風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

昨日と今日の 「荒野の食卓」より・・ (by ウォッチマン・ニー)

2004-03-03 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、・・・・
大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方
         ユダ 24


 自分の生活を主の御手に託した私たちへの すばらしい約束が ここにあります。というのは 私たちの「栄光の御前」への小道には たくさんの罠が仕掛けられているのですが、主はそうした罠から 私たちを守ることを引き受けてくださっているからです。私たちはどんなとき つまずきますか。障害物に全然気づかず、道で足が 隠れていたものにぶつかったときです。しかしこのみことばは、私たちが普段 意識の及ばないまさにその領域で 神の加護があることを 確信させてくれます。もし私たちが 無制限に主に面倒を見ていただくことに決めたのなら、未知のものを恐れる必用はなくなります。神は何回も何回も、そのときは全く気づかないでいる様々な危険から、私たちを守っていてくださることを知ったなら、私たちはどんなに驚くことでしょう。


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主はアブラムに仰せられた。「あなたは・あなたの生まれ故郷・・・・
を出て、わたしが示す地へ行きなさい」
     創世記 12.1


これはアブラム(後のアブラハム)にとって 2回目の召しでした。1回目は「カランに住む以前」(使徒7.2) メソポタミヤにいたときのものです。アブラムはカルデヤから出て行きましたが、それだけでは十分ではなかったようです。カランで過ごした日々についての記録が なにも残されていないのは 厳粛な意図があります。神はご自身の召しを貫かれました。私たちは時々、ぐずぐずすることで主の要求に手心を加えていただこうと願います。しかし主は要求を緩和することはなさいません。
 なぜなら主が何年も前に 私たちの前におかれた目的地を あきらめてしまわれたなどということはありえないからです。私たちが目的地を失ってしまっても、神はそれを失っていません。

神の目から見たとき、カランはメソポタミヤからほとんど前進していません。アブラムは移動したということに満足していたのかも知れません。しかし神は アブラムをある地へと召しだされました。真の召しは いつでも高度な召しです。途上の家で自己満足してはなりません。問題は 私たちが出発地点からどれだけ遠くに行ったか ということではなく、私たちの心が今でも主の目的地に向いているかどうかなのです。


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  ご馳走様でした・・・。>神様
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