今回は2019年10月6日にパリのロンシャン競馬場で行われる「凱旋門賞」を記念して、ブローニュの森を夕方散歩してきました。最初はオートゥイユ競馬場から森を放浪し最後にロンシャン競馬場まで歩いてきました。秋の平日の夕方散歩したんですが、知り合いからは「大丈夫だった?」と言われました。やはりニューヨークのセントラル・パークもそうですが、夕方の海外の公園は非常に人通りも少なく、また公園の中には娼婦がいたりとても危険な感じがしました。
もしみなさんが行かれる時は陽がまだ明るいうちがベストです。秋の夕暮れは少し恐怖さえ感じるほどでした。
まあ、それはいいとして日本からの出走馬であるキセキ、フィエールマン、ブラストワンピースの三頭には頑張ってほしいものです。期待しています。
世界で一番綺麗だと言われているロンシャン競馬場は芝生も綺麗に刈られていてさすがという感じでした。またオートゥイユ競馬場は障害競走専門の競馬場であり、フランスで一番の「パリ大障害中」が開かれる由緒ある競馬場でもあります。今回は中にも入ることができ感動しました。
【ブローニュの森(Bois de Boulogne)】(wikipedia)
(概要)
パリ中心部から西に5kmほどの地域に位置し、面積は846万平方メートルにも及ぶ。
園内には、フランス国立民族民芸博物館、フォンダシオン・ルイ・ヴィトン、アクリマタシオン庭園の子供遊園地、バカテル庭園、シェイクスピア庭園、オートゥイユ庭園のほか、有名なパリロンシャン競馬場やスタッド・ローラン・ギャロス(テニス場。全仏オープンが開催される)もある。バガテル庭園は24haもの広大なフランス幾何学式庭園で、バガテル・バラ園には約1万本のバラが植えられている。静岡県の河津バガテル公園は姉妹園である。
アクリマタシオン庭園内のサラサモクレンの木
また、園内には、フランス政府より芸術文化勲章(コマンドール)を受賞した水井康雄の馬首像・アミラル(ブロンズ像}が1963年より設置されている。
パリ市民の身近な憩いの場として、週末を中心に散歩やジョギング・サイクリング等のスポーツを楽しむ人々で賑わう。一方で、かつては男娼の聖地として有名であるなど、パリ市内の一大売春地帯であった。取り締まりが強化された現在でも、日没後になると客引きをする娼婦の姿を見かけることができ、治安は必ずしも良いとは言えない。
(歴史)
ブローニュの森の競馬場, エドゥアール・マネ作, 1872年
この森は貴族の狩場などとして使われていたが、14〜15世紀の百年戦争の期間は、焼き討ちや強盗によって森は荒廃していた。ルイ11世の時代に、再度の植林や道路の開通といった整備がなされた。フランソワ1世がこの森にマドリッド城を建設してから、ブローニュの森は祭りなどに用いられるようになった。
19世紀中頃、ナポレオン3世が、ミズナラの茂っていたブローニュの森に、より多種多様な植物を栽培し、乗馬コース、自転車道路、パリロンシャン競馬場、滝で結ばれた2つの人工池等を整備した。1929年、ブローニュの森は公式にパリ市に編入された。
【パリロンシャン競馬場 (パリロンシャンけいばじょう L'hippodrome de ParisLongchamp)】(wikipedia)
フランスのパリ西のセーヌ川沿い、パリ16区ブローニュの森の中にある世界で1番美しいと言われる競馬場。平地競走専用の競馬場であり、凱旋門賞をはじめとするフランス競馬の主要な競走が行われることで知られる。
競馬場の正門にはフランス競馬史上最高の国民的英雄と評された史上2頭目のイギリスクラシック三冠馬グラディアトゥール (Gladiateur) の銅像がある。
(競馬場の創設)
ロンシャン競馬場を建設し、その後の管理を行ったのはフランス馬種改良奨励協会 (フランスギャロの前身、以降は奨励協会と表記) である。奨励協会は1833年11月11日に組織され、1834年5月4日には、パリのシャン・ド・マルス競馬場において、奨励協会による最初の競馬を行っている。また、15日には場所を移しシャンティイ競馬場でも行われた。1852年になるとシャン・ド・マルスは競馬場として問題があるため、奨励協会ではロンシャンに競馬場を建設できないか話し合われるようになった。その翌年には計画実現のため、皇帝となったナポレオン3世の異父弟にしてジョッククルブの会員であるシャルル・ド・モルニーに合意を求めることとなる。
モルニーの働きかけもあり、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンの協力を得ることに成功する。1854年8月18日にパリ市議会はロンシャン平原を市の名義で買取りブローニュの森に併合することをセーヌ県知事に一任した[† 4]。この決定は8月24日から29日の勅令により承認されたが、その中に競馬場の建設も含まれていた。
1856年6月には1856年7月1日から1906年6月30日までのリース契約を結んだ。さらに、1856年12月16日には、これまで国営である帝国牧場が監督していたシャン・ド・マルスの秋開催を委譲し、春開催と同じく奨励協会が一括して管理しロンシャン競馬場で行う協約を結ぶ。この2点は12月17日付の勅令で承認された。
こうした交渉の上、2年余りをかけ建設された競馬場における最初の競走は、1857年4月27日の日曜日に大勢の群集の前で開催されている。そこにはナポレオン3世皇帝とその妻ウジェニー皇后が親臨し、ジェローム・ボナパルトとその息子ナポレオン公、ナッサウ公子、ミュラ公(英語版)といった面々がロイヤル・エンクロージャーに顔をそろえた。非貴族の上流階級はロイヤル・エンクロージャーに入れなかったためバルーシュ型キャリッジからの観戦となった。また、パリ市民の多くもヴィクトリア型キャリッジや水上バス、外輪船などでこの新しい催しに集まっている。その多さは、混雑により第1競走の開始時間を30分ほど遅らせなければならなかったほどである。
(コース図)
右回りの芝コース。大外回り1周2750メートル、中回り1周2500メートル、小回り1周2150メートル、第3コーナーのポケットからのコースは1400メートル、直線コースは1000メートルと5つのコースがある。
向こう正面のコースは中間から第3コーナーまでゆったりとした上り坂が続き、そこからゆったりとした下り坂が続く。大外回りコースは最大10メートルの高低差となっている。
中回りコース、大外回りコースでは第4コーナーまでフォルスストレート(false straight、「偽りの直線」の意味)と呼ばれる直線が続く。距離は大外回りコースで250メートル程度。
直線はゴール板は2つ有り手前のゴール板までは533メートル、奥手のゴール板までは650メートルの平坦なコース。
直線コースはゴールまで平坦なコースが続く。
2015年から2018年までの大規模リニューアル工事(スタンド改修・馬場改修)にて直線入口の内ラチ側にコース幅が6m分の進路が広がるオープンストレッチが設置された。これによって道中内ラチ沿いを走る馬が馬群に包み込まれたまま直線の攻防に加われず力を出し切れずレースを終えるといった弊害が少なくなると期待されている。
【オートゥイユ競馬場 Hippodrome d'Auteuil】
フランスパリの近郊にある障害競走専門の競馬場である。所有・運営はフランスギャロで、パリ大障害を開催する競馬場として知られている。
(概要)
1830年代から始まったフランスの障害競走は次第に人気を帯び、障害競走専用の競馬場を望むようになる。オートゥイユ競馬場はブローニュの森内に建設された競馬場で、1873年11月1日に初の開催が行われた。
1874年5月25日に、後のパリ大障害となるフランスグランドナショナルを開催し、以後フランス障害競走の最高峰として位置づけられている競馬場である。
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