その昔に可算濃度としてアレフゼロという記号がつかわれていました、
その際には実数直線連続体の濃度はアレフワン、その両者の間に「中間濃度が存在しない」とするのがカントールによる連続体仮説だったものです。ここで、カントール以来の伝統的な無限集合に対する論じ方に背を向けてしまえば、アレフゼロを超現順序数ωと同じように考えて数量化する手段を発明しようという気になってくるものです。超現順序数とは「あらゆる自然数よりも真に大きな順序数のうちでも最小の数」という意味がありまして、自然数列もしくは標準的な順序数で言えば0と同じような役割を持つものです。
ここで、両者の大きさを見積もらせてもらえば ω>アレフゼロ なんですよw)
なぜならば、アレフゼロは自然数濃度ですから、自然数の個数に関する情報から形成された概念であり、そこから「自然数個数よりも真に大であることができない」という性質を持たされますよね。それに対してωは先に述べたように自然数集合の濃度よりも真に大きいことが要求される概念です。なぜならば、対角線論法において「可附番数ωが要求されたら非可算であることが確定する」ぐらいですから、その大きさの見積もりは半端では駄目であって、あらゆる自然数を超越したという意味の超現順序数でなくてはなりません。
私は「超現順序数を用いた自然数の無矛盾性の証明」なる物はよく知りませんが、そこを徹底せずに「あらゆる標準的な自然数よりも大きいが有限である数」とやっているのでは偽証明だと存じました・・。
自然数は「最大数が存在しない」と同時に「すべての自然数は有限である」という性質を持っておりますw)
そこから自然数濃度なるものこそが有限と無限のはざまに位置すると申しますか、それこそ真理教の連中が昔からよく言っている可能無限と実無限の区別のようなところですが、あらゆる標準的な自然数よりも大きいが有限だという性質を持っているのはアレフゼロの方であるように認識しております。「自然集集合からみて区間(0,1)の実数なる物の濃度がそのべき集合濃度」だとする古来からの認識は如何なものでしょうか。ここで自然数濃度をω’(<ω)で書き替えさせてもらいますと「ω’は可算だがωは非可算」ということから「2^ω’は区間(0,1)におけるあらゆる有限小数の濃度」ということになってしまって、けっして実数連続体濃度に追いつくことができません。
このことは旧来からの「集合に対してべき集合は真に大である」という自明に近く確信されてきた性質が成立しておらないことを意味しますw)
とくに可算非可算にωほどの意味も持たないということでは「真に大」という性質を排除しても宜しいでしょうから、先だって提案しましたような「集合とべき集合とは同一」もしくは「集合とべき集合とは要素の個数に関して合同である算法を新たに造られる」というような処置を合理化したり補強したりできるような新たな考察であると自負しております。
【結論】
自然数のべき集合ごときでは「すべての無限少数」どころか「すべての有限少数」の濃度に終わる。
その際には実数直線連続体の濃度はアレフワン、その両者の間に「中間濃度が存在しない」とするのがカントールによる連続体仮説だったものです。ここで、カントール以来の伝統的な無限集合に対する論じ方に背を向けてしまえば、アレフゼロを超現順序数ωと同じように考えて数量化する手段を発明しようという気になってくるものです。超現順序数とは「あらゆる自然数よりも真に大きな順序数のうちでも最小の数」という意味がありまして、自然数列もしくは標準的な順序数で言えば0と同じような役割を持つものです。
ここで、両者の大きさを見積もらせてもらえば ω>アレフゼロ なんですよw)
なぜならば、アレフゼロは自然数濃度ですから、自然数の個数に関する情報から形成された概念であり、そこから「自然数個数よりも真に大であることができない」という性質を持たされますよね。それに対してωは先に述べたように自然数集合の濃度よりも真に大きいことが要求される概念です。なぜならば、対角線論法において「可附番数ωが要求されたら非可算であることが確定する」ぐらいですから、その大きさの見積もりは半端では駄目であって、あらゆる自然数を超越したという意味の超現順序数でなくてはなりません。
私は「超現順序数を用いた自然数の無矛盾性の証明」なる物はよく知りませんが、そこを徹底せずに「あらゆる標準的な自然数よりも大きいが有限である数」とやっているのでは偽証明だと存じました・・。
自然数は「最大数が存在しない」と同時に「すべての自然数は有限である」という性質を持っておりますw)
そこから自然数濃度なるものこそが有限と無限のはざまに位置すると申しますか、それこそ真理教の連中が昔からよく言っている可能無限と実無限の区別のようなところですが、あらゆる標準的な自然数よりも大きいが有限だという性質を持っているのはアレフゼロの方であるように認識しております。「自然集集合からみて区間(0,1)の実数なる物の濃度がそのべき集合濃度」だとする古来からの認識は如何なものでしょうか。ここで自然数濃度をω’(<ω)で書き替えさせてもらいますと「ω’は可算だがωは非可算」ということから「2^ω’は区間(0,1)におけるあらゆる有限小数の濃度」ということになってしまって、けっして実数連続体濃度に追いつくことができません。
このことは旧来からの「集合に対してべき集合は真に大である」という自明に近く確信されてきた性質が成立しておらないことを意味しますw)
とくに可算非可算にωほどの意味も持たないということでは「真に大」という性質を排除しても宜しいでしょうから、先だって提案しましたような「集合とべき集合とは同一」もしくは「集合とべき集合とは要素の個数に関して合同である算法を新たに造られる」というような処置を合理化したり補強したりできるような新たな考察であると自負しております。
【結論】
自然数のべき集合ごときでは「すべての無限少数」どころか「すべての有限少数」の濃度に終わる。