東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神の最新の働きを知り、神の歩みに従う

2019-09-09 10:06:31 | 書籍

神の最新の働きを知り、神の歩みに従う

現在、あなたがたは神の民になることを求め、正しい道に全面的に入り始めるべきである。神の民になることは、神の国の時代へ入ることを意味する。今日、あなたがたは正式に神の国の訓練に入り、あなたがたの未来の生活は以前のように怠慢でいい加減ではなくなる。そのような生活では神が求める基準を達成することができない。緊迫感がないのであれば、それはあなたには自らを改善する意欲がなく、あなたの追求はまごつき混乱しており、あなたは神の心を満足させることができないということである。神の国の訓練に入ることは、神の民の生活を始めることを意味する。あなたはそのような訓練を受け入れる覚悟があるか。緊迫感を感じる覚悟があるか。神の鍛錬の下で生きる覚悟があるか。神の刑罰の下で生きる覚悟があるか。神の言葉があなたに臨み、あなたを試すとき、あなたはどう行動するのか。あらゆる事実に直面したとき、あなたは何をするのか。過去において、あなたはいのちには重点を置いていなかった。今日、あなたはいのちの現実に入り、いのちの性質の変化を求めなければならない。これは神の国の民によって達成されなければならないことである。神の民である者はみないのちを持ち、神の国の訓練を受け入れ、いのちの性質における変化を求めなければならない。これは神の国の民に対して神が求めるものである。

神の国の民に対する神の要求は次のとおりである。

1.神の委託を受け入れなければならない。つまり、終わりの日の神の働きにおいて語られたすべての言葉を受け入れなければならない。

2.神の国の訓練に入らなければならない。

3.神に動かされる心を持つよう求めなければならない。あなたの心が完全に神に向いて、正常な霊的生活があれば、あなたは自由の領域で生きることになり、それは神の労りと保護のもとで生きることを意味する。神の労りと保護のもとに生きるときにのみ、あなたは神に属すのである。

4.神によって得られなければならない。

5.地上で神の栄光の顕れとなければならない。

これらの五点はあなたがたへのわたしの委託である。わたしの言葉は神の民に向けて話されており、もしあなたが進んでこれらの委託を受け入れないのなら、わたしは強制しない。しかし、もしあなたが誠実に受け入れるなら、あなたは神の旨を行うことができるだろう。今日、あなたがたは神の委託を受け入れ始め、神の国の民になることを求め、神の国の民であるために要求される基準を達成することに取り組む。これが神の国に入る第一歩である。神の旨を完全に行いたいなら、これらの五つの委託を受け入れなければならず、これらを達成することができれば、あなたは神の心に適い、神は必ずあなたを大いに用いるだろう。今日重要なことは、神の国の訓練に入ることである。神の国の訓練に入るには霊的生活が関わる。以前は霊的生活について語られたことはなかったが、今日、あなたは神の国の訓練に入り始めるので、正式に霊的生活に入ることになる。

霊的生活とはどのような生活であろうか。霊的生活とは、あなたの心が完全に神の方に向き、神の愛に心を留める生活である。それは神の言葉の中に住む生活であり、心を占めるものはほかになく、今日神の心を把握することができ、そして今日聖霊の光によって導かれてあなたの本分を尽くす生活である。人と神との間のそのような生活こそが霊的生活である。今日の光に従うことができないならば、あなたの神との関係において距離が開いたのである。関係は絶たれたのかもしれない。そして、あなたには正常な霊的生活がない。神との正常な関係は、今日の神の言葉を受け入れるという基盤の上に築かれる。あなたには正常な霊的生活があるであろうか。神と正常な関係にあるであろうか。あなたは聖霊の働きに従う人であろうか。あなたが今日聖霊の光に従うことができ、神の言葉の中にある神の心を把握し、これらの言葉に入ることができれば、あなたは聖霊の流れに従う人である。聖霊の流れに従わなければ、あなたは間違いなく真理を追求しない人である。自らを改善する願いを持たない人々の中で聖霊が働く機会はなく、その結果、そのような人々は決して力を奮い起こせず、常に消極的である。今日、あなたは聖霊の流れに従っているであろうか。聖霊の流れの中にいるであろうか。消極的な状態から脱したであろうか。神の言葉を信じる人々、神の働きを基盤とする人々、今日聖霊の光に従う人々はみな聖霊の流れの中にいる。神の言葉が疑いの余地なく真実で正しいと信じるならば、そして神が語ることが何であろうと神の言葉を信じるならば、あなたは神の働きに入ることを追求する人であり、このようにしてあなたは神の心を満足させる。

聖霊の流れに入るためには、神との正常な関係を持たなければならず、消極的な状態からまず抜け出さなければならない。常に多数派に従う人々がいるが、そのような人々の心は神からあまりにも遠く離れてしまっている。彼らは自らを改善することを願わず、追求する基準はあまりに低い。神を愛することを求め、神によって得られることを求めることのみが神の心である。神の愛に報いるために良心のみを使う人々がいるが、これは神の心にはほど遠い。追求する基準が高ければ高いほど、いっそう神の心に調和する。正常な人、神を愛することを求める人として、神の国に入り神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、それは最高の価値と意義を持つ生涯である。あなたがたより祝福されている人はいない。なぜわたしはこう言うのか。それは、神を信じない人々は肉のために生き、サタンのために生きるが、今日あなたがたは神のために生き、神の旨を行うために生きているからである。あなたがたの生涯には最大の意義があるとわたしが言うのはこのためである。神によって選ばれた人々のこの集まりだけが、最も意義のある生涯を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意義のある生涯を生きることはできない。あなたがたが神に選ばれ、神に引き上げられているために、さらにあなたがたへの神の愛のために、あなたがたは真の人生を理解し、最高の価値を持つ生活をする方法を知っている。これはあなたがたの追求が良いからではなく、神の恵みのためである。あなたがたの霊の目を開いたのは神であり、あなたがたの心に触れ、神の前に来る幸運を与えたのは神の霊であった。神の霊があなたがたを啓かなかったなら、あなたがたは神のどこが美しいかが分からず、神を愛することもできないだろう。それはひとえに神の霊が人々の心に触れて、彼らの心が神に向いたからである。あなたが神の言葉を享受しているときに、あなたの霊が動かされ、神を愛さないわけにはいかないと感じる時がある。あなたの内に大きな力があり、放棄できないものは何もないと感じる。このように感じるならば、あなたは神の霊によって動かされたのであり、あなたの心は完全に神に向き、あなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたにより前もって定められ、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、神の民の一人であることを光栄に感じます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げて、あなたの御旨を行い、私のすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」このように祈るとき、あなたの心に神への終わりのない愛と真の服従がある。このような経験をしたことがあるだろうか。神の霊に頻繁に動かされると、人々は祈りの中で特に自発的に自らを神に捧げる。「神よ、私はあなたの栄光の日を見たいと願い、あなたのために生きたいと願います。あなたのために生きるより価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという望みは少しもありません。今日あなたのために私が生きられるようにしてくださることで、あなたはわたしを引き上げてくださいます」このように祈ったならば、神にあなたの心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ずに死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのように祈った後では、あなたの内に無尽蔵な力があり、あなたはその力がどこから来るのか分からない。あなたの心の中に無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があると強く感じる。神に動かされた時はこのようになる。このような経験をした人々はみな神に動かされたのである。神に頻繁に動かされる人々には、いのちに変化が起こる。決断を下すことができ、完全に神を得ようとする。心の中で神への愛はさらに強くなり、心は完全に神に向かい、家族、世間、複雑な人間関係や自分の未来への心残りはなく、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊に動かされた人々はみな真理を追求する人々であり、神により完全にされる見込みのある人々である。

あなたは神に心を向けたであろうか。あなたの心は神の霊によって動かされただろうか。そのような経験をしたことがないならば、そして、そのように祈ったことがないなら、それはあなたの心に神の居場所がないことを示している。神の霊によって導かれ、神の霊に動かされた人々はみな神の働きを有しており、これは、神の言葉と神の愛がその人々の中に根付いたことを示す。このように言う人がいる。「祈るとき、私はあなたのように真剣ではなく、そのように神に動かされたこともありません。時々、瞑想し祈るとき、神は美しいと感じ、心が神によって動かされるのを感じます」人の心より重要なものはない。あなたの心が神に向いているならば、あなたの全存在が神に向いており、その時にあなたの心は神の霊によって動かされているだろう。あなたがたのほとんどにはそのような経験があり、ただ各自の経験の深さが同じではないということだけである。このように言う人々がいる。「祈りでは多くの言葉を言わず、ただ他の人々の交わりに耳を傾けますが、そうすると力が私の内に湧いてきます」これは、あなたが内面で神に動かされたことを示している。内面で神に動かされた人々は、他の人々の交わりを聞くと鼓舞される。感動的な言葉を聞いても心がまったく動かないのであれば、これは聖霊の働きがその人々の中にないことを示す。人々の内面には渇望がなく、それは決意がない証拠であり、従ってそのような人々には聖霊の働きがない。神に動かされた人々は、神の言葉を聞くと反応を起こす。神に触れられていなければ、彼らは神の言葉に与ることがなく、神の言葉は彼らに関係がなく、彼らは啓かれることができない。神の言葉を聞いて反応がなかった人々は、神に動かされなかった人々である。そのような人々は聖霊の働きがない人である。新しい光を受け入れることができる人々はみな動かされ、聖霊の働きを有している。

あなた自身を評価しなさい。

1.あなたは聖霊の現在の働きのただ中にいるか。

2.あなたの心は神に向いているか。神に動かされたか。

3.神の言葉はあなたの内に根付いたか。

4.あなたの実践は神の要求の基盤の上に築かれているか。

5.あなたは聖霊の現在の光の導きのもとに生きているか。

6.あなたの心は古い観念によって支配されているか、それとも神の現在の言葉によって支配されているか。

このような言葉を聞いて、あなたがたの内なる反応はどのようなものであろうか。何年もの間信仰してきて、あなたのいのちとして神の言葉を持っているか。以前のあなたの堕落した性質に変化があったであろうか。神の現在の言葉によって、いのちを持つことが何であるか、いのちを持たないことは何であるかを知っているか。これはあなたがたにとって明らかであろうか。神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちに入ることを求めているのであれ、神の心を満足させることを求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならないということである。交わり求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っているのだ。神が求めるのは神の歩みに従う人々である。あなたが前に理解したことがどれほど素晴らしく純粋であっても、神はそれを求めておらず、そうしたことを脇へやることができないなら、それは将来あなたが真理に入るときの大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従うことができる人々はみな祝福されている。過去の人々も神の歩みに従ったが、今日まで来ることはできなかった。これは終わりの日の人々の祝福である。聖霊の現在の働きに従うことができ、神の歩みに従える人々は、神が導くところがどこであろうと神に従うのので、神に祝福されている。聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々は神によって賞賛されない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に適うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に適うことをなすことはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は自らの心に適う奉仕を望む。神は観念と肉による奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は邪魔になり混乱を引き起こす。そしてそのような奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に逆らっており、神と調和できない。「聖霊の働きに従う」とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要求に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。そのような人々は神の賞賛を受け、神を見ることができるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることができる。さらに、奉仕の過程で自らの性質をだんだんと変えることができる。このような人々のみが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人々である。聖霊の働きにより排除される人々は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人々である。そのような人々が公然と神に反対するのは、神が新しい働きを為し、神の姿が彼らの観念にある神の姿と同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神を裁き、そのため神により嫌悪され、拒絶される。神の最新の働きについて認識を持つのは簡単ではないが、しかし意図的に神の働きに従い、神の働きを求めることができれば、人々は神を見、聖霊の最新の導きを得る機会を得るだろう。神の働きに意図的に反対する人々は、聖霊の啓きや神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けることができるか否かは、神の恵みと、人々の追求と、彼らの意図にかかっている。

聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができ、さらには、古い観念を脇へ置いて、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって予め決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。これはすべて神の働きの故であり、神の予定と選択の故であり、また神の恵みの故である。もし神が語らず、言葉を発しなかったなら、あなたがたの境遇は今日のようでありえたであろうか。それゆえ、すべての栄光と賛美が神にあるように。これはすべて神があなたがたを引き上げるからである。これらのことを念頭に置くなら、依然として消極的であり得るだろうか。力がまだ湧きあがらないだろうか。

神の言葉の裁き、刑罰、打撃、精錬をあなたが受け入れることができ、しかも神の委託を受け入れることができることは、この世の始まる前に神が予め定めたことであり、そのためあなたが刑罰を受けるときあまりに苦しむ必要はない。あなたがたの内でなされた働きと、あなたがたの内に授けられた祝福を取り除くことは誰にもできず、あなたがたに与えられたものすべてを取り去ることは誰にもできない。宗教の人々はあなたがたとの比較に堪えない。あなたがたには聖書に関する偉大なる専門知識はなく、宗教理論もないが、神があなたがたの内で働いたので、幾時代にも渡る誰よりも多くのものを得た。つまり、これがあなたがたの最大の祝福である。このため、あなたがたは神にさらに献身的でなければならず、神になおさら忠実でなければならない。神はあなたを引き上げるので、あなたは努力を強化しなければならず、神の委託を受け入れるために霊的背丈を整えなければならない。神があなたに与えた場所にしっかり立ち、神の民の一人になることを求め、神の国の訓練を受け入れ、神によって得られ、最終的には神への栄光の証とならねばならない。こうした決意をどれほどあなたは持っているであろうか。このような決意があれば、最終的にあなたは確かに神によって得られ、神への栄光の証となるだろう。主な委託は神によって得られ、神への栄光の証となることであることを理解しなければならない。これは神の心である。

聖霊の現在の言葉は聖霊の働きの動きであり、この期間の聖霊による人の継続的な啓きは聖霊の働きの動向である。では、今日の聖霊の働きの動向は何であるか。それは人々を神の現在の働きへと、正常な霊的生活へと導くことである。正常な霊的生活に入る段階はいくつかある。

1.まず、神の言葉にあなたの心を注がねばならない。過去の神の言葉を求めてはならず、それを研究したり今日の言葉と比較してはならない。その代わりに、神の現在の言葉に心を完全に注がねばならない。過去の神の言葉、霊的書物、説教の記述を読むことを依然として望み、聖霊の現在の言葉に従わない人々がいれば、それは最も愚かな人々である。神はそのような人々を忌み嫌う。今日聖霊の光を進んで受け入れようとするなら、神の現在の言葉に完全に心を注ぐこと。これこそ先ず最初に達成しなければならないことである。

2.神の語る現在の言葉を基礎として祈り、神の言葉に入り、神と親しく交わり、神の前で決意し、達成しようとする基準がどのようなものかを設定しなければならない。

3.聖霊の現在の働きを基礎として真理へ深く入ることを追求しなければならない。過去の時代遅れの言葉や理論に執着してはいけない。

4.聖霊に動かされ、神の言葉に入ることを求めなければならない。

5.今日聖霊が歩む道へ入ることを追求しなければならない。

聖霊に動かされることをどのように求めるのか。重要なことは神の現在の言葉に生き、神の要求することを基礎として祈ることである。このように祈ったなら、聖霊は必ずあなたを感動させるだろう。神が語る現在の言葉の基礎に立って求めないなら、これは無益である。あなたはこう言って祈るべきである。「神よ。私はあなたに逆らい、あなたに多くの負債を負っています。私は大変不従順であり、一度もあなたを満足させることができません。神よ。あなたが私を救ってくださるよう願います。最後まであなたに奉仕することを願い、あなたのために死ぬことを望みます。あなたは私を裁き、罰されますが、私に不満はありません。私はあなたに逆らったので、死に値します。人々がみな私の死にあなたの義なる性質を見ることができるでしょう」このように心から祈るとき、神はあなたの言葉を聞き、あなたを導くだろう。聖霊の現在の言葉を基礎にして祈らないなら、聖霊があなたを感動させる可能性はない。神の心に従って祈り、そして神が今日行おうと望むことに従って祈るなら、あなたはこう言う。[a]「神よ。私はあなたの委託を受け入れることを願い、あなたの委託に忠実でありたいと願います。そして、私にはあなたの栄光に一生を捧げる覚悟があり、そうすることで、私が為すすべては神の民の基準に達することができます。あなたが私の心を動かされますように。あなたの霊が常に私を照らし、私が為すすべてがサタンに恥をもたらし、最後にあなたが私を獲得されることを望みます」神の心に集中し、このように祈れば、聖霊は必ずあなたの内で働くであろう。祈りの言葉がどれくらいあるかは問題ではない。重要なのは、あなたが神の心を理解するか否かである。あなたがたはみな次のような経験をしたことであろう。集会で祈っているあいだに聖霊の働きの動きが頂点に達し、あらゆる人々の力を湧きあがらせる。祈りながら悲痛な泣き声を上げて、涙を流し、神の前で良心の呵責に圧倒される人々がおり、また決意を示し、誓いを立てる人々もいる。聖霊の働きによって達成される効果はこのようなものである。今日、人々がみな自分の心を神の言葉に完全に注ぐことが重要である。以前に話された言葉に集中してはいけない。以前に来たものにしがみつけば、聖霊はあなたの内で働かないであろう。これがどれほど重要なのか分かるだろうか。

今日、聖霊が歩く道をあなたがたは知っているであろうか。上記のいくつかの点は現在と将来、聖霊によって達成されるべき事である。それらは聖霊が歩く道であり、人が追求すべき入り口である。いのちに入るとき、少なくとも神の言葉に心を注ぎ、神の言葉の裁きと刑罰を受け入れることができなければならない。心は神を切望せねばならず、真理に深く入ることと神が要求する目的を追求しなければならない。この力を持てば、それはあなたが神に動かされ、あなたの心が神に向かい始めたことを示している。

いのちに入るための最初の段階は、神の言葉にあなたの心を完全に注ぐことである。第二の段階は、聖霊によって動かされることを受け入れることである。聖霊に動かされることを受け入れることにより達成される効果は何であるか。より深遠な真理を渇望し、求め、模索できるようになること、そして積極的な方法で神と協力できるようになることである。今日、あなたは神と協力する。それはつまり、あなたの追求と、祈りと、神の言葉の交わりには目的があるということであり、神の要求に従い本分を尽くす。こうすることだけが、神との協力である。神に行動させることについて語るだけで、何の行動も取らず、祈りも求めもしないのであれば、これは協力と呼べるだろうか。あなたのうちに協力というものが全くなく、目的を持っていのちに入る訓練がないなら、あなたは協力していない。「すべては神の予定に依ります。すべて神自身によって行われます。神が行わないのであれば、どうして人にできますか」という人がいる。神の働きは正常であり、全く超自然的なものではなく、聖霊が働くのはあなたの積極的な求めを通してのみである。それは、神は人を強制しないからである。働きを為す機会をあなたが神に与えねばならない。あなたが求めず、いのちに入らず、心に少しの渇望もなければ、神が働く機会がない。どの道を通して神に動かされることを求めることができるのか。祈りを通して、そして神に近づくことによってである。しかし憶えておきなさい。最も重要なのは、それが神の語る言葉の基礎の上になければならないということである。神に頻繁に動かされると、あなたは肉の奴隷にはならない。夫、妻、子供、金、こうしたものはどれもあなたを縛ることができず、あなたはただ真理を追求し、神の前で生きることを望む。この時、あなたは自由の領域に住む人になるであろう。

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