キリスト集会 メーリングリスト 聞き取りアップより・・・
【2】聖書的な教会生活
2013年11月26日(火)吉祥寺学び会 ベック兄
ヨハネ伝
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
今日、前に言いましたように、テサロニケ第1の手紙5章の後半について考えたいと思います。すなわち、12節から28節のあいだには、光の子が永遠のいのち、すなわち全く新しいいのちを持っており、また新しい生活を導く力をも持っていることが記されています。
今日のテーマは「聖書的な教会生活」です。その際に、この箇所を次の4つに分けて考えることが便宜上許されると思います。すなわち次のことを言えるのではないでしょうか。
第1番目、健全な教会の取るべき態度。長老たちに対してだけではなく、他の兄弟姉妹に対してです。
第2番目、健全な教会の特長。すなわち、奪われざる喜び、絶えざる祈り、そして万事感謝することです。
第3番目、健全な教会の奥義。すなわち、御霊が消されていないこと、預言が軽んじられていないこと、そしてすべてのものを識別することです。
第4番目、健全な教会の頭について。全く清めてくださるお方であり、再び来られるお方であり、保証人になられるお方であるイエス様です。
まず第1に、健全な教会の取るべき態度について
1.長老たちに対する態度と他の兄弟姉妹に対する態度とに分けて考えることができると思います。
牧師という言葉は、新約聖書の中でただ一回だけ出てくるのですが、それ以外は長老という言葉が何回も使われています。しかもその長老は、単数ではなくいつも複数のかたちで使われています。
もちろん信者は誰でも他の人に対して、責任を持っており、お互いの交わりを通して成長すべきです。しかしながら、特に集会全体の動きに注意して、すべての行ないに対して責任を取る者は、まず長老たちの仕事であるといえます。今日、大部分のいわゆるキリスト教会で行なわれているのは、万人祭司制ではなく、牧師制度です。
しかしそれは決して聖書的なものではありません。なぜなら、集会全体の動きに注意し、責任を取る長老は、決して一人ではなく、何人かの人々であるべきだからです。もちろんそれは、決して一つの職業ではなく、奉仕であることは言うまでもありません。この奉仕をする者は、比較的大きな責任を持っているわけです。
ヤコブ書3章1節に、ヤコブは当時の信じる者に書いたのです。
3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
ヘブル書
13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 長老たちは、非常に現実にそくした方法で、集会における調和を高めていくのです。長老たちは、イエス様を信じる心の熱い人たちであり、生涯イエス様を第一として生きる人たちであり、イエス様の恵みが自然と溢れている人々である時は、そこに健全な教会、霊的な集会が見られるものと期待してよいでしょう。
その反面、長老たちはこの世の問題に没頭しており、うわべの興味に心を奪われて、みことばを読み祈る時間はないほど忙しいような所には、その群れの中に冷ややかな死んだような空気が漂っているものと思って間違いないのです。また長老たちは、責め、戒め、勧めなければならない。
第2テモテ
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
テトス書
1:13 この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、
2:15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。
信仰にもどることは、何事であれ全き権威を持って戒めなければなりません。健全な教えに留まっていようとしない人々は、激しく責めて勧めなければなりません。長老たちは、信仰熱い心を持って主張しなければなりません。このようにイエス様を第一とし、教会を導く長老たちが用いられ、敬われるべきです。
【2】聖書的な教会生活
2013年11月26日(火)吉祥寺学び会 ベック兄
ヨハネ伝
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
今日、前に言いましたように、テサロニケ第1の手紙5章の後半について考えたいと思います。すなわち、12節から28節のあいだには、光の子が永遠のいのち、すなわち全く新しいいのちを持っており、また新しい生活を導く力をも持っていることが記されています。
今日のテーマは「聖書的な教会生活」です。その際に、この箇所を次の4つに分けて考えることが便宜上許されると思います。すなわち次のことを言えるのではないでしょうか。
第1番目、健全な教会の取るべき態度。長老たちに対してだけではなく、他の兄弟姉妹に対してです。
第2番目、健全な教会の特長。すなわち、奪われざる喜び、絶えざる祈り、そして万事感謝することです。
第3番目、健全な教会の奥義。すなわち、御霊が消されていないこと、預言が軽んじられていないこと、そしてすべてのものを識別することです。
第4番目、健全な教会の頭について。全く清めてくださるお方であり、再び来られるお方であり、保証人になられるお方であるイエス様です。
まず第1に、健全な教会の取るべき態度について
1.長老たちに対する態度と他の兄弟姉妹に対する態度とに分けて考えることができると思います。
牧師という言葉は、新約聖書の中でただ一回だけ出てくるのですが、それ以外は長老という言葉が何回も使われています。しかもその長老は、単数ではなくいつも複数のかたちで使われています。
もちろん信者は誰でも他の人に対して、責任を持っており、お互いの交わりを通して成長すべきです。しかしながら、特に集会全体の動きに注意して、すべての行ないに対して責任を取る者は、まず長老たちの仕事であるといえます。今日、大部分のいわゆるキリスト教会で行なわれているのは、万人祭司制ではなく、牧師制度です。
しかしそれは決して聖書的なものではありません。なぜなら、集会全体の動きに注意し、責任を取る長老は、決して一人ではなく、何人かの人々であるべきだからです。もちろんそれは、決して一つの職業ではなく、奉仕であることは言うまでもありません。この奉仕をする者は、比較的大きな責任を持っているわけです。
ヤコブ書3章1節に、ヤコブは当時の信じる者に書いたのです。
3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
ヘブル書
13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 長老たちは、非常に現実にそくした方法で、集会における調和を高めていくのです。長老たちは、イエス様を信じる心の熱い人たちであり、生涯イエス様を第一として生きる人たちであり、イエス様の恵みが自然と溢れている人々である時は、そこに健全な教会、霊的な集会が見られるものと期待してよいでしょう。
その反面、長老たちはこの世の問題に没頭しており、うわべの興味に心を奪われて、みことばを読み祈る時間はないほど忙しいような所には、その群れの中に冷ややかな死んだような空気が漂っているものと思って間違いないのです。また長老たちは、責め、戒め、勧めなければならない。
第2テモテ
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
テトス書
1:13 この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、
2:15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。
信仰にもどることは、何事であれ全き権威を持って戒めなければなりません。健全な教えに留まっていようとしない人々は、激しく責めて勧めなければなりません。長老たちは、信仰熱い心を持って主張しなければなりません。このようにイエス様を第一とし、教会を導く長老たちが用いられ、敬われるべきです。
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