風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

主は何をあなたに求めておられるのか 【1】

2007-08-15 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
「夏の御代田シリーズ」   (抜粋)
   羽石兄メッセージ  2007.7.27

    ☆引用聖句  ミカ書6章8節

  主はあなたに告げられた。
  人よ。何が良いことなのか。
  主は何をあなたに求めておられるのか。
   それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、
  へりくだって
  あなたの神とともに歩むことではないか。

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今晩、初めてこのような集会に参加されていらっしゃる方ももしかしたらおいでになるかもしれませんけれども、私たちの集会というのは、ただ主イエス様だけを大切にする集会なのです。

イエス様がいったい何をしてくださったか。あるいはイエス様がいったい何を私たちに求めていらっしゃるのか。そういうことだけを大切にする集会なのです。ですから明日、あるいは明後日までいらっしゃると思うのですけれども、そういう観点から色々な方々のお話を聞いていただけたらというふうに思います。


私自身もそうですけれども、イエス様を知る前はおそらく自分のことしか考えなかったと思います。すなわち自分にとって何が得になることか、自分にとって何が損になることか、こういう考えが自分の心を占めていたのではないかと思うのです。そのような考えというのは残念ながら今でもあるのです。


けれどもイエス様を知ってからはその考えにある意味でブレーキがかかるようになったというふうに言ってもよいのではないかと思うのです。すなわち自分のこと、自分にとって損か得かということではなくて、主イエス様がいったい何を求めているのかということがいつも思い起こされるようになったということなのです。


イエス様を見失ってしまうと、また昔のように自分のことしか考えなくなってしまうのですけれども、すぐにまたイエス様が語りかけてくださって、あなたのしていることはわたしが望んでいることではない。そういうふうに言ってくださる。私自身も自分がやっていることははたしてイエス様が喜ばれることかどうかということを例えば一日の終わりに振り返る。


そういうもうひとつ別の目を持てるようになったということは言えるのではないかと思うのです。そして多くの人はそのようなことを窮屈に考えるかもしれません。すなわち、イエス様を信じると自分の好きなことを出来なくなってしまうのではないかというふうに考える人はたくさんいると思うのです。だから自分はそういう、いわゆる宗教から遠ざかっていたほうがいい。自分は自分の好きなことを好きなようにやりたいから、そういう宗教とは関わりを持ちたくないというふうに思う方はたくさんいらっしゃるのだと思います。かつての私も実はそういう者でありました。


けれども一たび主イエス様を知るようになって、イエス様を信じるようになったあとは、実は前のほうが自分は窮屈だったのではないかというふうに思うのです。どういうことかと言うと、自分はやりたいことをやりたいようにやるのだというふうに歩んで行く歩みというのは、気が付かないうちに自分自身の欲望の奴隷になってしまうということなのです。


自分でもうその自分の思いを抑えられなくなってしまう。そして気が付かないうちに自分は自由だと思っていながら、本当に不自由になってしまう。そういう事実に気が付くようになったのです。


今回、たくさんの子どもたちがこの場所に集っています。もしその子どもたちにその子どもたちの好きなものだけを好きなだけ与えたら、その子どもたちはいったいどういうふうになってしまうのでしょうか。


例えば、野菜が嫌いだという子どもに対して、肉とか卵ばっかり食べさせたら、その子どもはどうなるのでしょうか。おそらく近い将来、健康を害するようになると思います。あるいは、欲しいと言うおもちゃを全部買い与えていたら、その子はどうなるのでしょうか。何も我慢のできない大人になってしまう。

・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・


多くの人はいわゆるクリスチャンというのは品行方正で、親切で、人に対して例えば慈善を行なう。そういう印象を持っていると思います。

あるいは定期的に献金をしたり、あるいは洗礼を受けたりすることはクリスチャンになる条件だというふうに考えていらっしゃる方もいると思います。

けれども聖書を読みますと、主が私たちに求めておられるのは、そのような良い行ないであるとか、あるいは献金をすることとか、あるいは洗礼を受けるとか、そういうことではないということが分かるのです。ここにございましたように、

・公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって
 あなたの神とともに歩むことではないか。

これが主イエス様を信じる者の歩みの土台になっているというふうに言ってよいと思います。

具体的な行ないというのは、結果として表われるものであって、そのこと自体が私たちを罪から救うわけではない。私たちに罪からの解放を与えるわけではないということなのです。少しこの、公義を行なうこと、誠実を愛すること、へりくだって神とともに歩むことについて具体的に考えてみたいと思います。


                   続く
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