7月17日*****************************
<font color=blue><b>私たちの主であり救い主である
イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。
II ペテロ 3.18</font></b>
私たちは人々が滅びから救われ、神に栄光が帰せられるのを待ち望んでいます。しかし、私たちはそこで止まってしまっているのではありませんか。3,4千人の回心者が--あるいは3,4人でもいいのですが--全員は救われ、主とともに極めていい状態で過ごしているのを見るとき、仕事は完成したと感じるのでしょうか。むしろそれは私たちの仕事の始まりとみなすべきなのではないでしょうか。・・・・・・・・私たちは、救われた人たちが頭に結びついてあらゆることにおいて成長し、キリストの身丈まで成長するのを、<font color=red>使徒たちのように重荷を負って見守っていますか。</font>
7月18日*****************************
<font color=blue><b>そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには
地に落ちることはありません。
マタイ10.29</font></b>
神は目的の神です。創造は偶然ではなく、神の側の明確な目的の表現です。・・・・・・・・・・私たちが問題にもしないようなつまらない雀の死さえも覚えられているということは、つまり神にはそれが重要なことなのであるのは言うまでもありません。<font color=red>全宇宙の創造主は一羽の雀すら御心に留めておられるのです。「恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。</font>
7月20日*****************************
<font color=blue><b>天では、あなたのほかに、
だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
詩篇 73.25</font></b>
私たちの主へのまったき明け渡しは、しばしば特殊な事柄によって決定されます。そして神は私たちにそのたった一つの事柄を期待しておられるわけです。神にはその事柄が必要です。なぜなら神は私たちのすべてを持たねばならないからです。・・・・・・・・・・・私たちがしもべの立場に立たない限り、神は主としての立場をとることがおできになりません。<font color=red>神は私たちをご自身の目標に献身させようと招いておられるのではありません。神は私たちが無条件に自分自身を神の御心に従わせることを求めておられるのです。</font>
7月21日*****************************
<font color=blue><b>あなたがたは、世界の光です。
マタイ 5.14</font></b>
自分はみことばを宣べ伝えるべきでしょうかと、ある人々は尋ねます。あるいは、自分は職業か商売の口を見つけた方がいいでしょうか、と。神の子どもの前には2本の道があるとでも言うのでしょうか。みことばのどこにこのようなみことばを宣べ伝えるべきか、仕事を見つけるべきかといった二者択一を見い出すことができましょう。私たちはそのような選択をするために召されているのでしょうか。神の民は証のための灯火です。では、証をしないキリスト者というものが存在するのでしょうか。どこか不思議なことばですが、すべての者が灯火だと言っている一方で、数人の人だけがみことばを宣べ伝えるということはあり得ないことです。そうです。地上には神の生ける証人がいるのであり、そのことのゆえに私も生きているのです。<font color=red>私たちすべての者にとってこの一本の道があるのであり、ほかの道はありません。主にある者で、主を証しない者はだれもいません。</font>
すべての者はキリストを宣べ伝えなければなりません。これは重要なことです。
そして2番目の質問として、すべての時間をキリストを宣べ伝えるために費やすべきか、あるいはいくらかはパンを得るために時間を割くべきかという問題があります。というのは、すべては私たちの中心がどこにあるかということで決まってきます。神は仕事に説教を付け加える者をお用いになることがおできになりません。神は説教に仕事を付け加える者を用いることがおできになります。単純にどちらが付随的なものかによって決まるのです。<font color=red>仕事ではなく神が、私たちの生活の中心であるべきです。</font>
7月23日*****************************
<font color=blue><b>あなたの目は前方を見つめ、
あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
箴言 4.25</font></b>
<font color=red>神の子どもである私たちにとってもっともたましいを傷つけること
は、私たちが内側をのぞき込むこと</font>なのです。気がついていたでしょうか。罪は生かしておけないものであるという認識はすでにありますが、<font color=red>内省はそれほど危険視されていません。内省は明らかな病気よりもさらに恐ろしい、気がつかないでいる病です。</font>私があなたに「誇ることは間違ったことでしょうか」と質問すれば、あなたにはその答えがわかります。もし私がもう一度、「ねたみはどうでしょうか」と尋ねれば、「もちろん間違っています」とあなたは答えます。けれどもあなたは<font color=red><i>自分が自分自身を見つめるのは特に霊的だからだと想像しつつ、一日に100回も自分自身を見つめ、そしてそのようにすることの悪に気がつかないでいる可能性がある</font></i>のです。
おやめなさい。御霊によって歩むことを学ぶのです。あるたましいにキリストを宣べ伝えるように動かされるのを感じますか。この切迫感が自分から出ていることか、神から出ていることか、立ち止まって自己吟味するのですか。あなたが質問を繰り返している間に、機会は去ってしまいます。行動しなさい。そうすればあなたは解放されるのです。
7月25日*****************************
・・・・・・・・・・・・どうすれば私たちは主を喜ばす生き方ができるのでしょうか。それはキリストにある真の安息、そしてキリストがなしてくださったことがらに見い出される真の安息に私たちの生き方の基準をおくことによってのみ可能なのです。・・・・・・・・・・・
<font color=blue><b>私たちの主であり救い主である
イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。
II ペテロ 3.18</font></b>
私たちは人々が滅びから救われ、神に栄光が帰せられるのを待ち望んでいます。しかし、私たちはそこで止まってしまっているのではありませんか。3,4千人の回心者が--あるいは3,4人でもいいのですが--全員は救われ、主とともに極めていい状態で過ごしているのを見るとき、仕事は完成したと感じるのでしょうか。むしろそれは私たちの仕事の始まりとみなすべきなのではないでしょうか。・・・・・・・・私たちは、救われた人たちが頭に結びついてあらゆることにおいて成長し、キリストの身丈まで成長するのを、<font color=red>使徒たちのように重荷を負って見守っていますか。</font>
7月18日*****************************
<font color=blue><b>そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには
地に落ちることはありません。
マタイ10.29</font></b>
神は目的の神です。創造は偶然ではなく、神の側の明確な目的の表現です。・・・・・・・・・・私たちが問題にもしないようなつまらない雀の死さえも覚えられているということは、つまり神にはそれが重要なことなのであるのは言うまでもありません。<font color=red>全宇宙の創造主は一羽の雀すら御心に留めておられるのです。「恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。</font>
7月20日*****************************
<font color=blue><b>天では、あなたのほかに、
だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
詩篇 73.25</font></b>
私たちの主へのまったき明け渡しは、しばしば特殊な事柄によって決定されます。そして神は私たちにそのたった一つの事柄を期待しておられるわけです。神にはその事柄が必要です。なぜなら神は私たちのすべてを持たねばならないからです。・・・・・・・・・・・私たちがしもべの立場に立たない限り、神は主としての立場をとることがおできになりません。<font color=red>神は私たちをご自身の目標に献身させようと招いておられるのではありません。神は私たちが無条件に自分自身を神の御心に従わせることを求めておられるのです。</font>
7月21日*****************************
<font color=blue><b>あなたがたは、世界の光です。
マタイ 5.14</font></b>
自分はみことばを宣べ伝えるべきでしょうかと、ある人々は尋ねます。あるいは、自分は職業か商売の口を見つけた方がいいでしょうか、と。神の子どもの前には2本の道があるとでも言うのでしょうか。みことばのどこにこのようなみことばを宣べ伝えるべきか、仕事を見つけるべきかといった二者択一を見い出すことができましょう。私たちはそのような選択をするために召されているのでしょうか。神の民は証のための灯火です。では、証をしないキリスト者というものが存在するのでしょうか。どこか不思議なことばですが、すべての者が灯火だと言っている一方で、数人の人だけがみことばを宣べ伝えるということはあり得ないことです。そうです。地上には神の生ける証人がいるのであり、そのことのゆえに私も生きているのです。<font color=red>私たちすべての者にとってこの一本の道があるのであり、ほかの道はありません。主にある者で、主を証しない者はだれもいません。</font>
すべての者はキリストを宣べ伝えなければなりません。これは重要なことです。
そして2番目の質問として、すべての時間をキリストを宣べ伝えるために費やすべきか、あるいはいくらかはパンを得るために時間を割くべきかという問題があります。というのは、すべては私たちの中心がどこにあるかということで決まってきます。神は仕事に説教を付け加える者をお用いになることがおできになりません。神は説教に仕事を付け加える者を用いることがおできになります。単純にどちらが付随的なものかによって決まるのです。<font color=red>仕事ではなく神が、私たちの生活の中心であるべきです。</font>
7月23日*****************************
<font color=blue><b>あなたの目は前方を見つめ、
あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
箴言 4.25</font></b>
<font color=red>神の子どもである私たちにとってもっともたましいを傷つけること
は、私たちが内側をのぞき込むこと</font>なのです。気がついていたでしょうか。罪は生かしておけないものであるという認識はすでにありますが、<font color=red>内省はそれほど危険視されていません。内省は明らかな病気よりもさらに恐ろしい、気がつかないでいる病です。</font>私があなたに「誇ることは間違ったことでしょうか」と質問すれば、あなたにはその答えがわかります。もし私がもう一度、「ねたみはどうでしょうか」と尋ねれば、「もちろん間違っています」とあなたは答えます。けれどもあなたは<font color=red><i>自分が自分自身を見つめるのは特に霊的だからだと想像しつつ、一日に100回も自分自身を見つめ、そしてそのようにすることの悪に気がつかないでいる可能性がある</font></i>のです。
おやめなさい。御霊によって歩むことを学ぶのです。あるたましいにキリストを宣べ伝えるように動かされるのを感じますか。この切迫感が自分から出ていることか、神から出ていることか、立ち止まって自己吟味するのですか。あなたが質問を繰り返している間に、機会は去ってしまいます。行動しなさい。そうすればあなたは解放されるのです。
7月25日*****************************
・・・・・・・・・・・・どうすれば私たちは主を喜ばす生き方ができるのでしょうか。それはキリストにある真の安息、そしてキリストがなしてくださったことがらに見い出される真の安息に私たちの生き方の基準をおくことによってのみ可能なのです。・・・・・・・・・・・
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