竹林亭白房

志ん朝「火焔太鼓」@TBSラジオ『まわり舞台』

□本日落語一席。
◆古今亭志ん朝「火焔太鼓」(hachette『古今亭志ん朝』秘蔵音源CDコレクション3)。
収録場所・収録日不明※TBSラジオ『まわり舞台』昭和41(1966)年3月20日OA。
「火焔太鼓」と言えば、五代目古今亭志ん生、「火焔太鼓」と言えば古今亭というくらい、志ん生と同時代はおろかそれ以前の落語家の「火焔太鼓」など考えたこともなかったが、今回このCDコレクションの京須偕充による解説で、これが明治期に初代三遊亭遊三によって手がけられていたものだとあらためて知った。

ちなみiに、初代三遊亭遊三は京須の解説に「下級の幕臣から落語家の転身したという異色のキャリアの持ち主」とあったが、維新後、函館で判事補となった際、自分が関係をもった女に有利な判決を出して問題となり、その女といっしょに東京へ駆落ちしたという愛すべき人物である。また、その孫は俳優十朱久雄なので、十朱幸代は曾孫になる。

そんなわけで、初代遊三の「火焔太鼓」がわかるかもしれないと思って、『口演速記明治大正落語集成』を繙いてみると、はたして出てきた。
なるほど、なんだか「火焔太鼓」の原石を見るような気分だ。これに志ん生がふんだんにクスグリを投入しておもしろおかしい「火焔太鼓」ができあがったわけだ。

些細な相違を挙げると、初代遊三の「火焔太鼓」では、道具屋の親父は、銀座の道具屋太兵衛という固有名で語られる。また、奉公している小僧も長松という名がある。さらに、太鼓を買いあげる殿様は落語でおなじみの赤井御門守、その家来で道具屋と交渉する侍も平平平平(ひらたいらへっぺい)という名がある。

また、道具屋の太兵衛が太鼓を仕入れたのは三分二朱。ここは志ん生以後一分である。また、太鼓の売れた値段は百両となっていた。ここも志ん生によって三百両となる。これは、三百両にしたほうが、五十両の切餅を六回出すことになるのでずっとおもしろい。

さらに、落げはほぼ同じなのだが、微妙に違うのは、最後、音の出るものが売れるというので、太兵衛が半鐘を一両二分で買ってきて、太鼓のときのように小僧の長松に叩かせると、近所の者が太兵衛の店に大勢で飛びこんできて、売物の道具がめちゃめちゃになり、「太鼓の儲けが半鐘でおヂヤンになった」ということになっていた。

なお、京須偕充はさきの解説で「志ん朝が没してから近頃、とかく亜流の『火焔太鼓』が目立つのは痛し痒しと言いたいが」と苦言を呈していた。
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