「この文は間違いである」は原子命題になれない、近代論理学ではその点で排除する、それは数学命題性を論じておいて1=1とか言うのと同じ誤りでしかない・・。
だが同じ意味のことをA「Aは間違っている」と構成すると、自己言及の問題点だけが浮彫りになり、殊に命題真偽に関する自己言及が禁則にされる。それは部分的であっても、すなわち「この文が正しいならばX」(カリー命題)にしても同様だ。
さてG「Gは証明できない」はどうなのか?
このことは、原子命題のサンプルとしてよく出てくる「太郎は犬を飼っている」を(太郎)「太郎は犬を飼っている」と構成すると、ゲーデル命題の理法で言うと否定形は(太郎じゃない)「太郎は犬を飼っていない」になってしまう。なんだか奇妙な具合であるが、このことは自己言及でないノーマルな原子命題を自己言及命題に作り替えたから出てきた歪みだろうか・・。
強いて意訳すれば「犬を飼っているのが太郎で犬を飼っていないのは太郎じゃない」という強調表現になり得るかな?
それをゲーデル命題に適用すれば「証明できないのがゲーデル命題で証明できるのはゲーデル命題じゃない」ということになる。また、ここを(太郎じゃない)「太郎じゃないは犬を飼っていない」と山野命題風にアレンジすると「日本全国で犬を飼っているのは太郎さんだけ」になってしまって、まー、いうなればちょっとやばい。人物名「太郎」を表現言語「愛犬家」に置き替えて
愛犬家「愛犬家は犬を飼っている」 非愛犬家「非愛犬家は犬を飼っていない」
こうやれば速やかに集合論が適用できる論理学体系が出現するw)
だけど、こーやるのは山野命題Yの世界であって、最初に考案したクォーク命題じゃない・・。
「クォーク命題というのは述語論理のままでG∧¬Gが不合理なく結合してしまうようなクォークみたいな命題ということで考案しておいた一連のメソン結合命題である」
G∧¬G「証明されないのがゲーデル命題で証明されたゲーデル命題はゲーデル命題とは言わない」
(太郎)∧(¬太郎)「犬を飼っているのが太郎で犬を飼っていない太郎は太郎じゃない」
結局のところ、ありとあらゆる原子命題を自己言及型に改造すればクォーク命題化してメソン結合させることは可能なのですw)
(ゲーデルさんよ、そりゃ途中でG∧¬Gがまことしやかに出現したって仕方ないよな?)
だが同じ意味のことをA「Aは間違っている」と構成すると、自己言及の問題点だけが浮彫りになり、殊に命題真偽に関する自己言及が禁則にされる。それは部分的であっても、すなわち「この文が正しいならばX」(カリー命題)にしても同様だ。
さてG「Gは証明できない」はどうなのか?
このことは、原子命題のサンプルとしてよく出てくる「太郎は犬を飼っている」を(太郎)「太郎は犬を飼っている」と構成すると、ゲーデル命題の理法で言うと否定形は(太郎じゃない)「太郎は犬を飼っていない」になってしまう。なんだか奇妙な具合であるが、このことは自己言及でないノーマルな原子命題を自己言及命題に作り替えたから出てきた歪みだろうか・・。
強いて意訳すれば「犬を飼っているのが太郎で犬を飼っていないのは太郎じゃない」という強調表現になり得るかな?
それをゲーデル命題に適用すれば「証明できないのがゲーデル命題で証明できるのはゲーデル命題じゃない」ということになる。また、ここを(太郎じゃない)「太郎じゃないは犬を飼っていない」と山野命題風にアレンジすると「日本全国で犬を飼っているのは太郎さんだけ」になってしまって、まー、いうなればちょっとやばい。人物名「太郎」を表現言語「愛犬家」に置き替えて
愛犬家「愛犬家は犬を飼っている」 非愛犬家「非愛犬家は犬を飼っていない」
こうやれば速やかに集合論が適用できる論理学体系が出現するw)
だけど、こーやるのは山野命題Yの世界であって、最初に考案したクォーク命題じゃない・・。
「クォーク命題というのは述語論理のままでG∧¬Gが不合理なく結合してしまうようなクォークみたいな命題ということで考案しておいた一連のメソン結合命題である」
G∧¬G「証明されないのがゲーデル命題で証明されたゲーデル命題はゲーデル命題とは言わない」
(太郎)∧(¬太郎)「犬を飼っているのが太郎で犬を飼っていない太郎は太郎じゃない」
結局のところ、ありとあらゆる原子命題を自己言及型に改造すればクォーク命題化してメソン結合させることは可能なのですw)
(ゲーデルさんよ、そりゃ途中でG∧¬Gがまことしやかに出現したって仕方ないよな?)
ゲーデルの結論は「証明されないのが数学の無矛盾性で証明された数学の無矛盾性は数学の無矛盾性とは言えない」となりますです、はいw)