中国生活の基礎知識~中国史の入門講座~

中国で生活するための基礎知識として、中国の歴史・文化を、楽しみながら学んでいきましょう。

陽明学と日本のある記念日

2011年12月14日 | 中国史
カレンダーを眺めていたら、
12月14日であることに気が付いた。

そう、旧暦と新暦の違いこそあれ、
赤穂浪士が吉良邸へのうち入りを行った日である。

以前の講義の中で、日本における陽明学の代表として
赤穂浪士を上げた。
本日は記念日と言うことで、少しだけそれに触れようと思う。

まず、なぜ赤穂に陽明学が浸透したのか。

五代将軍・綱吉の時代
湯島聖堂なんかが建てられたように、儒学が尊ばれた。
ここで言う儒学とは「朱子学」。
すなわち、融通の効かない、お堅い学派であった。

それに、「ちょいオカシクね?」といった学者もいた。
その中でも有名なのが山鹿素行である。
彼は朱子学の理解に対して疑念を抱き、陽明学へと傾倒。
さらには、そこから朱子学批判を行ったことにより、
幕府の怒りをかい、江戸から追い出されてしまう。

その身の預かり先となったのが「赤穂藩」。

山鹿素行は、ここで藩士教育に当たることになり、
その思想、すなわち陽明学思想が赤穂藩に根付いていったのである。

ちなみに、山鹿素行が赤穂藩預かりとなったのは、
おそらく1665年あたりから10年間。
大石良雄(内蔵助)が1659年の生まれなので、
直接的に素行から指導を受けたということはないと思われるが
その間接的な薫陶は受けていたはず

実際、内蔵助の行動を見てみると
主君切腹、浅野家取りつぶし→お家再興の運動→運動の失敗→仇討の決意
と、きちんと順番を追って判断しており、
しかも、その中でまず社会的に優先すべき選択を選んでいるのが分かる。
(取りつぶし→即仇討、ではない)

陽明学では自己の良心(良知)に従うのを尊ぶ。
その点からみると、内蔵助はそのいくつかある良心のなかで
それぞれの時点での社会道徳に合致した行動を取っている。
しかも、それぞれの行動は一見違う様に見えても、
いずれも内蔵助の持つ良心に沿った行動であったというべきだろう。

まさに、陽明学の言う「致良知」の思想である。

ちなみに、『仮名手本忠臣蔵』では討ち入りの際に
山鹿流の陣太鼓」を鳴らすシーンが登場する。
これ自体はフィクションだが(夜襲に合図を出すバカはいない)、
この山鹿流軍学の開祖も山鹿素行。

赤穂藩の素行への敬慕の念が察せられる。
(さしずめ「ソコラー」とでも呼ぶべきか…古い)


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