも変化するということはあります。しかし、もし素粒子の質量がヒグス機構によるものだとすれば、ヒグス粒子とヒグス粒子の間ではフェルミオンも光速度で飛んでいると考えられますから、質量を持って遅くなっている素粒子を観測したところで「前へ前へとバックする」という子供の頃に流行ったギャグが成立するばかりではなかったでしょうか。
その場合にはヘリシティーはカイラルよりも良い量子数となることでしょうし、
左右両巻きのように伝えられている電子のようなフェルミオンは「実は頻繁に往復運動をしている証拠である」という可能性だって出てくると存じます。その正体こそが無数の電子騾馬電子対ではないかと思っているわけなのですよ。その事情はおそらくクォークだって同じはずです。南部はπ中間子の質量を無視しましたが、私は「ニュートリノにとったら電子でさえも質量無限大のようなモノである」と論述を締めくくりたいように存じます、それでは!
x軸だけの正負を入れ替えると確かに左右が逆になりますけど、すべての空間軸の正負を入れ替えるという空間反転(P変換)を行いますと、やはり右は右のままで変化いたしません。その際に変化するのはz軸が正となる位置に頭があったところが負の位置に存在するように変わることです。すなわち上下が確かに入れ替わっています。
これはスピン表現で上下は逆になったがカイラルは変わらなかったという思考実験と一致しております。
くり返しますが、z軸のプラス方向から原点に向かって右巻きに自転して直進する素粒子があった場合に、P変換を施しますと、進行方向の表現はz軸のマイナス方向から原点に向かうように逆になりますが、自転方向はy軸のプラス方向からx軸のプラス方向に回る右巻きであることに変わりがありません。これは定義のとおりに考えてのことなのですよ。
そしてスピン表現は元は下向きだったのがP変換を受けたら上向きに変化しています。
このように右巻きとか左巻きとかいうのは運動の本質であって座標系の有り方によらない普遍性を持っていることがよく分かります。もちろん、特殊相対論変換によって、光速度以内の運動を追い越してみる座標系を設定したとすれば、進行方向も変わればカイラルも変化するということはあります。しかし、もし素粒子の質量がヒグス機構によるものだとすれば、ヒグス粒子とヒグス粒子の間ではフェルミオンも光速度で飛んでいると考えられますから、質量を持って遅くなっている素粒子を観測したところで「前へ前へとバックする」という子供の頃に流行ったギャグが成立するばかりではなかったでしょうか。
その場合にはヘリシティーはカイラルよりも良い量子数となることでしょうし、
左右両巻きのように伝えられている電子のようなフェルミオンは「実は頻繁に往復運動をしている証拠である」という可能性だって出てくると存じます。その正体こそが無数の電子騾馬電子対ではないかと思っているわけなのですよ。その事情はおそらくクォークだって同じはずです。南部はπ中間子の質量を無視しましたが、私は「ニュートリノにとったら電子でさえも質量無限大のようなモノである」と論述を締めくくりたいように存じます、それでは!