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あれから10年・・・。
「ちょうど」なのか「もう」なのか・・正直使う言葉一つ一つ慎重に使わないと僕自身の言葉として上手くここに書き込めるか心配なのですが、とりあえず10年経ったんですよね。
あの出来事って世界中の誰もが「あの時こうしてました」とか「この時はああでした」とか自分が「あの時」何をしてたのかって、みんな覚えてますよね。それほど世界中に衝撃を与えた・・・少なくとも僕には人生を大きく「変えられた」出来事でした。
「何が正しくて、何が悪いのか」・とりあえず自分の環境から見て「テロ」と云う行為自体「悪」なんでしょうが、もし自分がたまたまイスラム教の文化圏を持つ国に生まれ、そこでの生活が「あたりまえの普通の生活」として送る人間だったら、あの「ワールド・トレード・センター」に突っ込む飛行機を見た時に、それが「正義」としてあり得たのかも知れないんですよね。
たまたま日本人として生まれ、富山で育ち、たまたま「その場所」に居合わせただけの人間なんで一個人の主観から言えばホント「卑怯」だったんですよ、あの光景は。まったく関係のない人たちが理不尽な形で死んでいく。同じアパートの住人が燃えるビルを見ながら泣き叫んでる。この人をはじめ、あの時にあの光景を見てた人達全員が自分たちが今日こう云う目に会うと分かって、その日の朝から行動してるわけじゃなかったハズですから。
僕がたまたま、今のこの環境にいるから、こう云う考えに至るのかも知れないし・・・であるならば今のこの「佐藤宏一」という名前を持つ僕自身の環境下で中途半端に生きちゃいけないな、後で後悔するような事しちゃいけないな、自分自身が死ぬ時には、それが思わぬ事故であったとしてもその時までに全力で生きてきた生き方をしてきたならば後悔は生まれないだろうな、そういう生き方してみたいな・・と本気で思いました。
でもあれから10年経ってみて・・・
正直10年前と比べて僕には家族がいて、周りの方々にも恵まれ、同じ思いを共有できる仲間達、一生大切に付き合って行きたい友人達など、こういう自分にとってかけがえのない人達を「大切にしていきたい」という思いに少しずつシフト?してる感じだなとここ数年前から思い始めました。
「後悔しない生き方」ってなんだか表現がおかしいかな・・と(笑)
人にはいろんな「縁」があってその「縁」を大切にするかしないかで大分違ってくるし、その「縁」が引き合わせるのは「人」であったり「物」であったり「出来事」であったり・・・もちろん「死」もそうなんでしょうけど。
もちろん「理不尽な死」には「縁」なんて無いと言い切りたいですが、その「理不尽な死」も、もしかしたら・・・という思いもあるんですがね・・・コレを云ったら反感買うかもしれませんがケド自分がその立場になってみないと分かりませんからね。
そう云う意味では「10年前のあの出来事」も僕にとっては「縁」があったといえるのかな?と思います。
「良かった」とか「悪かった」とかそんなのは抜きにして、少なくとも自分自身には大変な出来事でその後しばらくは、この話題にすら触れないようにしてきましたが、少しずつ、少しずつですが自分の中での前向きになってきたのかな・・と思います。
10年前の「空」も今日のように青く澄んだ「空」でした。
黙祷。
「ちょうど」なのか「もう」なのか・・正直使う言葉一つ一つ慎重に使わないと僕自身の言葉として上手くここに書き込めるか心配なのですが、とりあえず10年経ったんですよね。
あの出来事って世界中の誰もが「あの時こうしてました」とか「この時はああでした」とか自分が「あの時」何をしてたのかって、みんな覚えてますよね。それほど世界中に衝撃を与えた・・・少なくとも僕には人生を大きく「変えられた」出来事でした。
「何が正しくて、何が悪いのか」・とりあえず自分の環境から見て「テロ」と云う行為自体「悪」なんでしょうが、もし自分がたまたまイスラム教の文化圏を持つ国に生まれ、そこでの生活が「あたりまえの普通の生活」として送る人間だったら、あの「ワールド・トレード・センター」に突っ込む飛行機を見た時に、それが「正義」としてあり得たのかも知れないんですよね。
たまたま日本人として生まれ、富山で育ち、たまたま「その場所」に居合わせただけの人間なんで一個人の主観から言えばホント「卑怯」だったんですよ、あの光景は。まったく関係のない人たちが理不尽な形で死んでいく。同じアパートの住人が燃えるビルを見ながら泣き叫んでる。この人をはじめ、あの時にあの光景を見てた人達全員が自分たちが今日こう云う目に会うと分かって、その日の朝から行動してるわけじゃなかったハズですから。
僕がたまたま、今のこの環境にいるから、こう云う考えに至るのかも知れないし・・・であるならば今のこの「佐藤宏一」という名前を持つ僕自身の環境下で中途半端に生きちゃいけないな、後で後悔するような事しちゃいけないな、自分自身が死ぬ時には、それが思わぬ事故であったとしてもその時までに全力で生きてきた生き方をしてきたならば後悔は生まれないだろうな、そういう生き方してみたいな・・と本気で思いました。
でもあれから10年経ってみて・・・
正直10年前と比べて僕には家族がいて、周りの方々にも恵まれ、同じ思いを共有できる仲間達、一生大切に付き合って行きたい友人達など、こういう自分にとってかけがえのない人達を「大切にしていきたい」という思いに少しずつシフト?してる感じだなとここ数年前から思い始めました。
「後悔しない生き方」ってなんだか表現がおかしいかな・・と(笑)
人にはいろんな「縁」があってその「縁」を大切にするかしないかで大分違ってくるし、その「縁」が引き合わせるのは「人」であったり「物」であったり「出来事」であったり・・・もちろん「死」もそうなんでしょうけど。
もちろん「理不尽な死」には「縁」なんて無いと言い切りたいですが、その「理不尽な死」も、もしかしたら・・・という思いもあるんですがね・・・コレを云ったら反感買うかもしれませんがケド自分がその立場になってみないと分かりませんからね。
そう云う意味では「10年前のあの出来事」も僕にとっては「縁」があったといえるのかな?と思います。
「良かった」とか「悪かった」とかそんなのは抜きにして、少なくとも自分自身には大変な出来事でその後しばらくは、この話題にすら触れないようにしてきましたが、少しずつ、少しずつですが自分の中での前向きになってきたのかな・・と思います。
10年前の「空」も今日のように青く澄んだ「空」でした。
黙祷。
これを読んで本当に良かった。
もう1度、家族・死・自分・大切な人々のコトを考え直せそうです。
どもども、いつもお世話になっております。またいろいろと考え見つめ直す機会としてはよろしいのではないかと( ̄▽ ̄)ニヤリ