夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒・・

観念らの規定性らによる、事象らの成り立ちようらへの解枠にも絡めて、 天下経済系の可能的な成長の度合を増すべき事らを述べる

観念性の空間らの設定ぶり 。 日本内外史略 ; 遣隋使

2017-10-28 19:07:49 | 政治・経済
☆ 自らの回答の引っ越し保管と改訂など ;

sentdvさん
2009/ 12/19 1:25:18 ;

例えば、 「 4次元時空 」 、 といえば、
それは、 数学の便宜上のものです。
いわば、 相対性理論の計算の道具です。

それをもって、 4次元時空がある、 と、
言ってもいいし、 実体はないけど、
道具になる、と言ってもいい、と思われます。

一方、 「 りんご 」 、 は、 誰でも、 ある、
と、 言います。 食べたら、飲み込みます。


では、 「 電子 」 、や、 「 クォーク 」 、 は、
実際に、 物があるのでしょうか。
それとも、 便宜上の道具でしょうか。

補足 ; 聞きたいのは、 あるとすると、
何の矛盾もないものは、 全て、
実際にあるのか、 ということです。

実際に、 それは、 なくても、 あるように、
見えることってではないでしょうか。
うまく言えませんが、
何かが、 影を落としているように見えるが、
何かは、 実際にはなく、 あるのは、影だけ、
ということはないでしょうか。

例えば、 3次元で変化する物があったとします。 それは、 11次元で、こんな物だから,
その影だ、 と、 説明した時に、
本体は、 11次元に、 実際に、
あることになるのでしょうか。

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bergflatさん

編集あり 2009/ 12/21 23:35:49 ;

字数の制限もあり、
( 丁寧な物言いは、 し難くなりますが ) 、
極初歩的な事柄に限って、記述してみます。

【 科学が物語る所によると、

我々の体を構成する物質らは、
原子の占める領域より、
さらに、 微々たる領域を占めるものらである、
と共に、
その各々の間を、
その大きさの何万倍もの距離のある、
空間に占められており、

いわば、
我々の体は、
はなはだ希薄な霧のごとき粒らの寄り集まり、
といった体 ( てい ) 、 の、 ものである、
事になるようだが、

ここで、
この、 微々たる物質ら、 にではなく、
それらを包み込んでいる、
膨大なる空間に目を向けると、

果たして、 この空間は、
不動で、 何もせず、
何もされない類の空間なのか、
あるいは、
重力などの、諸々の力の働きを伝える、
機能をそなえてある、 と共に、
何事かをなし、
何事かをなされる類の空間なのか、
それらな、 両者を重ね合わせ得た所のある、
空間性を帯びた何がしかなのか、

さらに、それに付加されるべき、
何かをも見出し得る、 何がしかなのか、と、
さまざまに、 思い構えて観るに当り、

我々の体内の、 諸々の物質らの間にある、
微々たる物質らに比べて、
遥かに膨大なる空間が、
第一に挙げたものである場合には、

我々が、 身じろぎをし、
歩いたり、 走ったりする、 時には、

我々は、 この空間を置き去りにして、
別の場を占めている、 空間、 との、
直近域へ入ってゆく事になり、

我々が、 移動してゆく事は、
そのまま、 ある領域を占める空間を、
我々が、 すり抜けてゆく事を意味し、

その場その場の空間が、 切れ目なく、
我々の体内の無数の隙間を、
すり抜けて、 置き去りにされてゆく、
事を意味する。


この第一の場合の空間は、
それが、 実在たる対象であっても、
実在たる対象でなくても、
そんな事に、 関わりは無く、

我々の精神の一定以上の作業の枠組みにおいて、

時系列の観念上の空間の諸相内の、
諸位置を、 連続化して観るに当たり、

無意識のうちに、 その前提たるものとして、
設定される、 観念上の空間であり、
直接的な諸感覚の対象には成らないものでもある。


何らかの運動態を、
空間の諸相の系列化において、
想い構えて観るに当たっては、

その基準となる空間は、
この第一の空間のごときもので、
十分であり、

余計な属性らなどを、 何も付与されずとも、
それで、 十分に、 その用を果たす、
という事である。


これは、
大カントの述べる類の空間の一種であり、

我々が、 空間内の、 諸物の動静を、
判断するに当たり、

時系列の観念上の空間の、
諸相同士を比べ合わせて観て、

その各々の相内の、 同一諸物同士や、
諸部分同士の、
位置の一致と不一致とを識別したり、

それらの様相の、 一致と不一致とを、
識別したりする際に、

その認識の脈塊 ( みゃくれ )、 を構築する上で、
どうしても、 要りようとなる、
余計な属性らの無い、 空間であり、

このての認識系を構築する上で、
その認識構築の作業の妨げになる、
余計な属性らを、 何一つとして、
持ち合わせぬように設定され、
性格付けられた、 観念的な空間であって、

我々の時空に絡む、 認識構築の作業を、
最も、 易々と成り立たせるのに適した、
性格しか与えられていない、
観念的な設定存在でもある。


我々の認識構築用の便宜的な設定を、
観念上に得た空間こそが、
我々が、 宇宙や身の回りの空間として、
想い構えて観る、 空間の第一位のものであり、

限りない宇宙の広がり等といったものとして、 我々が、 空間を想い構えて観る際にも、
我々は、 まず第一に、
この類の空間を観念した上で、

アインシュタイン氏流の、
相対的な空間を想い構えて観得る所に、
立場を占め、

第一位の認識構築用の便宜的な空間の諸相と、
時間的な持続の諸相と、
それらに内包される運動の諸相との、
相対的な諸関係を統括して観てゆく事を通して、

アインシュタイン氏流の、
物理的な運動の諸相と、
密接な相互作用の関係をもつ、
第二位以降の空間めいたものの相を 、
観念らの成り立ち合う系の主である、 我々が、
現前させて観るに至る事が、 可能となる 】 。



☆ 遣隋使 ( けんずいし ) 、 とは、

推古朝の時代に、
倭国 ( 俀國 ) 、 が、
技術や制度を学ぶために、 隋に派遣した、
朝貢使 、 ❔ 、 の、 ことをいう。

6百年でもある、 推古天皇の8年 ~、
618年でもある、 推古 26年 、 までの、
18年間に、 5回以上を派遣されている。

日本 、 という、 名称が使用されたのは、
遣唐使から、 だ 。

大阪の、住吉大社の近くの、 住吉津から出発し、
住吉の細江 ( 現・細江川 ) 、 から、
大阪湾に出、
難波津を経て、 瀬戸内海を、
九州は、 筑紫 、 の、 那大津へ向かい、
そこから、 玄界灘に出る。

倭の五王による、 南朝への奉献以来、
約 1世紀を経て、 再開された、
遣隋使の目的は、
隋帝国の文化の摂取が、 主であるが、
朝鮮半島での、 日本側からの影響力を、
維持する、 意図もあった。

この外交方針は、 次の遣唐使の派遣にも、
引き継がれた。


この派遣の第一回である、 6百年でもある、
隋、の、 開皇 20年 、 は、

『 日本書紀 』 、 には、 記載が、 無い。


『 隋書 』 、 の、 「 東夷傳 俀國傳 」 、
は、 隋帝国の初代皇帝で、 高祖である、
文帝の問いに、 遣使が答えた様を載せている。

「 開皇二十年 俀王 姓 阿毎
字 多利思北孤 號 阿輩雞彌
遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言
俀王 以天 爲兄 以日 爲弟
天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務
云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之 」 ;

開皇二十年、 俀王、 姓は、 阿毎、
字 アザナ 、は、 多利思北孤、
阿輩雞弥 、 と、 号 ナ 、 づく。

使いを遣わして、 闕 ケツ に詣 イタ る。

上 ≒ 隋の文帝 、
所司 ショシ 、 をして、 その風俗を問わしむ。


使者言う、 俀王は、 天を以て、 兄と為し、
日を以て、 弟と為す。

天未 イマ だ、 明けざる時、出でて、
政 マツリゴト 、 を聴く。

日出ずれば、 すなわち、
理務を停 トド めて、 云う、
我が弟に委 ユダ ぬ、 と。

高祖曰く、 此れ、 大いに義理なし。
是に於て、 訓 オシ えて、 之を改めしむ。


◇ 俀王 ( 通説では、 俀 、 は、
倭の誤りとする ) 。

◇ 姓の阿毎は、 アメ 、

◇ 多利思北孤
( 通説では、 北は、 比の誤りで、
多利思比孤 、 とする ) 、 は、
タラシヒコ 、つまり、
アメタラシヒコ 、 で、
天より垂下した彦
( 天に、 出自をもつ、 尊い男 ) 、
の、 意 、 と、 される。


阿輩雞弥、 は, オホキミ 、 で、
大王 オオキミ 、 と、 される。

『 新唐書 』 、 では、 用明天皇が、
多利思比孤である、 と、 している。


開皇 20年は、 推古天皇 8年にあたる。

この時に、 派遣された使者に対し、
高祖は、 所司を通じて、俀國の風俗を尋ねさせた。

使者は、 俀王を、
「 姓 阿毎 字 多利思北孤 」 、
号を、 「 阿輩雞彌 」 、 と云う、
と、 述べている。

ところが、 高祖からみると、
俀國の政治のあり方が、 納得できる物ではなく、
道理に反したものに思えたのであろう。
そこで、 改めるよう、 訓令した、
というのである。


第二回は、 『 日本書紀 』 、 に、
記載されており、

6百7年でもある、 推古 15年 、 に、
小野妹子 オノ・の・イモコ 、 氏 ≒
男性 、 が、 大唐❔国に、 国書を持って、
派遣された 、 と、 記されている。

倭王から、 隋皇帝の、 煬帝に宛てた国書が、
『 隋書 』 、 「 東夷傳 俀國傳 」 、に、

「 日出處天子致書日沒處天子無恙云云 」

( 日出ずる処の天子、 書を、
日没する処の天子に致す。 恙無しや、云々 )
、 と、 書き出されていた。

これを見た煬帝は、 立腹し、
外交担当官である、 鴻臚卿 ( こうろけい )
に、
「 蕃夷の書に、 無礼あらば、 また、
以て、 聞 モン するなかれ 」 ;

( 無礼な蕃夷の書は、 今後は、
自分に見せるな ) 、 と、 命じた、 という。

煬帝が立腹したのは、
俀王が、 「 天子 」 、 を、 名乗った、
ことに対してであり、

「 日出處 」 、と、 「 日沒處 」 、
との、 記述らに対してではない。

「 日出處 」 、や、 「 日沒處 」 、は 、
『 摩訶般若波羅蜜多経 』、 への注釈書の、
『 大智度論 』 、 に、
「 日出処是東方 日没処是西方 」 、
と、 あるなどし、
単に、 東西の方角を表す、 仏教用語だ。

ただし、 仏教用語を用いたことで、
中華的冊封体制に、 日本が、 無い、
事を、表明する表現であった、
とも、 考えられている。


小野妹子 ( 中国名: 蘇因高 ) 、 氏は、
その後に、 返書を持たされて返されている。

煬帝の家臣である、 裴世清を連れて、
帰国した、 妹子氏は、
返書を、 百済に盗まれて、 無くしてしまった、
と、 言明している。

百済 クダラ 、 は、 日本と同じく、
南朝への朝貢国であったために、
その日本が、 北朝の隋と国交を結ぶ事を、
妨害すべき、 動機は、 ある。

これについて、
煬帝 ヨウダイ 、 からの返書は、
倭国を、 臣下扱いする物だったので、
これを見せて、 日本の朝廷の人々の、
怒りを買う事を恐れた、 妹子氏が、
返書を破棄してしまったのではないか、
とも、 推測されている。


裴世清が持ってきたとされる書が、
『 日本書紀 』 、 に、 ある。

「 皇帝、倭皇に問う。
朕は、 天命を受けて、天下を統治し、
みずからの徳をひろめて、
すべてのものに及ぼしたい、 と思っている。
人びとを愛育したい、 という、 こころに、
遠い近いの区別は、ない。

倭皇は、 海のかなたにいて、
よく、 人民を治め、 国内は、 安楽で、
風俗は、 おだやかだ、 ということを知った。

こころばえを至誠に、遠く、 朝献してきた、
ねんごろなこころを、 朕は、 うれしく思う 」 。

「 皇帝問倭皇 使人大禮 蘇因高 等
至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇
思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇
知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂
風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢
丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也
故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別 」 ; 『 日本書紀 』 。

これは、 倭皇となっており、
倭王として、 臣下扱いする物ではない。

『 日本書紀 』 、 による、
これに対する、 返書の書き出しも 、

「 東の天皇が、 敬いて、
西の皇帝に、 白 モウ す 」 ;
( 「 東天皇 敬白 西皇帝 」 ;
『 日本書紀 』 ) 、 とある。

これをもって、 天皇号の始まりとする説もある。 「倭皇」を、 日本側の改竄とする見解もある。


裴世清が持参した返書は、 「国書」であり、
小野妹子氏が持たされた返書は、
「 訓令書 」 、ではないか、 と、 考えられる。


小野妹子氏が、 「 返書を掠取される 」 、
という、 大失態を犯したにもかかわらず、

一時は、 流刑に処されるも、
直後に、 恩赦されて、
大徳 ( 冠位十二階の、 最上位 ) 、
に、 昇進し、
再度 、 遣隋使に任命された事、

また、 返書を掠取した百済に対して、
日本が、 何ら行動を起こしていない、
という、 史実に鑑 カンガ みれば、
聖徳太子、推古天皇などの、
倭国の中枢員らと、 合意した上で、
「 掠取されたことにした 」 、
という事も推測される。


☆ 年表 ;
6百年でもある、 推古 8年 、
第1回の、 遣隋使を派遣。
この頃は、 まだ、 俀國は、
シナの、 外交儀礼に疎く、 国書も持たせずに、
遣使した。 ( 『 隋書 』 俀國伝 ) 。

6百7年でもある、 推古 15年 ~
6百8年でもある、 推古 16年 ;

第2回、の、 遣隋使、 小野妹子氏らを遣わす。

「 日出処の天子…… 」 、 の、 国書を持参した。

小野妹子氏、 裴世清らとともに、
住吉津に着き、帰国する。
( 『 日本書紀 』 、 『 隋書 』 俀國伝 ) 。

6百8年な、 推古 16年) - ?
( 『 隋書 』 ; 煬帝紀 ) 。

6百8年な、 推古 16年 ~
6百9年な、 推古 17年 ;

第3回、の、 遣隋使、
小野妹子氏と、 吉士雄成氏などが、
隋に遣わされる。

この時に、 学生として、 倭漢直福因
( やまとのあやのあたいふくいん ) 氏や、
奈羅訳語恵明 ( ならのおさえみょう ) 氏に、 高向漢人玄理
( たかむくのあやひとくろまろ ) 、 と、
新漢人大圀 ( いまきのあやひとだいこく )
氏や、 学問僧として、 新漢人日文
( にちもん、 後の、 僧旻 ) 氏、 と、
南淵請安氏らの、 8人、が、 隋へ留学する。

隋使、の、 裴世清が、 帰国する。
( 『 日本書紀 』、 『 隋書 』 俀國伝 ) 。


6百十年な、 推古 18年 - ? ;

第4回、の、 遣隋使を派遣する。
( 『 隋書 』 煬帝紀 ) 。

614年な、 推古 22年 ~
615年な、 推古 23年 ;

第5回、の、 遣隋使、
犬上御田鍬氏と、 矢田部造氏らを、隋に遣わす。

百済使、が、 犬上御田鍬氏に従って、 来る。 ( 『 日本書紀 』 ) 。


618年な、 推古 26年 ;
隋王朝が、 滅ぶ。


☆ 第一回の遣隋使は、
『 日本書紀 』 、に、 記載がなく、
『 隋書 』 、に、 あるのみ。

『 日本書紀 』 、では、
「 隋 」 、 ではなく、
「 大唐國 」 、に、 使いを派遣したとある。


『 日本書紀 』 、では、 裴世清、
『 隋書 』 、 では、 編纂された時期が、
唐の太宗の時期であったので、
太宗の諱 イミナ である、 世民、 を、
避諱して、 裴清 、 と、なっている。


小野妹子氏の返書紛失事件は、
『 日本書紀 』 、 にはあるが、
『 隋書 』 、には、 ない

( 『 隋書 』 、 には、
小野妹子氏の名前自体が、 出てこない )。


『 隋書 』 、 では、 竹斯國 ≒
筑紫 ツクシ 国か ❔ 、と、
秦王國の国名が出てくるが、
大和の国に当たる国名は記されていない。

しかし、 「 都 於 邪靡堆 」 、
とあることから、 都は、
「 邪靡堆 」 にあった、 と、 推察される。

質一な、観念性の空間ら、や、量子のもつれ現象ら。 日本内外史略 03

2017-10-28 14:49:29 | 政治・経済
【 その、 あらゆる部分らの各々の質が、
互いに、 等しくある、 もの、 として、
我彼 ワレカレ らに、 無意識の内にも、
観念されて、 来てある 、
質一 シチツ な空間 ≒

より、 自由自在に、
認識の系らを構築し得るように、

より、 余計な属性らを排除される形で、
我々の各々の観念らの成り立ち合う系において、 第一位に、 空間として、 観念される、
その、 観念な、 空間なり、 空間の相なりは、

その、 ありとあらゆる部分同士が、 互いに、
等しい質を成し合ってあるものとして、
規定されてあり、

その部分らの各々の質同士に、 違いが、 無い、
ものとして、 規定されてある、 が、 為に、


アインシュタイン氏ら等に、
質量の、 無い、 光ら 、が、
曲がって移動する現象らを、
人々へ、観察させ得るのは、
空間が、 曲がっている所々で、だ、 などと、
述べられると、

その主張事へ、 違和感を覚えてしまい得もする、
事になる。


観念としての、 時間や空間 、 などといった、
持ち札らが、
アインシュタイン氏らにおいては、
限られてある中で、

観察され得て来てある、 現象らを、
より、 観察され得てある事らの間で、
つじつまが合うように、
説明し得るようにするには、

その持ち札らの各々の属性らをやりくりして、
つじつまを合わせるしかなく、

その属性らの各々として、 あるべきものや、
それらの各々を構成するものを、
取り去って観せたり、
新たに、 付け加えて観せたりする事においても、

その観念らの何彼らを操作し、
その観念らの各々の枠組みらしかない 、
世界において、
それらの各々を構成するものらを、
やりくりして、
観察のされ得てある、 事らの、
ありようらや、 あり得ようらに、
より、 つじつまの合う、
それらの組み合わせようら、 が、
呈示される事にも、 成り、

空間の部分同士の質の等しさ、 などが、
否定される形で、
観念な、 空間などに、
光ら、 の、 在り廃 スタ りの連続する現象らが、
光らの、 移動してある現象として、
意味付けられる場合に、
その、 光らの進みゆく道筋を曲げる性質が、
あるようにも、 設定され得たりする。


科学者らなどの、 ほとんどなり、
一定数の人々なりは、
そうした、 観念らや、
それらを構成する物事らへの、 やりくりなり、
操作なり、 継 ツ ぎ接 ハ ぎなり、
を、 成す事において、

観察らによって、 得られてあるものら 、 と、
それらが、
より、 つじつまが合う事らを成すように、
努めて来てあるだけであり、


観念らの規定性らが、
矛盾し合う場合らを成してもある 、
事 、 などを利用して、

観念らの枠組まれようらのそのものを解いて、
物事らを観てゆく事などは、
全く、 成し得て来ていない。


◇ 量子らの各々が、 対を成してもある、
その一方の状態を、
人為的に、 成しかえた場合に、

光、の、 在り廃りを成して観せもする、
速度 ≒ 光速 、 でも、

その観察された事の成り立つ、 一定の時間内に、
おいては、
何彼らが、 到達し得ない、 かけ離れた場に、
その片方がある場合においても、

その片方の状態が、 その一方のものとは、
真逆なものに、 成り代わる 、
という事を、 観察し得て来てある事へ対しても、

自らの出来合いの観念らの規定性らに、
縛られる余りに、

ある一定の時間内において、
光らが移動する速度でも、 到達し得ない、
以上の距離を成してある所で、

対の片方の、 量子の状態への操作へ、
毎回に、 同時に、 対応する形で、

残りの片方の量子の状態が、 成り代わる 、
という事が、
全く、 本当の事である、 ならば、

それは、
光の伝わり得る速度を超える 、 速度で、
量子らの片方の側から、 残りの片方の側へと、
情報が伝わる、 からくりが、
現実に、 成り立ってあるなり、

その量子らの各々が、 同時に、
真逆な状態らを、 成し合う形で、
その状態らの各々を成り代わらせる、
からくりが、 現実に、 成り立ってあるなり、
してある、 事 、 を、
指し示し得てもある事である、 にも関わらず、

量子らの事らにおいては、
因果律が、 成り立たない、 といったような、
見当違いな事らを述べても来てある。


その実験らにより、
かつ、 今後の、 そうした実験らにより、

対を成し合う、 量子らの各々において、
そうした関係性の在る事が確認されるのであれば、

光の移動する速度を超える、 速度で、
そうした情報らが伝わる、 因果系が、
機能し得る形で、 在り得てある事になる。


いずれにせよ、
日本国民たちは、 より早くに、
日本国民たちの足元の地下へ、 避難経路らと、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事により、

英米の、 投資銀行の、
ゴールドマン・サックス系の者らや、
そうした者らを、 幹部らとしてある、
IMF ≒ 国際通貨基金 、 系の者ら、
等の、
カネ貸しらの主張する事らを、 そのまま、
自らも、 主張し、 実行する事において、

日本の、 財務省の役人らと、 与野党の、
主な政治家らや、 報道機関らの者らに、
テレビやラジオへ頻繁に出てくる、
論説員らと、 論弁員らが、

主に、 日本国民たちから、 日本国民たちへ、
カネとして働く、 数値ら、などの、

資本性 ≒ 資本である、 物 、
資本である事 、 資本として働き得る度合い、
や、 それを成し得る存在 、 など 、 ら、 を、
日本政府、 が、 預けて、 役立たせ得る事の、 あり得る度合い、を、 より、 小さくしたり、
小さいままにしたりする事でもある、

日本政府の財政における、 緊縮 、 を、
繰り返し、 成す事を通して、

それらが奉仕すべき、 日本の主権者である、
日本国民たちの一般と全体とへ、

デフレ不況性 、 を、 押し付け続けて来てある、

その、 デフレ不況性、 を、 解消し去ってゆく、
と共に、
日本国民たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
押しつまった状況にも、 ある 】 。


☆ 古い記事の引っ越し保管と改訂など +;


◇ 量子らの 非局在性 成す粒よ

波の振る舞い 成す、 手筈にて・・。



☆ 東京大学 教授の古澤明氏らの研究チームは、
2015年の、 3月24日、に、

約100年前に、 アインシュタイン氏が提唱した、

「 量子 ( 光子 ≒ フォトン )の非局所性 」、 を、 世界で初めて、 厳密に検証した、
と、 発表した。


◇ 量子の、もつれ

≒ 一定の形式で、 発生させられ合った、
量子らが、
ある一定の時間内において、
その働きらを及ぼし合い得ない、
遠い距離を成し合ってある場合に置いても、

その片方のありようが、 観察されて、
判ると、
残りの量子の、 別な在りようが、 定かになる、
という、 事象 。


◇ 光らですら、 どんなに、
加速をさせようとしても、 超えられない、
光速、 を超えて、
相互に、 作用し合う、 力らなり、 働きらなりが、 この事象を成り立たせる訳ではない、
と、 科学者らによって、 主張されており、

アインシュタイン氏の相対性理論らと、
矛盾する規定性を成してある事象ではない、 と、
一定数の科学者らに、 観なされている 。


◇ ・・検証に用いた技術は、

「 新方式の、 超高速量子暗号や、
超高効率量子コンピュータへの応用が、 可能 」
、 ( 古澤氏 ) 、 とする。

なお、 この研究成果は、 英国の科学雑誌の、
「 Nature Communications 」 ;
( 2015年 3月24日 [ 現地時間 ]オンライン版 )
、 に掲載された。


◇ 説得力のある検証をできず、 100年の論争に ;

  ☆ 量子の非局所性とは、

1909年に、
物理学者の、 アルベルト・アインシュタイン
Albert Einstein 氏 が、
量子力学の不可解な例として、 提唱したものだ。


◇ アインシュタイン氏が提唱した、
量子の非局所性の概念
( 東京大学の資料を元に作成 ) ;

 量子である、 光子、が、 小さな穴
( ピン・ホール ) 、 を通過すると、

回折して、 放射状に、 広がる。


これを、 半球面上のスクリーン
( センサー ) 、 で、 検出すると、

スクリーン上、の、 1点 、 でしか、
光子は、 観測されない。


この現象に対して、 アインシュタイン氏は、

「 ピン・ホールで、 回折した光子は、

≒ 粒子としての振る舞いようら、を、
観察させる、 宛 アテ ・ 対象の存在である、
と同時に、

波としての振る舞いようら、も、 観察させる、
宛の存在なので 、

『 空間的に、 均等に、 広がるはず 』 、
であり、

スクリーン上の、 どこにでも、
『 等しい確率で、 現れるはず 』 、 でもある、

が、
1カ所だけで、 検出される場合には、
その他の位置らでは、 検出されないので、


ある場所で、 観測された影響が、
他の、 離れた場所らに及ぶような、
奇妙な相互作用が存在するのではないか 」 、
、 と、 主張した。


この奇妙な相互作用を 、
“ spooky action at a distance ”

( 離れた場所らの間で起こる、
奇妙な相互作用、 超常的遠隔相互作用 ) 、
と、 呼び、

現在では、 「 量子の非局所性 」 、
と、 呼ばれている。


  ◇ この、 量子の非局所性は、

多くの人らには、理解しがたい現象であるために、
より、 厳密な検証が求められるが、
十分な説得力を持つ検証が、 できず、
「 物理学の百年論争 」 、 とも呼ばれる、
非局所性の存在 / 解釈を巡る、
論争が行われてきた。


 十分な説得力を持つ検証が難しい要因としては、

光子を検出する効率が悪い、 などの、 理由から、
「 測定の抜け穴 」 、 と、 呼ばれる、
制約が生じることや、

さらに、 光子の有無しか、 観測をできず、

「 観測された影響が、
他の離れた場所らに及ぶ作用 」 、 ら、
の、 在りようらを、
厳密に、検証できなかったことが、 挙げられる 。



☆ 量子らの もつれが知らす 時空間

隔つ相手の 逆の合いの手・・。



☆ 日本内外史略 ;

ムハンマド氏は、 可哀想な子供で、
父親は、 彼の生まれる前に死に、
母親も、生まれて、 数か月後に、
死んでしまったから、
お爺さんと叔父さんに育てられた。

青年になった、 ムハンマド氏は、
ハディージャさん、という、
女性商人に仕える事になり、
真面目で、 顔も、性格も、 良かったので、
ハディージャ女史に、 ひどく気に入られ、
婿に成った。

ムハンマド氏は、 25歳で、
ハディージャ女史は、40歳位だった。


その頃の日本では、
飛鳥 アスカ 、 時代の政治家で、
用明 ヨウメイ 、 天皇の皇子であり、
その母が、
宮中の馬小屋の前に来た時に、 生まれた、
事 、 に因んで、
廐戸皇子 ( うまやど・の・おうじ ) 、
と、呼ばれる事に成った、 と、伝えられる、
聖徳太子が、

摂取として、 594年 、 には、
陛下に、 仏教興隆の詔 ミコトノリ
≒ 御言告 ミコトノリ 、 を出して頂き、

四天王寺や、 法隆寺を建てる一方で、
経典らを研究し、
「 三経義疏 ( さんぎょうぎしょ 」 、
という、 注釈書をあらわしたりして、
仏教を奨励する政策事項らなどを成して行った、結果において、
都のあった、 飛鳥地方
( 奈良盆地の南部 )、 を中心にして、
仏教文化が栄えつつあった。


ただし、 仏教の思想事らは、
その何百年も前から、 日本の所々の人々へ、
伝わり得ていたらしくもある 。


・・ムハンマド氏は、 ハディージャ夫人を、
とても、 大切にし、
結婚生活が、15年目を経て、 40歳を迎えた、 ムハンマド氏は、
人生の意味などについて、
色々と、悩みを生じたらしく、
メッカの近くの、 岩山の洞窟で、
瞑想にふけることが、 多くなった。

そんな、 610年頃の、ある日に、
彼は、 『 読め! 』、 という、
叫び声を聞いて、 目を上げた。

すると、 地平線上に、
巨大な、巨大な人影が立っている。

東西南北、どの方向にも、
巨大な人影が立っている。

巨大な人影は、
「 天使 ジブリール 」 ( ガブリエル ) 、
と、 名乗り、

『 神のお告げを読め! 』 、 と、 命ずる。

ムハンマド氏は、 慌てて、家へ跳んで帰り、
ハディージャ夫人 ( 65 ) 、 へ、
異変を告げた。

より、信不信性を脱却して、平和らを成すべくも在り得る、 観念らへの解枠性 。 日本内外史略

2017-10-28 11:54:09 | 政治・経済
【 何彼を、 信じるとか、 信じない、
とかいう、
いずれにしても、 不信性の度合いを成す、
観念的な行為を成して、
その結果の状態を保ってゆく事において、

信不信性の度合いを成す事、 それ自体が、

信仰の宛 アテ の違いによる、
競争的な対立性らを、 機械的にも、 自動的にも、 その主らの互いに影響し合える世界らでは、
その主らにおいて、
わき起こらせる、 規定性を成してしまう事であり、

信仰する宛の違う主らにおいて、
より、 平和な社会状況らを成し、
増してゆく上での、
限界を設 モウ け合わせてしまう、
要因として作用し続けるものを成してしまう事を、
意味する。


観念らの成り合う、 動的な枠組みらを、
能 ヨ く、 思い分けて観てゆく事を通して、

その、 信不信性などをも成す、
その枠組みらの、 機械的で、 自動的な、
働きようら等を解いてゆく事においても、
信不信性を、 より能く、 脱却する事は、

可能的な戦争行為らの実現する方向へ、
圧力をかけ続ける規定性を成してあるものを、
より能く、 脱却する事であり、

信不信性の宛らの違いによる、
より、 平和な社会状況らの構築への、
余計な制約を解消し去る事によって、
信不信性の主ら自らの精神系らにおける、
可能的な平和性の度合を直に高め得る事でもあり、


日本国民らの一般の側に立って、
より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、
避難経路らと、 住める避難所とを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事においても、

英米のカネ貸しらの側に立ってある実態らを、
積み重ねて観せて来てある、
日本の、 財務省の役人らと、
与野党の主な政治家らとにより、

日本の中央政府の財政における、 緊縮 、
を通して、

彼らへの主 アルジ 、 の、 立場にある、
日本国民らへ、 押し付け続けられて来てある、

あり得る、 物価と、
それ以上に、 その、 あり得る、 労働らへの賃金らの、 度合いを、 より、 引き下げる方向へ、
圧力が掛かってある、
社会の全体な状況でもある、 デフレ不況性 、 を、 解消し去ってもゆく方の、
日本国民たちが、

日本国民たちを、 海外の、 信不信性の奴僕
ヌボク でもある、 主らにおいて、
より、 共通の標的に設定させるべくして、
設定させる、
その大本の信不信性や、
その宛らの属性らの成す、 規定性ら等によって、
機械的にも、 自動的にも、
日本国民らを、 より、 彼らの共通の、
集 タカ りなどの標的に仕立て上げ合う方向へ、掛かる圧力を、 より能く、 減らし得て、
日本の内外に、 より、 平和な社会状況らを構築し得てゆく事にも、 欠かし得ない事だ 】 。


【 企業留保として、 日本の、 企業らが、
それらへの従業員でもあり、
日本の主権者でもある、 日本国民たちへ、
渡し得る、 カネとして働く、 数値らなり、
そうした数値らを帯びてある、 金属片らなり、
紙切れらなり、 を、
企業らの側に、 ため込んで、
設備らを、 あらためたり、 増やしたりして、
余計に、 日本国民たちを雇い入れる、
事をせずにいる分だけ、

日本国民たちの、 売る事らや、 売る物らを、
日本国民たちが、 買う 、 内需 、 の、 度合いを、 より、 余計に成す、 在り得る度合いと、

買い物らに使わない、 カネとしての数値らを、
貯めて置いて、
未来において、 買い物をする事への元手とする、
貯蓄 、 を、 増やし得る、
あり得る度合いと、 が、
より、 削り減らされて、 小さくされる事になるが、

経済系において、 2つしかない部門である、
政府部門 、 と、 民間部門 、 とにおける、
その、 民間部門 、 において、

日本国民たちの生産し、 供給する ≒
売る 、 サービスらや、 物ら、 を、
買う事により、
日本国民たちへ、 より、 余計に、
所得金額らを付け加える事における、
あり得る度合いが、 それだけ、 削り減らされ、

それだけ、 物価や、 給料などの、
労働らへの賃金ら、 の、
あり得る度合いを削り減らす、

『 デフレ不況性 』 、 の、 度合い、が、
あり得てある、
これまでの、 日本の社会の全体な状況にあっては、

残りの唯一の部門である、
『 政府部門 』 、 だけが、
公共事業らを成す事により、

それへの主 アルジ の立場にある、
日本国民たちへ、 直に、 より、 余計に、
収益である金額らや、 所得である金額らを、
付け加える 、 と、 共に、

日本の社会の全体における、
一定金額以上の収益や所得の付く、 仕事らの総量
≒ 投資機会らの総量 、 を、
日本政府が、 直に、 増やしてゆく 、
事を通して、

雇い手たちの側において、

自らへ収益を与える為に、
より、 少ない立場にされてゆく、
あり得る、 労働らを得るがために、
賃金らを上げ合う、 競争性を成す、 度合いが、
増してゆくようにもする事において、

日本国民たちへの賃金らの水準を、 より、
直に、 押し上げてゆく事ができる立場にある。


中央銀行である、 日本銀行には、

その、 金融政策らを成し行う事において、
大量に、 カネとして働く数値らを、
日本の社会の内外の主らへ、 渡し得るようにし、 金利を安くして、
企業らなどが、 人を雇い増す事にもなる、
設備投資などをする為に、
一般の銀行らから、
カネとしての数値らを借り易い状況を作り出す事は、 できる、 が、

中央政府である、 日本政府のように、
その財政政策において、
その公共事業らを成す事により、
直に、 日本国民たちへの、 一定金額以上の、
収益や、所得の付く、 仕事らの総量を、
増やしてやる事は、 できない。


この事は、 中央銀行による金融政策らと、
中央政府による財政政策らとにおける、
決定的な違い、 でもある。


日本の主権者として、 自らへの奉仕を成し、
自らの、 あり得る福利らを、 より能 ヨ く、
実現させる為だけに、
日本国民たちの一般と全体とが、
雇ってある、 立場にある、
公共の機関らと、 それを運営する役の者ら、
とに対しては、

日本国民たちは、 日本の主権者として、
互いの一般の為にも、
そうした者らを監督し、 そうした義務である事らを、 より能く、 成し行わせるべき立場にある。


日本の憲法の規定事らに照らして、
それらに違反してある、
役人らや、 政治家ら等を、 裁きに掛け、
その義務な事らについての、
怠 オコタ りようら等をただし、
それらの任に当たる者らを入れ替えてゆく 、
事によっても、

日本国民たちは、 より早くに、
日本国民たちの足元の地下へ、 より、 安全に、
直ちに、 降りてゆける、 避難経路らと、
より、 快適に住める避難所らとを、
作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事により、

英米のカネ貸しらの主張する事らを、 そのまま、
自らもまた、 オウム返しにして、 主張し、
実行もする事において、

日本の、 財務省の役人らと、
経済政策への参考にする体 テイ 、 で、
フランスの銀行家の、 ジャック・アタリ氏と、
会談して観せもした、 菅直人氏のような、
与野党の、 主な政治家らとが、

日本政府の財政における、
カネとして働く数値らの出し入れの、
あり得る度合いを小さくしたり、
小さいままにしたりする事でもある、

日本政府の財政における、 緊縮 、 を、
繰り返し、 成す事を通して、

日本国民たちへ押し付け続けて来てある、
デフレ不況性 、 を、 解消し去ってゆくと共に、

日本国民たちの防衛性の度合いを、
飛躍的に高めてゆくべき、 状況にある 】 。


☆ 日本内外史略 ;

ササン朝ペルシアは、
アラビア半島の南東部の、 オマーンに侵攻し、
アラビア半島の南端の西部の、
イエメンにあった、 小国らを従属させて、
東ローマと東洋とを結ぶ、
紅海の航路を遮断しようとした。

それに対して、 東ローマ帝国は、
アフリカ大陸の東海岸と、 それの向こうの、
アラビア半島の南西部へ、 海を挟んで、
面している、 エチオピアを煽って、
アラビア半島へ攻め込ませた。


すでに、 キリスト教国であり、
アフリカ大陸の東南の部分を占めていた、
エチオピア 、の、 将軍の、 アブラハ氏は、
海を越えて、 イエメンへ渡り、 そこから、
アラビア半島の西岸沿いの地域を攻め上ったが、

メッカまで来た時に、 突然に、 疫病が流行って、 兵士らが、 バタバタ倒れたので、 退却した。


メッカの人々は、 アブラハ氏の軍が、
見た事のない巨大な動物の、 象らを連れている、
在り様を見て、驚いた。

それで、 アブラハ氏がやって来た年は、
「 象の年 」 、 として、 語り伝えられた。

この年に、 メッカの商人で、
クライシュ族のアブドゥッラー氏の子として、
ムハンマド氏が生まれた。

西暦570年の事と言われている。


日本では、 聖徳太子
( 574年 ~ 622年 ) 、 が、
574年に、生まれており、
622年に、 死ぬまでの間に、

593年には、 20歳で、 そのおばの、
推古 ( すいこ ) 天皇 への摂政
( せっしょう。 天皇の代理 ) 、 となり、

大臣 ( おおおみ ) 、 の 、 蘇我馬子
( そが・の・うまこ ) 、 氏、 と、
協調しながら、 政治を行い、
豪族らの争いをやめさせて、
天皇を中心する、 強力な国家を作る、
方向性を示す事にもなる、 冠位十二階
( かんい・じゅうにかい ) を、
603年 、に、 定めて、
有能な人たちを、 役人に登用したり、 :

604年 、 には、
『 十七条の憲法 』 、 を表して、

豪族員らや、 役人らへ、 彼らが、
自らに成すべき、 国家にとって望ましい、
心構えを説いたりし、

607年 、 には、
小野妹子 ( おの・の・いもこ ) 、 氏らを、
遣隋使として、 シナの隋帝国へ遣 ツカ わし、

その時の、 隋 ( ずい ) 、 の、
第2代の皇帝である、 煬帝 ヨウダイ 、 への、 公式の文 フミ に、

『 日出 ヒイズ る処 トコロ の天子、
書を、 日没する処の天子へ、致す 。
恙無 ツツガナ しや 』 、 などと、 記して、

天下に、 天帝への子分である、 天子 、 は、
独りしかいないはずである、 とする、
中華思想の主 ヌシ であった、 煬帝をして、
甚 ハナハ だしく、 怒らせしめたものの、

隋帝国と、 対等の国交を開き、
大陸の文化や制度を移入し、
仏教の体系知らの所々が、
日本の人々の心得る所と成ってゆこうか、
という 、 時代であった。


『 恙無しや 』 、 というのは、
恙虫、 という、 ものによって、
特定の病を引き起こされる、 という、 認識が、
当時の日本の人々には、 あったらしく、
病まずに、 元気で居ますか、 といった、
意味の、 呼び掛けの言葉であるらしい。