(自分なりに省略しています。赤文字も自分のためです。全文を読まれたい時は、リンクのメッセージ集にてお読みください)風のいろ
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第1ヨハネ3:1-3
私たちが神の子どもと呼ばれるために、
――事実、いま私たちは神の子どもです。――
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。
後の状態はまだ明らかにされていません。
しかし、キリストが現われたなら、
私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、
キリストが清くあられるように、自分を清くします。
最近、ある奥さんは次のように話したんです。「私は、逃げるためにだけ結婚した。主人を愛さなかったし、今も同じです。」 少なくても25年間ぐらい結婚してる。 ちょっと、悲劇的なのではないでしょうか。
結局、人間は、ほんとの意味で喜ぶことができなければ、人生は面白くない退屈なものになるなのではないでしょか。
イエス様は、どうしてこの世に来られたかと言いますと、結局、私たちはどういう状況におかれていても、喜ぶことができるためです。また、あらゆる不安から、すべての心配から解放されるためです。また前向きに生きる希望をもって生活することができるなのではないでしょうか。
結局、「愛されてる」と分かれば、人生は変わります。
確かに、多くの人々は、愛されてることなんてあり得ない。苦労してるばかり。面白くないことばかり。
けども聖書から見ると、覚えるべきなのは、いわゆる人間の考えてる「不幸」とは、運命でもないし、天罰でもないし、<font color=red>愛されてる証拠です。 今、分からなくても、けど、いつか必ず、分かるようになります。</font>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意味は、「現在よりも将来の方が大切です」。今の人生がすべてだったならば、ひどすぎ。人間はみんな悩む者だからです。けども、大切なのは永遠の世界です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信ずる者のしあわせの根拠とは、いったい何なのでしょうか。
今話したように、第一番目に「私たちは今すでに神の子どもです」。もう最高です。
皇太子は誇るかもしれない。「俺は皇太子です!」けど、普通の人間よりも悩んでるじゃない?いゃー大変です。
犯罪人の長男は、ある日聞くかもしれない。「ママ、ママー、お父さんはどこにいるの?どこの家に行ってもパパがいる。どうしてうちにはいないの?ママ、どうしていないの?」「刑務所。」「いつ出る?」「もう死ぬまで出ない。」…そういう子ども、いるでしょ?皇太子として生まれる者もいる。
神は何を考えてるの?
けども、みんな同じように愛されてる。理性でもってつかめない。考えられないけども、間違いなくそうなんです。主は、区別なし人間のこと大好きです。
けども、皇太子に生まれても大したもんじゃない。
「私は、神の子どもです!天と地を造られたお方の子どもです!」あんまりすばらしいから、想像できない。考えられない、けども事実です。
・・・・・・・・・・・・・・
天国に行ってから、初めて「恵み」とはどういうものか、ちょっと違う意味で知るようになるのではないでしょうか。
たとえば、どうして、私たちはいつも「喜びの集い」と言うなのでしょうかね?…悔い改められるからです。悔い改めれば、「もう私は駄目」と思うようになれば、これこそ恵みです。
もちろん「信ずること」もそうなんですね。・・・・・・・・・・・・・・
<font color=red>悔い改めれば、結局「イエス様は赦された」と信ずることができる。分かったからじゃない。いい気持ちになったからじゃない。人に納得させられたからじゃなくて、聖書はそう言ってるからです。</font>
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イザヤ書の中で45章22節。1102ページ。
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。
聖書を勉強すれば救われる、なのではない。教会に行くことによって、洗礼を受けることによって救われる、なのではない。「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
・・・・・・・・・・
何年も前だったんですけども、沖縄である独身の大学の教授は、ま、女性なんですけども、車に乗って、乗りながら、脳溢血になったんです。とんでもない事故になったんですけども、他の車も他の人間もいなかったから、ある意味で助かったんです。
もちろん身体、不自由になったし、はじめて見舞いに行ったとき、もう、泣いてばかり。結局「もう、おしまい」。分かるでしょ。「もちろん、もう働けないし、死にたい。どういうふうに死ぬことができるのか」としか考えられなかったのです。
けども、やっぱり主は恵んでくださって、彼女の心の目を開いてくださったのです。やっぱり、「今まで、自分自分自分のことしか考えなかった。私のわがままをお赦しになって」と、叫ぶようになったのです。
今、会うたびごとに嬉しく、輝いてる。身体は相変わらず不自由なんです。けど、関係ないよ。「私は、生けるまことの神の子どもです」と、喜んで言えるようになったのです。
<font color=red>信ずる者は、いったい、どうして主なる神の子どもとなったのでしょうか。頑張ったから、悔い改めたから、努力したからじゃない。主はあわれんでくださったからです。全部恵みです。</font>
・・・・・・・・・・・
救われた人々について、ヨハネは「私たちはキリストに似た者となる」と書いたのです。どういうふうにキリストに似た者となることができるなのでしょうか。答えは、コリント第二の手紙の3章18節に書かれてます。318です。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
<font color=red>イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられた主イエス様を見上げることです。主イエス様を仰ぎ見ると、やっぱり考え方変わる。価値観も変わる。勝利も与えられ、大いに祝福されます。
結局、人間は、その人が見るものの姿に変えられるなのではないでしょうか。</font>詩篇の作者であるダビデは、詩篇の34篇5節に次のように書いたのです。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。…<font color=red>あなたの目が捜し求めてるものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられてるものに、あなたはついて行き、その姿に変えられます。
結局イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して満足することができません。イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き支えてくれるものは、何一つありません。</font>
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは、いったいどこを見てるなのでしょうか。何に目を留めてるなのでしょうか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。
そのような状態になる人々は、イエス様は用いることができない。祝福することができない。知らないうちに悪魔の道具にされてしまう。
自分自身を見たり、他人を見たり周囲を見たりしないで、ただ高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられていく秘訣です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10何年前でしょうかね、病院に行って、フジテレビのニュースキャスターである山川千秋兄弟に出会ったのですが、状態は決して良くなかった。意識不明だったらしい。祈った後で涙が出たから、間違いなく聞いたに違いない。
そのとき、奥様である穆子姉妹は、何回も何回も「もう少しで、もうちょっとで、イエス様と一緒になれます」と。「もうすぐイエス様と一緒になれますよ」とご主人に言ったんです。
また<font color=red>10日後、意識戻ったんです。そのとき、「あなたがたの読んだ聖書の箇所、あなたがたの祈り、全部ちゃんと分かったよ。反応できなかっただけ」。</font>
ですから、そういう病人に見舞いに行ってもね、みことばをお読みになれば、祈れば、本人は分かる。理性でもってもちろん分からないよ。意識がないからです。けど、霊でもって必ずつかむことができる。ですから「もう駄目だ」と考えないで。
あの奥さんは、「もうちょっと」と言ったんです。
・・・・・・・・・・・・・・・
<font color=red>私たちの人生においては、いろいろなわれわれの重荷となるもの、われわれの力を無力にするものがもちろんあります。その結果、私たちは「もう駄目。すべてを投げ出してあきらめてしまいたい」と思うような気持ちになることもあるでしょう。
けど、イエス様がわれわれのうちに新しく形造られるべきであるという、切なる願いをもって主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難も通り抜け、新しく形造られるようになります。</font>
私たちは、キリストのありのままの姿をみるようになる。いつでしょうかね。
もちろん、空中再臨のときです。
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いつ、イエス様に似た者となるなのでしょうか。そのときです。イエス様と会う瞬間、完全に変えられるようになります。
新しい体、よみがえりの身体、栄光の身体を持つようになるだけではない。キリストと同じ姿に変えられます。そして、私たちはいつまでも主とともになることと考えると、やっぱり安心して将来に向かうことができるなのではないでしょうか。
再臨を待ち望む者は、イエス様のために生きたい。滅び行く人のために生きたいと心から願うようになります。
ヘブル書の著者は、勝利の秘訣について次のように書いたのです。12章2節。404ページになります。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、
はずかしめをものともせずに十字架を忍び、
神の御座の右に着座されました。
イエス様から目を離してはいかん。
自分の代わりに十字架の上で犠牲になったイエス様、復活なさったイエス様、高く引き上げられたイエス様、そして、近いうちにまた来られるイエス様のことを考えると喜ぶことができる。用いられるようになります。
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第1ヨハネ3:1-3
私たちが神の子どもと呼ばれるために、
――事実、いま私たちは神の子どもです。――
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。
後の状態はまだ明らかにされていません。
しかし、キリストが現われたなら、
私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、
キリストが清くあられるように、自分を清くします。
最近、ある奥さんは次のように話したんです。「私は、逃げるためにだけ結婚した。主人を愛さなかったし、今も同じです。」 少なくても25年間ぐらい結婚してる。 ちょっと、悲劇的なのではないでしょうか。
結局、人間は、ほんとの意味で喜ぶことができなければ、人生は面白くない退屈なものになるなのではないでしょか。
イエス様は、どうしてこの世に来られたかと言いますと、結局、私たちはどういう状況におかれていても、喜ぶことができるためです。また、あらゆる不安から、すべての心配から解放されるためです。また前向きに生きる希望をもって生活することができるなのではないでしょうか。
結局、「愛されてる」と分かれば、人生は変わります。
確かに、多くの人々は、愛されてることなんてあり得ない。苦労してるばかり。面白くないことばかり。
けども聖書から見ると、覚えるべきなのは、いわゆる人間の考えてる「不幸」とは、運命でもないし、天罰でもないし、<font color=red>愛されてる証拠です。 今、分からなくても、けど、いつか必ず、分かるようになります。</font>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意味は、「現在よりも将来の方が大切です」。今の人生がすべてだったならば、ひどすぎ。人間はみんな悩む者だからです。けども、大切なのは永遠の世界です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信ずる者のしあわせの根拠とは、いったい何なのでしょうか。
今話したように、第一番目に「私たちは今すでに神の子どもです」。もう最高です。
皇太子は誇るかもしれない。「俺は皇太子です!」けど、普通の人間よりも悩んでるじゃない?いゃー大変です。
犯罪人の長男は、ある日聞くかもしれない。「ママ、ママー、お父さんはどこにいるの?どこの家に行ってもパパがいる。どうしてうちにはいないの?ママ、どうしていないの?」「刑務所。」「いつ出る?」「もう死ぬまで出ない。」…そういう子ども、いるでしょ?皇太子として生まれる者もいる。
神は何を考えてるの?
けども、みんな同じように愛されてる。理性でもってつかめない。考えられないけども、間違いなくそうなんです。主は、区別なし人間のこと大好きです。
けども、皇太子に生まれても大したもんじゃない。
「私は、神の子どもです!天と地を造られたお方の子どもです!」あんまりすばらしいから、想像できない。考えられない、けども事実です。
・・・・・・・・・・・・・・
天国に行ってから、初めて「恵み」とはどういうものか、ちょっと違う意味で知るようになるのではないでしょうか。
たとえば、どうして、私たちはいつも「喜びの集い」と言うなのでしょうかね?…悔い改められるからです。悔い改めれば、「もう私は駄目」と思うようになれば、これこそ恵みです。
もちろん「信ずること」もそうなんですね。・・・・・・・・・・・・・・
<font color=red>悔い改めれば、結局「イエス様は赦された」と信ずることができる。分かったからじゃない。いい気持ちになったからじゃない。人に納得させられたからじゃなくて、聖書はそう言ってるからです。</font>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イザヤ書の中で45章22節。1102ページ。
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。
聖書を勉強すれば救われる、なのではない。教会に行くことによって、洗礼を受けることによって救われる、なのではない。「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」
・・・・・・・・・・
何年も前だったんですけども、沖縄である独身の大学の教授は、ま、女性なんですけども、車に乗って、乗りながら、脳溢血になったんです。とんでもない事故になったんですけども、他の車も他の人間もいなかったから、ある意味で助かったんです。
もちろん身体、不自由になったし、はじめて見舞いに行ったとき、もう、泣いてばかり。結局「もう、おしまい」。分かるでしょ。「もちろん、もう働けないし、死にたい。どういうふうに死ぬことができるのか」としか考えられなかったのです。
けども、やっぱり主は恵んでくださって、彼女の心の目を開いてくださったのです。やっぱり、「今まで、自分自分自分のことしか考えなかった。私のわがままをお赦しになって」と、叫ぶようになったのです。
今、会うたびごとに嬉しく、輝いてる。身体は相変わらず不自由なんです。けど、関係ないよ。「私は、生けるまことの神の子どもです」と、喜んで言えるようになったのです。
<font color=red>信ずる者は、いったい、どうして主なる神の子どもとなったのでしょうか。頑張ったから、悔い改めたから、努力したからじゃない。主はあわれんでくださったからです。全部恵みです。</font>
・・・・・・・・・・・
救われた人々について、ヨハネは「私たちはキリストに似た者となる」と書いたのです。どういうふうにキリストに似た者となることができるなのでしょうか。答えは、コリント第二の手紙の3章18節に書かれてます。318です。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
<font color=red>イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられた主イエス様を見上げることです。主イエス様を仰ぎ見ると、やっぱり考え方変わる。価値観も変わる。勝利も与えられ、大いに祝福されます。
結局、人間は、その人が見るものの姿に変えられるなのではないでしょうか。</font>詩篇の作者であるダビデは、詩篇の34篇5節に次のように書いたのです。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。…<font color=red>あなたの目が捜し求めてるものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられてるものに、あなたはついて行き、その姿に変えられます。
結局イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して満足することができません。イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き支えてくれるものは、何一つありません。</font>
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは、いったいどこを見てるなのでしょうか。何に目を留めてるなのでしょうか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。
そのような状態になる人々は、イエス様は用いることができない。祝福することができない。知らないうちに悪魔の道具にされてしまう。
自分自身を見たり、他人を見たり周囲を見たりしないで、ただ高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられていく秘訣です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10何年前でしょうかね、病院に行って、フジテレビのニュースキャスターである山川千秋兄弟に出会ったのですが、状態は決して良くなかった。意識不明だったらしい。祈った後で涙が出たから、間違いなく聞いたに違いない。
そのとき、奥様である穆子姉妹は、何回も何回も「もう少しで、もうちょっとで、イエス様と一緒になれます」と。「もうすぐイエス様と一緒になれますよ」とご主人に言ったんです。
また<font color=red>10日後、意識戻ったんです。そのとき、「あなたがたの読んだ聖書の箇所、あなたがたの祈り、全部ちゃんと分かったよ。反応できなかっただけ」。</font>
ですから、そういう病人に見舞いに行ってもね、みことばをお読みになれば、祈れば、本人は分かる。理性でもってもちろん分からないよ。意識がないからです。けど、霊でもって必ずつかむことができる。ですから「もう駄目だ」と考えないで。
あの奥さんは、「もうちょっと」と言ったんです。
・・・・・・・・・・・・・・・
<font color=red>私たちの人生においては、いろいろなわれわれの重荷となるもの、われわれの力を無力にするものがもちろんあります。その結果、私たちは「もう駄目。すべてを投げ出してあきらめてしまいたい」と思うような気持ちになることもあるでしょう。
けど、イエス様がわれわれのうちに新しく形造られるべきであるという、切なる願いをもって主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難も通り抜け、新しく形造られるようになります。</font>
私たちは、キリストのありのままの姿をみるようになる。いつでしょうかね。
もちろん、空中再臨のときです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつ、イエス様に似た者となるなのでしょうか。そのときです。イエス様と会う瞬間、完全に変えられるようになります。
新しい体、よみがえりの身体、栄光の身体を持つようになるだけではない。キリストと同じ姿に変えられます。そして、私たちはいつまでも主とともになることと考えると、やっぱり安心して将来に向かうことができるなのではないでしょうか。
再臨を待ち望む者は、イエス様のために生きたい。滅び行く人のために生きたいと心から願うようになります。
ヘブル書の著者は、勝利の秘訣について次のように書いたのです。12章2節。404ページになります。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、
はずかしめをものともせずに十字架を忍び、
神の御座の右に着座されました。
イエス様から目を離してはいかん。
自分の代わりに十字架の上で犠牲になったイエス様、復活なさったイエス様、高く引き上げられたイエス様、そして、近いうちにまた来られるイエス様のことを考えると喜ぶことができる。用いられるようになります。
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