沈(シェン)爱(アイ)(台湾)
ある日、ニュースを見ていると、台湾のある有名な漫画家がたった51歳で急死したことを知りました。その知らせを聞いた時の気持ちは複雑でした。彼は漫画業界では傑出した人で、数多くの優れた作品を生み出していました。多くの人の羨望と憧れの的で、富も名声もありました。そんなにあっさり亡くなるとは思いもしませんでした。「どんなに有名でも、どれだけの地位があっても、死んでしまったら何になるのだ」とため息をつかずにはいられませんでした。それから、私自身の30年の漫画家人生を思い起こしたのです。…
青年の頃の夢
私は幼少の頃から漫画を描くのが好きで、本当に熱中し努力を重ねていました。25歳の時、幸運にもある漫画家と直接会い、彼がたくさんのファンに囲まれてちやほやされているのを見ました。大変うらやましく、「いつかこの人のようなスターになりたいな」と思いました。技量をプロの域にまで上げるには一生懸命努力し続ける必要があることは承知でしたが、代償を惜しまなければ必ずその日が来ると信じました。この思いが原動力となって、10年以上の間この道に没頭しました。技量向上のための参考として優れたグラフィックノベルを入手するのに給料の数ヶ月分の数万元をかけることもためらいませんでした。
家計は苦しくなりましたが一向に構いませんでした。腕を磨くためによく午前二時、三時まで描き、眠くてたまらなくなった時は少し仮眠を取りましたが、目を開けてすぐに考えることは、そのとき作業中のものをどのように仕上げるかでした。毎日、10時間以上いつも同じ姿勢で作画を続けたので、首や肩、背中、右手が頻繁に痛み、指が変形までして、視力が悪化するようになりました。それでも成功のためなら、ただ歯を食いしばって耐えました。自分の漫画が人から賞賛を得ると有頂天になり、もう人気漫画家になっていい車や豪邸のある自分を夢想していました。しかし現実の生活ではただの冴えない会社員であり、有名になるチャンスなどありませんでした。描くのがどれだけうまくても、稼ぎはいつまで経っても知れたものだろうと思うと、本当に悲しくなり落胆しました。
夢のための奮闘、毎度のスランプ
何とか前に進もうと、私は仕事を辞めてアジアで最大手の出版社に就職しました。そこが多くの有名な漫画家の登竜門だったからです。そこで働くことでいい機会を得れば、自分も名が売れるかもしれないと思ったのです。ある時、ある漫画出版社の社長が、現地の作家による漫画の雑誌の刊行を決定し、才能のある人材を探しにうちの会社に来ることになりました。私はその話を聞くと興奮して何日も眠れませんでした。この機会は天からの贈り物であり、ついに自分の才能を発揮して脚光を浴びるチャンスが巡って来たと思いました。このことではかなり思い悩みました。漫画のコンセプトから素材、プロットに色付けまで、検討に検討を重ねました。他の漫画もかなりの数を参考に読んでみました。日中は仕事があったので、毎晩徹夜で作業し、数日経ってやっと最終作品ができました。希望に溢れて私は上司に会いに行きました。ところが、驚いたことに考えが衝突し、口論になり、上司の機嫌を損ねてしまったのです。結局、上司は同僚の作品を選び、私の有名になるという望みは打ち砕かれたのです。
それ以後、私は猛烈に憤り、その時の自分の思慮の足りなさを後悔しました。しかし絶望はしませんでした。自分の漫画を持ち込みにその出版社に戻ったのです。グラフィックノベルの編集者に作品を大変気に入ってもらい、社内漫画家の一人になりました。その後間もなく、ある脚本家と共にグラフィックノベルの制作の担当になり、それに全てを注ぐ準備を整えましたが、その制作の成功が私が機嫌を損ねた上司の手に委ねられることを後になって知りました。私の気持ちは激しく交錯しました。自分の過去の行動を後悔し、自分の作品がどんなに優れていても上司の目に適うことは決してないだろうと悟り、あきらめるしかありませんでした。漫画家になるチャンスをまたしても失ったことに本当に落胆し、あまりに衝動的だった自分自身を憎みました。あのことがなかったら、その機会が出世への一歩だったかもしれません。夢の実現のために長年苦労と努力を重ねても失敗ばかりなことを思うと、絶望に満ちました。言葉にならないほど苦しく、先がとてつもなく陰鬱になったと感じました。
希望が打ち砕かれたことでひねくれた私には、描くことがしばらくとても苦痛になり、ペンと紙を見るのも嫌でした。しかし、漫画家になるという夢をそれだけの理由であきらめたくなかったので、描き続け、描き続け、描き続けました。数年が経ち、私は作品を様々な出版社に持ち込みましたが、それは海に小石を落とすようなもので、失敗の度にひどく心が痛み、ますます憂鬱になりました。よく川のそばに一人で座り、車や人が行き来するのを見ました。途方に暮れ、どうすればいいのか分からなかったのです。なぜあんなに一生懸命働き、全身全霊を捧げたのに、うまく行かないように運命づけられていたのか。ただそうならないように決まっていたのか。有名になれないように予め決められていたのか。なぜ人生はこんなにも厳しいのか。
いつも調子の悪い私を見た家族には、夢を諦めるよう何度も何度も勧められました。けれど私は、「あれほど時間と金をかけ、体を壊してまで何年も頑張って来たのに、そう簡単に諦められるか」と感じました。全く諦める気はなかったので、ひたすら描き続けましたが、60代になっても無名のまま、失望で胸が潰れそうでした。元同僚の作品が店頭に並んでいるのを見る度に、妬ましくて辛い思いをしました。自分の作画は彼らに負けないと思うものの、30年以上を漫画に費やしたのに何も世に出せなかったのです。何もかも静かになった夜中に、自宅で自分の漫画を見回して、一層絶望と苦痛を感じました。「この才能はどうしてこんなに無駄になったんだ。どうして有効活用する機会がなかったんだろう」とよく自問せずにはいられませんでした。それでも、有名になりたいという願望は檻の中の獣のように落ち着きがなく、たとえかすかな希望しかなくても私は一生懸命働いて挑戦し続ける覚悟でした。
でこぼこ道の果て、そして神の御前に
2017年、私はあちこちで情報を集め、アメリカとヨーロッパではグラフィックノベルの需要がかなり高いことを知りました。それで、欧米のどこかの国に行けば有名になってたくさん稼げるかもしれないと思いました。元気を取り戻した私は、欧米で一般的な漫画のスタイルを学び始めます。しばらく経って、ようやく作品を準備すると私はとても嬉しくなり、海外の出版社に作品を送ることを計画していました。ちょうどその時、終わりの日の神の救いが私に訪れたのです。私はそれを受け入れましたが、それでも漫画を完成させるのに常に没頭していました。それで心に平静を保つことができず、神の御言葉を真剣に読んでいませんでした。神の前に立ち返ったのは別の壁にぶつかってからだったのです。
ある日、次の神の御言葉を目にしました。
「人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終著點に連れて行くこと」より)
私は神の御言葉を思案し、大いに目が覚めました。私たちの運命は全て神の支配下にあり、神の手に委ねられていると悟ったのです。私たちはただの被造物ですから、自分で自分の運命を変えることはできません。明日何が起こるのかも分からない私たちに、どうして自分の運命の主になれるのでしょうか。私は過去30年間を思い返してみました。有名な漫画家になるためにたゆまず奮闘しましたが、スランプが相次ぎました。成功はいつも手が届きませんでした。ということは、私には自分の運命を掌握していないということではないのか。実際には、神は私たちが人生においてどんな仕事に就き、どんな成功を収め、どんなキャリアに進むかをとうの昔に決定されていたのです。しかし私は神の支配を理解していませんでした。群を抜こうとし、傲慢にも神の支配から脱せられると考え、自分自身の能力と勤勉に頼り続けました。その結果、自己も肉体も精神を完全に消耗し、戦傷に悩まされ、絶えず苦痛を背負って暮らしていました。
私の苦しみは求めるものを誤った結果だった
後に、私は神の御言葉を読みました。「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは「名声」で、もうひとつは「利得」。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。偉人や有名人のみならず、全ての人々が人生において従う全ての事柄は、「名声」と「利得」のふたつだけに関連するものです。そうではないですか。人間は、名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を手に入れれば、それを悦楽の追求と不徳な肉の快楽に利用できると考える。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。人間はこの引き渡しにあたり、実に一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切ありません。このようにして人間がいったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。無論できません。こうした人間は完全にサタンに支配されます。彼らはすっかり泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは一切不可能です。」(『唯一の神自身6』より)
神の御言葉に私は深く感動し、そこで明かされたことから、自分が有名な漫画家になりたいと絶えず思い、そのために必死で働いていたのは、サタンに惑わされて堕落していたからだと悟りました。名声と利益に縛られていたのです。教育や有名な偉人の影響により、私たちは「生きては傑人,死しては優れた鬼とならん」「頭角を現すは人の道」「人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる」といった誤った考えを植え付けられてきました。
その結果、私たちは群を抜いて人を追い越すことを正当な目標と思い誤り、「名声と地位があって、人に尊敬されて取り巻かれ、注目の的とならなければ人生に意味と価値はない」と思い込んでいます。私は有名な漫画家になるのに30年もの時間とエネルギーを費やしたことを何とも思わず、貯蓄を全て注ぎ込んだだけでなく、かなりのエネルギーを費やし健康まで危うくしました。作品の持ち込みの失敗はその度に大きな打撃で非常に苦痛を感じ、迷って優柔不断になり、あきらめようかと思ったものの、有名になることの栄光を考えたとたん、そこから抜け出せなくなっていたのです。
私は精一杯漫画の道を歩み続けました。神の救いが私に訪れた時でさえ、まだそれに向ける心がなく、それどころか、私は無我夢中で名声のために死に物狂いで働き続けました。それはまた別の障害物が私の前に立ちはだかるまででした。その時初めて、名声と富を追求するというサタンの考えに自分が支配され、踊らされていると悟ったのです。私はその考えの操り人形に過ぎず、そのためにどんな代償でも払い、全てを費やし、サタンの手の中でもてあそばれていたのです。それから私はまた有名人のことを考えました。彼らは広く知られていて、評判も良く、人々に囲まれて称賛されているからといって、心の中は安らいで満たされていたわけではありません。むしろ一層空しさを感じ、悲観的になって世の中にうんざりして、自ら命を絶っています。
多くの人は名声を得る前にしっかり足を地に着けていることができていますが、成功して有名になると心の空虚さが増し、退廃し堕落しました。飲み食いやどんちゃん騒ぎにふけり、肉体を満足させ欲望に身を任せる人もいれば、刺激を求めて麻薬に手を出し、犯罪に走って人生を棒に振る人もいました。名声のためだけに自分の体を売って、人格と尊厳をすっかり失った人もいました。このおかげで、群を抜こうとすること、人の称賛と人気を求めることは人生の正しい道では全くなく、真の幸せな人生をもたらせないと私は一層はっきり悟ることができました。そうすることはますます邪悪になって堕落するだけであり、たとえ手に入っても、空虚さと苦痛でしかありません。これはサタンが人類に危害を加える悪しき手段の一つなのです。
このことを全て悟った私は、突然心の中に光を感じ、もはや有名になることにそれほど執着もせず取りつかれてもいませんでした。それは正に神の私への救いのおかげです。もし神の御言葉の暴露がなければ、名声と利益の追求が自分に与えた害を自覚できず、サタンに弄ばれ傷つけられたままであったでしょう。今の私は新しい人生設計を立てる必要があり、一文の得にもならない名声と利益はもはや求めていません。
新たな方向性を見出だす
「忘れ去ろう」と言うのは簡単でしたが、いざ実行するとなると、本当はあまり気がすすまないことがわかりました。結局、私は30数年も血と汗と涙を漫画に捧げたのです。しかし、名声と利益の追求が自分にもたらした全ての苦しみを思い出すと尻込みしました。それで、私は祈りの中で神の御前に出て、前に進み、この追求の束縛から解き放れるように導いてくださるようにお願いしました。私は後に「唯一の神自身III」における神の次の御言葉を読みました。
「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本來の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を墮落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による採配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機會であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」
神の御言葉は正しい道と求めるべき方向性を私に示してくださいました。名声と利益の追求による苦痛から自分を解放するために、私は以前の誤った目標と人生観を捨て去り、名声と利益はサタンが人類を堕落させるためのやり方の一つであると悟らなくてはなりませんでした。人に好かれ尊敬されるように他人より秀れ、有名になろうとするのをやめなければならず、そうではなく自分の人生を神の手に委ね、自分の進路に関しては神の支配と采配に従わなくてはならなかったのです。善良で堅実な人にならなくてはならず、全てのことにおいて創造主の権威を受け入れ、経験して知り、被造物の一つとしての自分の本分を果たすことに専念し、神に与えられた使命を成し遂げなければなりません。それだけが人生における価値であり、最も意味のある人生を送るための道です。
過去には、私は神の御心が分からず、それどころか名声と利益のためだけに30年以上も骨を折ってきました。人生の方向性を失い、サタンに弄ばれて大変苦しみました。今や神の御言葉に実践の道を示されたので、二度とサタン的な邪説と思考に基づいて生きることは決してしません。神は私たち人間のために万物を創造し、私たちにいのちを吹き込んでくださいました。そして終わりの日に、神は再び人類のもとで働き、人類を救うために肉となられました。私は神が授けられたもの全てを享受する被造物なので、良心と理知を持ち、神の愛に報いるために神の御前にて私の本分を果たすべきなのです。神は私に描く力をお恵みくださったのですから、私はその賜物を用いて創造主に証しをし、神に満足していただくために生きるべきです。ひとたびこれを理解すると、私の心はかなり明るくなり、それからどのような道を進むべきであるのかが分かりました。
被造物として基準を満たそうとすることのみが価値と意味ある生き方
ある日、ディボーション中に神のこの御言葉を目にしました。
「あなたがたが邪悪と堕落の地から離れ、邪な集団と離別するならば、その時、あなたがたの考え、霊、そして心が虐げられたり堕落させられたりすることは無くなるであろう。あなたがたが清らかな場所へ来て、神の御前に来る時、それは大いなる恵みではなかろうか。……宇宙の万物や地球に住む数十億の人間のうちのひとりとして、こうした自らの本分を尽くし、責任を果たすことに自らを捧げることによって創造主の業の証しに立つ機会を得られる者は何人居るであろうか。誰がこうした機会が得られるであろうか。そうした者は多数居るであろうか。そうした者は全体の何割であろうか。(1万人に1人である。)1万人に1人居るであろうか。いや、それよりも少ないであろう。とりわけ、あなたがたは習得した知識を用いて自らの本分を尽くしている。これは極めて有意義である。これは極めて大いなる祝福ではなかろうか。あなたがたは、特定の人間の証しに立っているのでも、些細な活動に参加しているのでも無い。あなたがたが仕えているのは、創造主である。何と素晴らしい事であろうか。……全ての創造物のうち、ここに居る諸君以上の恵みを授かっている者や集団は一切存在しない。他人は何のために生きるであろうか。他の者は、輪廻のため、そして地の刺激のために生きる。あなたがたは何のために生きるであろうか。あなたがたは、創造物として自分の本分を尽くすために生きる。そのように生きることは貴いことではなかろうか。それは極めて貴い。」(「自らの真心を神に捧げた後に真理を得ることができる」より)
私は神の御言葉を読んで非常に感動し、神に選んで頂き、神の家族の楽園へ導いて頂いたことに感謝しました。神は御言葉をもって、私を潤し養い、啓き導いてくださり、そのおかげで私はサタンが人類を堕落させ傷つける戦術を見極められます。私は二度と名声と利益のためにあんなに苦い努力をすることはありません。教会では、兄弟姉妹に何か困ったことがあるといつでも誰もが真理について交流し合い、辛抱強くその人を支え、助けていることを見てきました。兄弟姉妹の間に争いや誤解が生じても、皆が純真で率直で、思っていることを打ち明ける誠実な人々です。これは私にこの上ない自由と解放をもたらしました。
非常に多くの兄弟姉妹が熱心に自らの本分を果たし、神の国の福音に全てを捧げています。自らの本分を果たす過程で、彼らはますます真理を理解するようになり、神に関する認識が次第に増し、自分たちのいのちにおいて急速に前進しています。この様子を見て私は彼らを立派に思い、自分の本分を果たせることも楽しみにしていました。その後、作品を海外の出版社に持ち込むことを完全にあきらめて、教会で福音漫画を制作することを学び始めました。神の導きにより、素早く習得しました。今では自分のこの強みを神の証しをするために使えることを非常に光栄に思います。実体験から学んだのは、名声と利益を求めることをやめ、神の支配と采配に従い、被造物の本分を果たし、神の配慮と指導の中で生きることでした。こうして初めて私の心は本当に落ち着き、安らぐのです。このような霊的な喜びと平安は、物質的な楽しみや名声や利益で代用できるものでは決してありません。
人生は短く、光陰矢の如し、全ては儚いのです。一日も無駄にできません。私は自分の本分を果たす上で、真理を追求し、神の権威を理解して自分のサタン的で堕落した性質を捨て、真に神に従って崇敬する者になることを目指します。神に感謝します。