夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒・・

観念らの規定性らによる、事象らの成り立ちようらへの解枠にも絡めて、 天下経済系の可能的な成長の度合を増すべき事らを述べる

記号勝ちな、パース氏像 ; 日本内外史略 ➕

2017-10-30 17:16:09 | 政治・経済
【 社会の主権者たちの一般と全体とに、
在るべき、 在り得る、 福利らを、 阻害する形で、
みたされて、 善いのは、

一定度合い以上の、 反社会的ではない方の、
倫理的な欲求性ら、 であり、

特定の異性同士などが、 他の異性らへ、
性的な交渉性などを与えない、 などの事が、
そうした事に、 含まれ得る。


が、 そうした、 一定度合い以上の、
部族や宗派などの枠組みを越えて、
ヒト、 という者の一般を、
目的対象とし得てもある、
価値序列の観念の体系に基づく、
倫理的な欲求性 、 ではない、

反社会的な、部族倫理的な欲求性らなどの、
部族や宗派などの枠組みを越えた、
人々の一般の精神性による物事らへの、
認知的な共感性に基づく所の、 より、 無い、
欲求性らをみたしたり、 みたさせたりする為に、

社会の人々の一般や全体に、 在るべき、
在り得る、 福利性のある物事らを阻害する、
行為らや、
それらの可能態らの系を自らに構築して、
成り立つ、 観念らに基づいて、 それらが、
成り現される事らに対して、

それらを阻害する代わりに、
社会の人々の一般と全体とに、 在るべき、
在り得る、 福利らを、 より能 ヨ く、
成し得る様にする行為らの中に、
警察行為らや、
より、 平和な社会状況らを成す行為ら等がある。


日本国民たちの一般の側に立つ方の、
日本国民らは、
より早くに、 日本国民たちの足元の地下へ、
避難経路らと、 住める避難所らとを、
作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事において、

英米のカネ貸しらの側に立って来てある、
日本の、 財務省の役人らと、
与野党の主な政治家らから、
日本の中央政府の財政における、 緊縮 、
を、 繰り返す事を通して、

日本国民らへ、押し付け続けられて来てある、
デフレ不況性、を、 解消し去ってもゆくに当たり、

より、 平和な社会状況らを成す為にも、

日本の内外の社会らの主権者たちの一般と全体とに、 在るべき、
在り得る、 福利性のある物事らを阻害して、

英米の富裕権力層の者らへ、 最も大きな割合で、
不当に、 利益性なり、利権性なりを、
付け加え続けて来てある、
日本側の賊員らへ対する、
警察行為らを成したり、
成さしめたりすべき、 筋合いにもある 】 。


☆ パース氏、の、 偶然主義
( tychism ) 、 については、

「 モニスト形而上学シリーズ 」、 の、
第二論文の、
「 必然性の教説再考 」 、 に、 詳しい。

そこで、 彼は、 「 必然主義 」
( necessitarianism ) 、 の立場を、
次のように、 定義している :

[ 必然主義の命題は ] 、

ある時点において、 存在する、
物事の状態、 と、
一定の不変な法則とを合わせれば、
他の、 あらゆる時点における、
物事の状態が、 完全に決定される、
という、 命題である

( というのも、 未来の時点だけに、
限定する事は、 擁護が、 不可能だから ) 。


偶然主義は、 必然主義への否定である。

つまり、 自然法則の支配は、
絶対的ではなく、
規則性からの、 何らかの逸脱が、
常に存在する、 という、 立場である。


その論拠として、 パース氏は、
以下の五点を挙げている :

機械的必然性は、 自然において、 観察される、
物事の成長や複雑性の増大を説明できない。

法則からの無限小の逸脱を仮定する事によって、
宇宙の多様性を説明できる。

必然主義者は、 規則性が存在する、 という、
一般的な事実を説明できないが、

偶然主義者は、 規則性そのものを、
純粋偶然に起源を持ち、
徐々に進化してきたものとして、 説明できる。


必然主義者は、 自然法則が存在する、
という、 事実を、 それ以上に、 説明できない、
絶対的な所与として扱うが、
これは、 探究の道を塞 フサ ぐ、 仮説である。


必然主義は、 意識を一種の幻想にしてしまう。

純粋偶然の仮説から演繹される、
帰結の事柄が、
観察されている事実らと合致する

( この点に関する、 詳しい説明は、
「 必然性の教説再考 」 、 には、 ない )。



「 連続主義 」 ( synechism ) 、 は、
パース氏が、 ギリシア語の、 συνεχής
( シュネケース : 「 連続的 ) 、
から、 案出した造語である。

彼自身の説明によれば、 連続主義は、

何らかの、 絶対的な、 形而上学
≒ メタ・フィジクス ≒
超物理学 、 超自然学 、 的な、
教説 、 というよりは、

我々が、 いかなる仮説を編み出し、
検討すべきかを規定する、
論理学の規範原理である。

平たく言えば、 連続主義は、
あらゆる物事に、 連続性を見出していこう、
という、 考え方である。

ここで、 「 連続性 」 、 という、 概念を、
どう理解するかが、 問題であるが、
パース氏自身が、 生涯を通して、
数学における連続性の概念について、
思索を深めていった経緯があり、
一つの固定的な捉え方があるわけでは、 ない。

「 真の連続体 」 ( true continuum ) 、
は、 いくら、 無限に、 要素があろうと、
単なる集合に還元することは、 できない、
という。


☆ 日本内外史略 十 ;

645年、 の、 大化の改新、 の、
前の年の、
644年 、に、 ウマル氏は、
メッカで、 死に、

次の第3代目のカリフになったのは、
ウスマーン氏、という、老人だった。

ウスマーン氏は、 信仰心が深かったが、
リーダーシップ ≒ 主導性 、 を成す、
類ではなかったので、
何も知らない、 能天気な、 カリフのお膝元では、 汚職が横行し、 政治が混乱し始めた。

不満を持った兵が、
カリフのウスマーン氏を襲って、 殺した。

イスラームの歴史上で、初めて、
信者らが、 カリフを殺した事件だった。

ウスマーン氏への殺害者らは、
メッカに残っていた有力者らの中で、
一番に、 筋目の正しい、アリー氏を、
次の第4代目のカリフへ担ぎ出した。

イスラムでは、
神からのお告げ事らを預かり広めた、
最後の預言者とされる、 ムハンマド氏の、
従兄弟であると共に、娘婿でもあり、
世界で、2番目に、イスラームの信者になった、例の豪傑だ。

シリアを支配していた、 ムハンマド氏の、
親類の部族の人で、
ムアーウィヤ氏 、 という、 総督が、
これに反対する。

「 カリフを殺した連中が擁立したカリフなぞは、
認められん。 俺は、忠誠の誓いを拒む 」 。


「 第一次内乱 」 、と、言われる、
内部紛争が始まった。

アリー氏は、 今や、前線から遠く離れた、
メッカを離れ、 イラクに拠点を移し、
そこで、 6万人もの兵らを集めて、
シリアの総督の、ムアーウィヤ氏へ、戦いを挑む。

戦いは、 アリー氏へ優位に展開したが、
突然に、 ムアーウィヤ軍の兵らが、
槍の穂先に、 聖典の、 コーランを結び付けて、
振りかざした。

「 お前たち、 アッラーのお言葉らが書かれた、
聖典に、武器を向けるのか、 地獄へ行くのか 」
、 という訳で、
なし崩しに、 停戦に追い込まれた、
アリー氏側であった。

その停戦に、 憤慨して出ていった過激派の者らは、
「 あんな無能が、 諸悪の根源 」 、 と、
逆切れし、
661年に、 礼拝中の、 アリー氏を襲って、
滅多切りにして、 数日後に、 死なしめ、
シリア総督の、 ムアーウィヤ氏への、
暗殺も計画したが、 こちらは、 失敗した。


この、 シリア総督により、
ウマイヤ朝が建てられる、 661年、の、
前後の、 日本では、

645年、に、 中大兄皇子が、
帝の位につく事をせずに、 大和朝廷における、
政務を執り行う中で、
孝徳天皇 ( こうとくてんのう ) 、
が、 難波宮 ( なにわのみや ) 、で、 没し、

655年に、 皇極天皇であった、
斉明天皇 ( さいめいてんのう )
、 が、 即位した。 ( 皇極天皇の重祚 )

658年に、 阿部比羅夫
( あべ の ひらふ ) 、氏、と、
齶田 ( あぎた ) ・渟代 ( ぬしろ ) 、 氏、
をして、 大和朝廷が、 蝦夷を討たせた。

660年に、 阿部比羅夫氏、が、
将軍として、 粛慎 ( しゅくしん ) 、を、
討った。

半島の南西部を占めていた、 百済、の、
その、 武将の、 鬼室福信 ( きしつ ふくしん )
、 氏が、 大和朝廷へ、 救援を要請し、

661年 、に、
斉明天皇が、 百済への救援への途中で、
朝倉宮で、 没した。

この年 ( 辛酉 ) 、 斉明天皇の7年 、
における、 事として、

1月6日に、  斉明天皇らが、 征西へ出発し、
1月8日に、  斉明帝らが、 大伯海に到着し、

1月14日に、  斉明天皇らが、
熟田津の石湯行宮に到着し、
1月25日に、  遣唐使が、 越州に到着し、
3月25日に、 帝らが、
那大津の磐瀬行宮に到着し、
4月1日に、  遣唐使が、 越州を出発し、
4月9日に、  遣唐使が、 耽羅 、 という、
任那半島の南にある、 済州島へ到着した。

5月9日に、 帝が、 朝倉橘広庭宮に遷った。

5月23日に、  耽羅が、 大和朝廷側へ、
王子を遣わした。

7月24日に、  斉明帝が、死去した。

9月に、  百済王子、の、 余豊璋氏を、
大和朝廷が、 任那半島に送った。

11月7日に、  斉明天皇の遺体を、飛鳥に移し、
殯 モガリ 、 を行なった。


◇ 中大兄皇子、が、 帝の位につかずに、
大和朝廷の政治を執り行う事である、
『 称制 』 、 を、 成し始め、

663年に、 日本と百済軍、が、
新羅と、唐帝国軍に、
白村江 ハクスキのエ 、 の戦い、で、敗れ、

664年、に、 冠位二十六階に改制し、
氏上、民部、家部を定める、
甲子の宣、 かっしのせん 、 を、 成し、

唐帝国の軍勢が、 日本へ攻め寄せる事が、
考えられたので、

対馬と、 壱岐、や、 筑紫などに、
防人 ( さきもり ) 、 と、 烽 ( とぶひ )
、 らを置き、 筑紫に、 水域を建造した 。

記号勝ちな、パース氏像 ; 日本内外史略 9 。 日本国民の数千人以上を、すでに、監禁してある、シナ

2017-10-30 15:36:29 | 政治・経済
【 分割され得る、 観念系らにおける、
より、 内因性らによる、『 観念な、 運動ら 』 、
である、 『 運動の相ら 』 、も、

分割され得ない、ものとしての、 規定性を、
観念で、 負わされる、 宛 アテ の、
観念系らへ対する、 より、
外因性らのみによる、 『 運動ら 』、
も、
どちらも、 観念にされて、
我々の各々の精神系に形作られるものら、
である事に、 変わりは、 無い、
その、 宛の相手なり、 それそのものなりである、
にも関わらずに、

そうした、 規定性らの違いにより、
区別され得るものら、でも、 あり、


実際に、 より、 外因性らのみによる、
運動らの各々が、
その運動としての、 初めから、
終わりに至るまでの間に、 分割され得ない、
一連なりのものとしての、
規定性を成して在るものである事を、
指摘されて、 その通りに、
観念できない、 観念の主らは、 居ない。


その様にもある一方で、

より、 内因性らのみによる、 規定性らの、
観念な、 運動らは、 観念らの成り立つ、
我々の各々の精神系において、
分割して観られ得る、 ので、

運動らの各々の相である、
より、 内因性らのみによる、 規定性らの、
運動らの各々の方は、
分割され得る、 ものとしての、
規定性を成してあり、

それゆえに、
エレアのゼノン氏の論説ら等における、
一瞬ごとの、
時としての、 間 マ 、 が、 限り無く、
短い 、 その一瞬ごとの、 止まってある状態に、
限り無く近い、 運動なるもの、 に、
仕立てて、 観られる、

分割され得てある、 運動なる、ものら、の、
各々であるもの、
を、 観念できる主らでもある人々は、 観念し、

『 分割され得ない 』 、
より、 内因性らの規定性らによらずに、
実在するものとしての規定性を成して在る、
『 外因性による、 運動ら 』 とは、 異なる、

観念な運動らの各々、であり、 運動の相らの各々、である、
そうしたものら、 を、

より、 内因性らの規定性らによらずに、
実在するものとしての規定性を、
外因性らからも、 観念らからも、
負わされてある、
より、 外因性らの規定性らのままにある、
運動ら、 などの、 観念性の、ものら、 と、
より、 同じく、 思い扱って観てしまいもする、
混同型の、 誤りを犯す事が、できもする。


個人経済系の主としての観念事項らの規定性らが、
個人経済系の主らが、 共同して、 成し合う、
国民経済系の主として、成すべき、 成し得る、
観念事らの規定性らと、 異なり合う様らを、
その主らが、 思い分けて観難い、 事情らは、

『 分割され得る 』 、 運動の相らなり、
観念な運動らなり、 と、
『 分割され得ない 』 、
実在としての規定性を、 観念で帯びさせられる、 実在格の、 運動ら、 とを、
観念できる主らである、人々が、
混同視し得る、 事情らとは、 異なるが、


観念らの、 絡み合い、 重なり合い、
浸透し合って在る、 状況らが、
成し合ってしまう、 規定性らが、
その理解を妨げる作用らを成して、

それを、 宛居 アテイ ・ 対象とする、
より、 体系的な認識の系が構築される、
事、の、 度合いを害 ソコナ う、
邪魔立てをしてある事には、 変わりが、 無い。


より、 国民経済系の維持と拡充とを成して、
それを共同で成し合う、
主権者らの一般と全体に、 あるべき、
在り得る、 福利らを成し、 増す事への、
適合性の度合いの高い、 体系知らを、
観念の主である人々が、 心構え得てゆく、
段階らにおいては、

無意識の内にも、 それへの妨げを成す、
観念らの規定性らが、 より、 無効にされ、

その、在り得る、働きらを、
解消され得てゆく、 度合いも成される事になる。


個人経済系の主としての観念事らに、
より、 適合する、 主張事らを、 言葉にし、
実行して来てある、
実質的な、 英米のカネ貸し員である、
日本の内側の賊員らをして、

日本の一般社会らにおいて、
実質的な、 反日行為ら ≒

日本の主権者である、 日本国民らの一般と全体に、 在るべき、 在り得る、 福利らを、
未然にして、 阻害する行為ら 、を、

成し得る度合いを、
より、 少なくしてゆくと共に、

日本国民らの一般の側に立つ事を、
思い選び得る方の、 日本国民らが、
より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、
避難経路らと住める避難所らとを、
作り拡げてゆく、公共事業らを、
本格的に成し行い得る、
まともな、日本政府を成して、
英米の富裕権力層員らを、
自らへの、 最大手の投資主としてある、
日本の内外の、金融員らによって、
日本国民らへ、押し付けられ続けて来てある、
デフレ不況性をも解消し得てゆく事においても、
個人経済系の主としての、
観念らの規定性らによる、
その事への阻害性の度合いは、
消し去られてゆくべき、 筋合いにある 】 。


☆ チャールズ・サンダース・パース
( 英: Charles Sanders Peirce 氏、
1839年9月10日 - 1914年4月19日 、 は、

アメリカ合衆国の、 哲学者、論理学者、数学者、
科学者であり、
プラグマティズムの創始者として、 知られる。

マサチューセッツ州は、 ケンブリッジの生まれ。

パース氏は、 化学者としての教育を受け、
米国沿岸測量局に、 約三十年間を、
科学者として、 雇われていた。

パース氏は、 論理学を、 記号論
( semiotics ) 、 の、 一分野、 と、みなした。

明治元年から、 18年を経る辺りの、
1886年 、 に、
彼は、 論理演算が、 電気的に
( 電気回路によって ) 、 実行されうる、
と、 考えたが、
これは、 こんにちの、コンピュータに代表される、 ディジタル回路と呼ばれる、
電子回路の応用そのものと言える、 発想であり、

半世紀後の、 日本の、 中嶋章氏や、
米国の、 クロード・シャノン氏による研究らを、
予めていたもの、と、 見ることができる。

清教徒の移民であった、 ジョン・パース氏の子孫であり、 当時は、 アメリカで、 最大の数学者、 と、見なされた、 ハーバード大学の数学教授の、
ベンジャミン・パース氏の次男として生まれる。

早くから、 父に、 才能を見いだされ、
特別の教育を受ける。

なぞなぞ、と、 トランプの手品に、 チェスや、
暗号を好み、
日本では、 坂本龍馬氏らが、 連携して、
明治維新への流れらを強め合っていた頃の、

1862年、 に、
バチェラー・オブ・アーツ、
1863年、 には、
マスター・オブ・アーツの学位を、
ハーバード大学から、 それぞれを、
抜群の成績で、 授与され、
明治元年の翌年の、
1869年 〜 70年度には、
エマスン、キャボット、フィスク氏などの、
年長者らとならんで、
ハーバード大学の哲学講演に参加した。


1859年、 に、
アメリカ沿岸測量局に就職したのを皮切りに、
1891年まで、 断続的に、
測量の仕事を続けた。

イタリア、や、 日本が、
国家を再統一した辺りの、
1869年から、 1875年まで、
ハーバード大学の天文台の助手として、
測光に従事した。

光の波長を、 測量の規準単位として用いる、
やり方は、 パース氏が始めたものだ。

1875年に、 アメリカの最初の代表として、
国際測地学協会に出席し、
振り子による実験が、 精密ではないことを指摘し、 各国の学者らに注目されている。

明治元年の前年の、 1867年、 の、
アメリカ芸術科学アカデミーで、
パース氏は、 すでに、 1847年に、
ブール氏が発表していた、
『 論理の数学的分析 』 、 の重要性を指摘し、 その体系に、 改良を加えた。

1888年に、
グロバー・クリーブランド大統領は、
彼を、 分析委員会 ( Assay Commission ) 、
の、 面葉 ≒ メンバー 、 に任命した。


1890年以降は、 シカゴの、
Francis C. Russell 判事が、
パース氏の友、 かつ、 崇拝者となり、

Russell 氏は、 パース氏を、
Paul Carus 氏と、 Edward Hegeler 氏に紹介した。

彼らは、 それぞれ、
アメリカの草分け的な哲学雑誌の、
「 モニスト 」 ( The Monist ) 、 の、
編集長と、 オーナーであり、
この雑誌は、 最終的に、 パース氏が執筆した、
14本の論文を公表した。

1860年には、 無限数の基数演算を提案した。

これは、 ゲオルク・カントール氏、の、
超限数の研究の前であり

( カントール氏が、 博士論文を完成させたのは、 明治元年の前年の、 1867年 ) 、

ベルナルト・ボルツァーノ氏の、
『 無限の逆説 』
( Paradoxien des Unendlichen ;
1851 ) 、 への握接 アクセツ
≒ アクセス 、 が、 無い、 状態で、
書かれている。

1880年 ~ 81年には、
否定論理和の、 functional completeness
( en: Functional completeness ) 、
を、 示した。

81年の、 『 数の論理について 』 、で、
パース氏は、 自然数算術の公理化を提示した。

これは、 デデキント氏とペアノ氏による、
公理化の、 数年前の事だ。

この、 同じ論文において、
彼は、 デデキント氏よりも前に、
今日で言う、 デデキント有限性に相当する、
有限集合への定義を、 初めて与えている。

これは、
「 その真部分集合との間に、
単射対応が在る、 集合 」 、 という、
無限集合の重要な形式的定義
( デデキント無限 ) 、 を含意している。

85年の、 「 論理代数について 」 、 で、
彼は、 一階の量化と、二階の量化を、 区別した。


1890年代の後半までには、
述語論理の図表的記法である、
存在グラフを開発していた。

大カントの、 『 純粋理性批判 』、 を、
毎日に、 二時間ずつを、 三年以上も、
読んだ結果において、 その、 ほとんどを、
完全に暗記した。



☆ 日本内外史略 09 ;

蘇我入鹿が暗殺された、 乙巳の変
≒ 645年 、までの頃 ;

ネット記事+論評群 :

・・エジプトへ向けて進軍を始めた、
アムル氏の許に、 ある夜、
カリフからの密使がやってきた。

アムル将軍は、 密使から渡された、
ウマル氏の命令書を凝視した。
彼の中で、何かの直感が働いた。

彼は、 命令書の封を開けずに、そのまま、
進軍を続け、 翌る日には、
エジプトの国境を越えた。

その夜に、 彼が、
ウマル氏からの命令書を開封すると、
こう、 書いてあった。

「 もし、 あなたが、 エジプトへ入る前に、
この手紙を開封したのならば、
直ちに、 引き返しなさい。

エジプトに入った後に、 開封したのならば、
後は、 アッラーに、 命運を任せよ 」。

彼は、 アッラーに命運を任せ、
東ローマ帝国の守備隊を追い払って、
エジプトを征服した。

エジプトは、大穀倉地域なので、
穀物の大半を失った、東ローマ帝国では、
パンなどの値段が、急に高まった事だろう。


振り返ると、 632年に、
預言者のムハンマド氏が死んだ。

【 日本では、 この、10年前の、
622年、 に、 聖徳太子が、 死んでおり、
その前に、
607 無礼な 、 隋帝国へ対して、
607年 、 に、
第二次の遣隋使があり、
法隆寺の建立 コンリュウ 、 があった 】 。


◇ イスラム勢 ;

635年 : シリアのダマスカスを占領 。

636年 : ヤルムークの戦い
( シリアを征服 ) 。

637年 : ササン朝ペルシャ、の、
クテシフォンを占領 。

639年 : エジプトへ侵攻 。

642年 : ニハーヴァンドの戦い
( ササン朝ペルシアが、 崩壊 ) 。


【 日本では、 有力な天皇候補だった、
聖徳太子の息子の、 山背大兄王を始めとする、
聖徳太子の子孫員らが、
蘇我入鹿により、 643年に、
自害へ追い込まれて、 滅ぼされ、

その、 蘇我入鹿が、 645年に、
中大兄皇子と中臣鎌足氏らにより、
暗殺される、 『 乙巳の変 』、 があり、
年号が、 大化 、 と、された 】 。



パース氏による記述らしい物らから観て取られ得る、記号勝ちな、パース氏像 ; 日本内外史略 08

2017-10-30 13:39:26 | 政治・経済
【 観念に、無いものとして、
観念の宛居 アテイ ・ 対象にされる形で、
観念らに、 在るものらからも、
観念らは、 成り立ってあり、

触れ触り感らや、 圧し応え感ら等の、
記憶化されてある、 ものらが、
より、 生々しい感らとして、
喚起されて、
それらを観る主に、現前させられ得る度合いの、 より、 高いものらは、
実際には、 観念に、 在り続けてあるものらである
、 にも関わらずに、

観念らの成り立ってある場には、 無い 、
実在のものらである、 と、
より、 観念され易い、
在り得る度合いをも、 持ち合わせている。


観念らの成り立ってある場に、 無く 、
実在のものらとして、 在る、 と、
観念されてある宛 アテ 、 の、 ものらは、
能 ヨ く 、 思い分けて観てゆくと、

それを観念している主らの各々の、
色々な感らと、
それらの記憶化された、 ものら、 からも、
成っていたり、
それらの宛居として、 規定され、
格付けて観られ、
それらを喚起し得る、
要因として働き得る存在として、
観られもしている、 度合を、 それだけ、
より、 余計に、 持ち合わせられていて、

時系列の観念や、 因果律の観念らなどの、
様々な観念らの絡み合いのもとで、
それらを構成する、
ものや、事らの、 宛として在るものとして、
機能する様に、
観念らの成り合ってある、
我々の各々の精神系において、 設定されてあるが、

特に、 因果律の観念の成り立つ働きによって、
何事かでもある、 何ものか、 が、
成り立って、 観えてあったり、
感じられてもあったりする、 場達において、
因の働きを成してあるものとして、

より、 我々の各々の直感性の宛として、
在る度合いを成してあるものらが、
より、 実在性の度合いを成してある、
もの、の、 そのものらとして、 観念され易い、
在り得る度合いを、
様々に観念してある主らによって、 与えられ、
帯びさせられてある。


それらは、 大カントの説く、 ものそのもの、
とは、 全く、 異なる、
我々の各々の精神系を構成する、
可能態や、 現前態の、 物事らでしかないが、

我々の各々の精神系を構成し、
そこで、 起こり廃りをする、
可能態や、 現前態の、 物事らは、

因果律の観念の成り立ちようら等において、

我々の各々の精神系の、 範囲には、
無い 、 立場において、
それらを喚起する度合を成す、 働きらを成したり、
成し得たりする、
それらの宛のものらとして、観られるものらと、
そうではない、
我々の各々の精神系にあるものらとに、
思い分けて観られる事を通して、

因果の関係性らなどを構成する観念らにおいて、
原因として、 在り働くものらと、
結果として、 在り得てあるものら、などに、
分けて観られもする事において、

実際には、
観念らのいずれかを成してあるものら、
で、 在りながらも、
観念ら、の、 どれでも、 無い、
立場のものらとして、
観られもする度合いを、 成し、 増されもして、

その一定数以上のものらが、
ものそのものめいたものらとして、
より、 そうした、 からくり事らへの、
思い分かちようらを欠いた、 精神系において、
思い構えて観られる事になる。


こうした事らは、
自らの思い構えて観る宛の物事らの中には、
自らの、 関与できない、
左右し得ないものらがある事などは、
そうした、 ものらの中に、 ものそのものが、
そのままに、 在る事を、意味しない、だけでなく、

観念らをも、 自らの宛として、 成り立つ、
観念らの、 際限を無しに、 関わり合ってある、
からくり事らが、
我々の各々の枠組みを越えて、 在り、
働き合ってあり、

それらを離れて、 独我性とか、 実在性とかが、
設定される事が、 無い 、 といった事らが、
ある事を意味し得るものであり、


ものそのもの等の属性らが、
思い構えて観られる事のそのものにおいても、
その宛の、 ものそのもの、めいたものが、
単に、 観念の設定上の存在として、の、
度合いを与えられるだけであり、

そこで、 新たに、 観念の設定上の、
ものそのものめいたものらと、
観念ら、の、 どれでも、 無い 、 と、
される、
より、 ものそのものめいたものら、
とが、
能 ヨ く、 区別され得る、 機会が、
それを成す主らへ、 与えられ、

より、 ものそのもの、めいたものらもまた、
観念されてあるものとして、
そこで、 在るものらにされるしかない、
ものらである事が、
それを成す主らに、 改めて、
確認され得る機会が、与えられる、
といった事らなどを、
思い構えて観るに至らしめ得たりする、
手掛かりになる事らでもある。


下に述べられてある、
パース氏の、 ものそのもの、 めいたものを、
宛とした、 観念のものは、

単に、 パース氏に、観念されたものであり、
パース氏が、
観念ら、の、 どれでも、 無い、 設定ら、なり、
からくり事ら、なりとする、 類のものらも、

能く、 思い分けて観てゆく事においては、
観念らを成す、からくり事らであったり、
観念らの成し合う、設定らであったりするが、

観念らを成す、 からくり事らのそのものも、
観念らの何彼らに成る形で、
我々の各々に現前して観られる他に、
我々の各々に現前する方法の無いものらである、 といった事への、
思い分かりようの度合を、
一定以上に、 欠いてある、
在り得ようを映し出して観せる様な、
パース氏、 についての記述のありようらが、
下には、 ある。

実際の、 パース氏は、 どの時期に、
どうであったかは、ともかくとして、
少なくとも、 下の記述事らにおいては、 そうだ。

何事かや、何物かを、
観念の場には、 無い 、 とすると、

それらを、 我々の各々が、
観たり、感じたりして、 知る事のそのものが、
それ自らの成り立ちを得られない事にもなる、
という事を、
思い分かち得ていない度合が、 一定以上にあると、

何らか形で、 我々の各々が、
知り得る、 物事らのすべては、
我々の各々の自らの、 観念性と、
我々の各々の枠組みを越えてある、
観念性と共に、
我々の各々に知られるものらである、
という事への、 思い分かちようの度合いも、
一定以上に、 欠けてある事になるし、

より能く、 物事らの在り得ようらを、
思い分けて観てゆく、
作業を妨げるものらの中にも、
観念らがあり、
そうした、観念性らがある、
といった事への、 思い分かちようの度合いも、
一定以上に、 欠けてある事になる。


例えば、
ある、完全な球面の、 ある一つの位置が、
ある平面の、 ある一つの位置であり、

それらな、球面と平面とは、
一つの位置において、 重なっているが、

その位置には、 それ自らの面積が、 無い、
といった、 記述がある場合に、

その位置の事を、 点 、 を、 宛にした観念で、
思い捉えてしまい、
点 、 であるからには、
一定の面積を成してある筈だ、 等とする、
その、 観念の規定性に妨げられて、

どうしても、 その一致し合っている、
一つの位置には、
面積が、 欠けてある、 という事へ対して、

納得 しない思いを抱き続ける人々も、
一定数は、 存在する。


その人々の一定数においても、
位置と、 点とを、 区別する形で、
観念らを成す様に促してゆく事を通して、

自らの占める面積を欠いた存在としてある、
位置 、と、
それに準 ナゾラ えて述べられもする、
数学における、 点 、 とについて、
蟠 ワダカマ りを解いた体 テイ を成す事は、
あるが、

観念らの各々の規定性らは、
より能く、 物事らの在り得ようらを、
思い分けて観てゆく事へ対して、
それを妨げる働きも成す。


いずれにせよ、
日本国民らの一般の側に立てる方の、
日本国民たちは、
より早くに、 日本国民らの足元の地下へ、
避難経路らと、住める避難所らとを、
作り拡げてゆく、公共事業らを成す事において、

英米の金融勢力員らの主張する事ら、を、
そのまま、 自らも、 主張し、
実行する事を、 繰り返して来てある、
実態らを積み重ね得て来てある事において、

英米の金融勢力員らの側についてある、
反日側の者としての、 実態ら、を、
積み重ねて観せて来てある、

日本の、 財務省の役人らと、
与野党の主な政治家らや、
報道機関らの情報媒汰 バイタ らにより、

日本政府の財政における、 緊縮 、 を、
繰り返される事を通して、

日本国民らへ、 押し付け続けられて来てある、

デフレ不況性 、 を、 解消し去ってゆくべき、
押しつまった状況にも、 ある 】 。


☆ ネット記事+論弁群+;

☆ 三省堂 ; 大辞林 ;
き ごう -がう 【 記号 】 ;

① 一定の、 事象や内容を、
代理・代行して、 指し示す、 はたらきをもつ、
知覚の可能な対象。

狭くは、
種々の符号・しるし・標識などを指すが,
広くは、
言語や文字,さらには、雨を知らせる、
黒雲や、 職業を示す制服なども、 含まれる。


事象との結びつきが、 一義的・直接的なものを、 サイン、 または、 シグナル,

多義的・間接的であるものを、
シンボルとする、 分類もある。


③ 〘言〙 ; ソシュール言語学において,
能記 ( 記号表現 ) , と、
所記 ( 記号の内容 ) との、
両面をもった、 言語研究の単位。
両者の結びつきは、 恣意 シイ 的
≒ 誰彼の好き勝手な思い成しよう次第 、
と、 される。


☆ 記号 ( きごう、 英語: Sign ) 、とは、

情報事らの伝達や、 思考・感情・芸術などの、
精神行為の働きを助ける、 媒体のことだ。


狭義には、 文字や、マーク、絵などの、
意味を付された、 図形を指すが、

広義には、 表現物、 ファッションや、
様々な行為 ( や、 その結果の事象 、 など )
、 までをも、 含む。


☆ 記号それ自体は、 紙の上のインクや、
造形された物体、 空気の振動などでしかないが、

ヒトが、 これらを、
何らかの意味と結び付けることにより、
記号として、 成立する。


記号は、 他の記号と共に、
まとまった集合体となったり、 あるいは、
相互に、作用し合ったりして、 何かを指し示す。


19世紀の後半から、 20世紀にかけて、
人類員らは、
科学や、 技術、政治・経済、思想などの面で、
大きな飛躍を遂げたが、 その中で、
記号の使用は、 重要な役割を果たした。

とりわけ、 自然科学においては、
自然現象らを、 記号化し、
操作できるようにすることが、
新たな認識を深めることに、 つながった。

これにより、
あらゆる認識の内容な、 事らは、
記号によってのみ、 実現する、 とまで、
言われた。

今日に通じる記号論らも、 同じ時期に、
研究らが始まった。

記号論らは、 言語学らの中から、
出てきたものであるが、
単に、 言語における、
記号の働きらを研究しただけでなく、

記号
( 記号論や、 記号学で、 いう、
「 記号 」、 は、 sign でも、 symbol でもなく、
semiosis 、 である ) 、 が、
人類にもたらす諸作用をも、研究対象としていき、
哲学における、 大きな柱らの一つとなった。


☆ 記号学 ( きごうがく、 英: semiology )、
あるいは、
記号論 ( きごうろん、 英: semiotics )、は、
言語を始めとして、
何らかの事象を、 別の事象で、 代替して、
表現する手段について、 研究する学問だ。


◇ パース氏は、 記号は、
物理的指示作用と、 図像的表示能力をもつ、
とし、
さらに、 この二つの作用らの総合として、
象徴作用 、 という、 第三の意味作用が生じる、
と、 考える。

パース氏は、 記号の、
このような三つの意味らの差異を 、

< インデックス > 、 < アイコン > 、
< シンボル > 、 と、 呼び分ける。

記号とは、 常に、 低次の意味作用から、
高次のものへと発展する、
記号は、 時間の中にある 、 と、 考える。



☆ ・・静まり返った天幕の中で、
ハーリド将軍は、 一人で、その文書を開いた。

そこには、 「 あなたは、クビ 」、 とあった。

将軍は、何も見なかった振りをして、
翌日の決戦で、 見事に、大勝ちした。

敗走する東ローマ軍が、
地平の彼方へ消えて行った後で、
ハーリド将軍は、 部下たちを集め、 無言で、
ウマル氏からの命令書を取り出して見せた。

誰もが、 声を失う中で、 将軍は、
表情の一つも変えずに、姿を消した。


アブー・バクル氏や、 ウマル氏は、
「 カリフ 」
( より、 正確には、 ハリーファ ) 、
と、 呼ばれる。


アラビア語で、 「 代理人 」 って、 意味。

「 アラブによる、大征服 」 、 と言われる、
世界史を変える戦は、 始まったばかりだった。


637年、に、
アラブ軍は、
ササン朝ペルシアの、首都の、 クティフォン
( 今の、 イラク、の、 バグダッドの近く )
、 を占領した。


王宮の宝物庫には、 膨大な金銀財宝があったが、
アラブの末端の兵士らは、
金などを見た事がなかったので、
大量の金塊 キンクレ らを、
自分らにも価値が判る、 銀のちょびっとと、
取り換えて、悦に入っていた。

防虫用の樟脳を、塩と間違えて、
神妙な顔をして、 「 文明の味 」 、を堪能した、
ともいう。


シリアでは、 ハーリド氏が去った後に、
アムル氏、 という、武将が頭角を現してきた。

「 神の剣 」 、なる、 ハーリド氏とは、
対照的に、 知略で勝負する類の名将だ。

彼が、 キリスト教の聖都の、
エルサレムを陥落させると、
第2代のカリフの、 ウマル氏が、
前線に、 視察に来た。

その頃のカリフらは、 とても、 質素で、
ウマル氏は、 従者も連れずに、
ロバでやって来て、 粗末な皮の服を着たまま、
地べたに、 額 ヌカ づいて、
神に感謝したりした。

アムル氏は、 ウマル氏をつかまえて、
こう、 進言した。

「 ちょっと西の方に、 エジプト、とかいう、
大変に豊かな国があるらしいが 」。
「 ああ、 なら、征服したまえ 」 、 と、
カリフは、簡単に許可した。

所が、 メッカに帰ったウマル氏は、
気が変わってきた。
「 エジプトは、 本国から遠すぎるんじゃないか? 」。


・・637年 、( 丁酉 ) 、 は、
日本では、 舒明天皇、 の、 9年 、で、

主な大臣は、 蘇我蝦夷 ソガのエミシ 氏 、
であり、

2月23日に、  箒星らしいものが、観られ、
3月2日に、  日食 、 が、 観られた。

この年  大和朝廷の治める領域の、
北部に居た、 蝦夷 エゾ 員らが、
大和朝廷へ、 叛 ソム き、 朝廷は、
上毛野形名氏を、 将軍として、 討たせた。

■ 唐帝国では、
この、 637年、 に、
貞観律令 、が、 制定された。

その前の年の、 636年、に、
早魃 ( かんばつ ) 、 により、
大飢饉が起きており、
その次の年の、 蝦夷員らによる、
大和朝廷への反乱に、 つながる。

641年、に、
舒明天皇 ( じょめいてんのう ) 、
が、 半島の、 百済 クダラ 、で、 没した。


642年、に、
皇極天皇 ( こうぎょくてんのう ) 、が、
即位し、
蘇我入鹿 ( ソガのイルカ ) 、が、
国政を執る、 勢力性を成した。

643年、に、
蘇我入鹿が、
聖徳太子の子である、 山背大兄王
( ヤマシロのオオエノのオウ ) 、 たちを襲い、
一族を自害させた。


645年、に、 中大兄皇子
( ナカのオオエのオウジ 、
後の、 天智天皇 ) 、 と、
藤原氏の先祖である、 中臣鎌足
( ナカトミ の カマタリ ) 、らが、
蘇我入鹿を暗殺し、
その父の、 蘇我 蝦夷 氏が、 自害した
≒ 乙巳の変 、 いっしのへん 、
が、 成された 。


中大兄皇子が、 皇極帝への、 皇太子となり、
左大臣、と、右大臣、に、内臣を定めた。

年号を定め、 大化とした ≒
大化の改新 、 たいかのかいしん 。

天皇の宮 ( 首都 ) 、 を、
飛鳥から、 難波長柄豊碕 ( 埼 ) 宮
( ナニワナガラ、の、トヨサキ、の、みや 、
現在の、 大阪市中央区 ) 、に移した。


646年、に、
改新の詔
( カイシンのミコトノリ ) 、 を宣する。


649年、 に、
右大臣の、 蘇我倉山田石川麻呂
( ソガのクラのヤマダのイシカワのマロ )
、が、 謀反 ムホン 、への嫌疑がかけられ、
山田寺 ヤマダデラ 、で、 自害した。