風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

【3】聖書的な教会生活

2013-12-15 | 信仰
【3】聖書的な教会生活
2013年11月26日(火)吉祥寺学び会
ベック兄 

 次に他の兄弟姉妹たちに対する態度について、考えることにしましょうか。ここでパウロは、3種類の信者、すなわち怠惰な者、小心な者、弱い者について語っています。そして、このような者に対する態度についても述べています。まず、怠惰な者を戒めなさいと言っています。

 ここで怠惰な者とは、原語によるとただ単に怠け者という意味だけでなく、自分勝手な道を行こうとする者、あるいは秩序を乱す者という意味をも含んでおり、そのような者は、どこの教会でもいるものです。そしてそのような者は、自分自身を損なうだけでなく、教会全体の秩序を乱すために、厳しく戒められなければならないのです。

 次に小心な者は、私たちの助けを必要としています。自分自身の内側を見たり、周囲を見たりして、小心な者は常に何らかの不安と心配を持っているのです。彼らは、信仰に対する勇気を持つ必要があります。そのため、私たちは小心な者を励まし力づけなければならないのです。

 最後に弱い者について語られています。彼らは、単に体が弱いというだけではなく、集会の中でたくましい信仰生活を貫き通すことができない人々です。しかしながら、私たちはこのような弱い者をなおざりにしては許されません。なぜなら彼らは助けを必要とする者であり、強い者に担われ、支えられなければならない人であるからです。

 以上、要するに、いかなる事があってもそれらの人々に対する怒りを沈め、いろいろな決定や過ちにもかかわらず、彼らと交わろうとする心がけを持つことが必要です。集会の中で、いろいろな罪や悪い行ないを続ける人々がいる場合には、集会全体の秩序と清さとを保つために、そのような人から離れなければなりません。


 2番目、健全な教会の特長について考えましょうか。すなわち第1番目、奪われざる喜び、それから絶えざる祈り、そして3番目、万事感謝することです。

5:16 いつも喜んでいなさい。

5:17 絶えず祈りなさい。

5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 誰からも奪われることのない喜びがあるということです。主イエス様は、ただ単に私たちのために死んでくださっただけでなく、今もなお私たちとの交わりを提供してくださっているゆえに、私たちは損なわれることのない喜びを与えられているのです。我々の喜びは、私たち自身の中にあるのではなく、また私たちが持っているものや周囲のものの中にあるのではなく、イエス様ご自身の中にあります。

 イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当の喜びを意味しているのです。すべての他の喜びは、過ぎ行くものであり、永遠に続く喜びではありません。

 そして絶えず祈りなさい。これは第2番目の特長です。イエス様のご臨在を意識することが、私たちの重要な関心事となっているのでしょうか。絶えず祈るということは、自分勝手な行ないをせずに、絶えずイエス様により頼むということを意味しているのです。健全な信者の特長は、イエス様により頼むことです。絶えず祈ること、絶えず礼拝することは、信じる兄弟姉妹にとって義務ではなく、大いなる特権です。

 自分自身の力でやろうとする人は、私は祈らなくちゃならないと言いますが、イエス様により頼んでいる者は、自分の本当のみじめさを解かっている者は、私は祈ることを許されていると言うのです。健全な教会の特長とは、今話したように、まず奪われえない喜び、それから絶えず祈ることであり、そして3番目、万事感謝することです。

 すべての事に感謝することが、健全な集会の特長です。すべての事を通して、理解することができなくても、イエス様をより良く知ることができるのです。そしてイエス様は、より良く知ることが、最も価値のある事なので、私たちはいつでも、すべての事について感謝することができるのです。そして絶えざる超人間的な喜びこそが、主は与えたいと望んでおられるのです。

 これは絶えず祈ることとは、単なる提案ではなく、主の命令です。私たちが感謝するか、しないか、祈るか、しないか、絶えず喜んでいるか、いないかということは、我々にとってどうでもいい事ではない。イエス様のご命令に従わないことは、すべて悪と聖書は言っていますが、それほど事は重大なのです。

つづく

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