風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

主は何をあなたに求めておられるのか  【2】

2007-08-15 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
聖書は義ということばをよく使うのですけれども、義ということばは本来、人間のために用いられることばではないというふうに言ってもよいと思うのです。

義ということばは、神に対して使われることばであります。新約聖書の269ページをお開きになってください。ローマ人への手紙の3章の25節と26節です。269ページ。

25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、
  なだめの供え物として、公にお示しになりました。
  それは、ご自身の義を現わすためです。
  というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって
  見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、
  また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

とあります。

・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・


すなわち、正しい方、間違いのない方、一点のシミもない方、完全に聖なる方、これは神しかいないということであります。どんなに尊敬され、立派な人間であっても、残念ながら神の前で正しいと認められる人はいないというのが聖書の結論であります。正しさ、完全な意味での正しさというのは神のものである。


けれども26節の最後にありましたけれども、イエスを信じる者を義と認めてくださるというふうにもここに書かれているわけです。イエス様を信じるというのは、いったいどういうことなのでしょうか。それは決してお題目のように、イエス様を神様だというふうに唱えることでも、信じ込むことでもないのです。

そうではなくて、正直に自分自身の罪を認めて、イエス様から提供されている救いを受け入れることであります。


生まれながら罪を犯すことしかできないような人間が、いったいどうして義とされるのか。どうして主はそのような人間を義としてくださるのか。それはただ一点、私たちが正直に自分のありのままの姿を認めて、主のあわれみを求めるという、その態度の中に人間の真実があるからだというふうに言ってもよいと思います。

・・・・・・・・・詩篇の51篇の6節。・・・・・・


6  ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。
  それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
とあります。


私たちの心のうちの真実というのはいったい何でしょうか。それは私たち自身の正しさではなくて、私たちは正直に自分の罪を主の前に告白する。そのような心の態度であります。

・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・


そして、そのような(ダビデのような)正直な態度を真実な者として受け入れてくださるということなのです。私たち人間にできる最高、且つ最善のことは、もう正直になること。それだけだと言っても過言ではないと思うのです。聖書を読みますと、私たちはどんなに大きな罪を犯しても、主イエス様が赦してくださるというのです。


主イエス様が私たちの身代わりに罰を受けてくださった。だから私たちはどんなに大きな罪を犯しても、それは赦してくださる。けれどもそれには一つ条件があって、私たちは正直にならなければいけない。私たちの中に偽りがあってはいけないということなのです。

・・・・・・・・・・・・箴言の6章の16節から19節にこういうみことばがございます。・・・・・・じゃあいったい何を忌み嫌うかという、そういう個所なのですけれども。・・・・・・・


16 主の憎むものが六つある。
  いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。
17 高ぶる目、偽りの舌、
  罪のない者の血を流す手、
18 邪悪な計画を細工する心、
  悪へ走るに速い足、
19 まやかしを吹聴する偽りの証人、
  兄弟の間に争いをひき起こす者。


七つ書いてあるのですけれども、共通しているのは嘘であります。正直でない心。正直でない態度。これを主は忌み嫌われるというのです。


私たちは相変わらず不完全ですから、色々な過ちを犯しますけれども、私たちが正直であるかぎり、主は正しい方向に導いてくださると私は確信しております。



続く
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